ペン森通信
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学生には未来が開けている
ペン森のある神保町まで京王線の自宅最寄り駅から準特急に乗って、笹塚で急行に乗り継げば乗車時間40分で着く。ところがこれを利用すると新宿についてしまう。居眠りして笹塚を通り過ぎてしまうからである。だから、乗車ほぼ1時間の快速か区間急行煮ることがほとんどだ。いま井上靖の『蒼き狼』を再読しているが、うとうととして本を落としてしまい、そのままにして新宿に着く。幸い神保町を行きすぎたことは2回しかない。

井上靖は何回もノーベル文学賞をもらうのではないかと国内ではうわさされ、毎年記者たちが自宅前に群がった。静岡の三島に井上靖文学館がありそこに16期生につれていってもらったことがある。その16期生は東大柔道部出身、旧制金沢高校で柔道に取りくんだ井上には寝技の旧帝大柔道を継承する身として特別の愛着があったらしい。ぼくはぼくで、井上とは顔見しりだし、ましてや同じ毎日新聞の記者の大先輩でもある。

『蒼き狼』は井上が得意とする西域もので、モンゴルのジンギスカン(成吉思汗)の生い立ちから描いている。ぼくは昔読んだが、ふたたび読みはじめた。いまジンギスカンは20代で部族間の争いを繰り返している最中だ。まだモンゴルの支配者、カン(汗)にはなってない。本名の名前、鉄木真(テムジン)と呼ばれている。真田幸村が源次郎と呼ばれていたのと同じだ。これから汗になりモンゴル部族を統率してって世界に遠征していく。

最近は学生のほうから井上文学館に行ったことがないなら行きましょうよ、と声をかけられることがさっぱりなくなった。それだけでなく学生が歴史的な現場へ行くことがなくなった。作文に書くのは小中高時代の古い記憶だけであるから、すぐにネタが尽きる。だから発見がない。恥ずかしながら、ぼくも78歳の老人になったせいか、このブログは古い話がほとんどだ。それでも78年の歴史があるから昭和を語っても説得力があると思う。

ペン森だけでも21年がすぎている。老人は先の見通しよりも考える尺度は過去にある。本日ペン森に来る途中市ヶ谷で人身事故があって、京王線と都営新宿線の乗り入れは新宿でストップした。バスタからタクシーに乗った。運転手は北海道・小樽出身の60代だったから昔はよかった式の話題で盛り上がった。ぼくは南九州だから真反対の位置にあるのに地球温暖化はどうなるのだろうと妙に話が合った。今年北海道は台風や大雪に襲われた。

 温暖化現象は来年改善されるわけではなくもっとひどくなるだろう、というのが2人の老人の一致した意見。ましてや二酸化ガス排出の多いアメリカは次期大統領のトランプがパリ協定に反対し、中国も北京は子どもを外で遊ばせる空気ではないと言うから、先行きは暗い。日本も経済の発展期公害に悩んだ経験があるが、清潔民族ゆえあっさりと乗り越えた。いまでは公害防止機器を中国に輸出して稼げばいいのでは、という声も強い。

 『蒼き狼』からとんだ方向に展開してしまったが、要は学生はもっと歴史的な現場へ足を運んで奥行きのある作文を書いてくれということ。本も読んでほしい。歴史にもなじんでもらいたい。学生には未来が開けているんだぞ。蒼き狼を目指せ



戦艦武蔵の最期野生存者
ペン森に来る学生のうち12月4日夜9時からのNHKスペッシャル「戦艦武蔵の最期」を見た者がいたかどうか。いたとしてもごくすくないだろう。ぼくは最後まで目を凝らした。もしかして生存者の1人、社会部の先輩記者塚田義明が出るかも、という期待があったからである。武蔵は「宇宙戦艦ヤマト」で知られる戦艦大和ほど有名ではないが、吉村昭によってドキュメンタリー小説で造艦過程が描かれ名高い巨大戦艦となった。

同じ巨大戦艦には「宇宙戦艦ヤマト」で有名な戦艦大和がある。大和が1号艦、武蔵が2号艦である。どれほど巨大かと言うと、長さは東京駅がすっぽり入るくらい。高さは10階建てのビル並み。大砲にいたっては40キロ先の敵艦を攻撃できた。武蔵は米軍機の波状攻撃を受けてフィリピン沖で撃沈されたが、それが今年深海に沈んでいるのが発見された。遺体も共に沈んでいるのである。わずかな生存者の中に16歳の少年兵だった塚田もいた。

Nスペを見ながら大学生の時に読んだ『戦艦大和ノ最期』という吉田満の戦記ものを思い出した。武蔵も大和も旧日本海軍の大鑑巨砲主義を象徴する戦艦だった。吉田は日銀理事になるが、大和の乗組員として出港から米軍に撃沈されるまでを克明に描いている。大和は沖縄に上陸した米軍の本土上陸を阻止するために行きだけの燃料を積んで向かった。特攻である。武蔵の塚田は戦友の肉片が甲板上にこびりついていた、と証言していた。

大和の吉田もついさっきまで元気に動き回っていた兵隊の肉片がまわりに付着したさまを描いている。吉田の『戦艦大和ノ最期』はカタカナと漢字で表現されている。わずか3日間で書いたと言う。その臨場感には鬼気迫るものがある。ぼくは南九州にいたから米軍の本土上陸に備えて日本軍が小学校までを宿舎にしていたことを知っている。若い上官に年配の兵隊が教壇で殴られているのも目撃した。その衝撃はまだ記憶の底に潜んでいる。

おりしも2月8日の真珠湾攻撃の開戦日に首相の安倍はハワイを訪問して犠牲者に慰霊の黙祷をささげた。真珠湾攻撃がなければ広島・長崎への原爆投下もなかったのだ。広島のそのときの様子は平和公園のベンチで語り部から聞いたが、堀川恵子の『原爆慰霊塔』にも詳しく描いてある。この種の本を読むペン森生はすくなくなった。ただ最近、大和を建造した軍港・呉を舞台にしたアニメ『この世界の片隅に』を見たかと問われ困った。

戦艦武蔵の生き残り塚田は89歳になっていた。ぼくはが社会部にいたのは30代が中心だったので塚田は40代後半だったはずだ。誠実なきっちりとした壮年だった。たしかぼくが八王子支局に赴任したとき府中通信部にいたような気がする。かれが海軍の少年兵として戦艦武蔵に乗艦していたとだれからか聞いた。Nスペの最後にも登場して「戦争はするもんじゃない」と口調もしっかりとコメントしたが、風貌はかなり年老いていた。

トランプの当選に刺激を受けたのか世界は右傾化してざわついている。平和を求めてきた民主主義もあやしい風向きとなってきた。首相の安倍はトランプと波長が合うと喜ぶ向きもあるが、ばかばかしい。カジノ法案で公明党ではなく維新とタッグを組んだのは念願の憲法を変えるには維新のほうが都合がいいということだろう。











人生は夢のようだった
土日の休みが待ち遠しくなった。2日間の休日だけではなかなか疲れがとれない感じもある。すべては老齢のせいだ。もうとっくに引退してもおかしくない年である。だいたい入塾してくる22期生は孫娘よりも年下だ。先々週14期生女子記者にご馳走になったが、「お孫さんはあのとき高校生でした?」と聞かれた。あのときというのは広島へ行って彼女にペン森卒業証書を手渡したときだ。高校生だったかなあと思案したが思い出せない。

孫が大学生になってからいっしょに旅をしたのは松本を経て飛騨高山と金沢をめぐったのと大震災に遭った南三陸へ向かったとき以外にない、と思う。どうも記憶はあいまいになっている。大学3年生まで旅をして、4年生時は実行しなかったから3年生時まであと1回はどこだったか。どうやらペン森生と行ったのと記憶がこんがらがっている。ペン森生と旅をしたのは長野県の小諸、上田だけだ。列車で行ったからもう車の免許はなかった。

70歳で車の免許は放棄した。大学の講師も延長がなかったので、これも自然消滅した。ペン森1本だけの生活になって7年がすぎ8年目に入ってきた。57歳で開設していま78歳。リハビリというかストレッチというか体の調節を週3回通いでやっているが、老化のスピードは予想以上に早い。今年の冬を越したらなんとか来年まではもちこえられそうだが、あまり自信はない。最近は焼酎のお湯割り3杯で千鳥足になってしまう。

少量のアルコール摂取で足元が不安定になる経験は10数年前の脳梗塞で倒れたとき以来だ。脳梗塞の再発かとおびえざるをえない。じゃ飲まなきゃいいのにと他人は思うかもしれないが、何十年も続けてきた習慣を突然止めるとかえって肉体の不調を招きそうでこれまた怖い。酒はほんとに弱くなった。すぐ酔ってしまう。最寄り駅から自宅まで徒歩で6,7分しかかからないが、毎日帰宅時タクシーを利用する。ワンメーター730円。

来年の誕生日を迎えることができれば79歳だ。だれでも60歳をすぎると自分の死について考えると言うが、ぼくもしばしば意識するようになった。賢者の辞世集を読むとほとんどが「夢のような人生だった」と振り返っている。ぼくはまだ死ぬわけにはいかない。
がんと闘っている家内を残して逝くことはできないのだ。加えて、来年春には旅の約束があるから、その実現を経てからでないと気持ちが落ち着かない。思い残すことがある。

 ぼくも総じて人生は夢のようだった、と振り返ることができると思う。このまま100歳まで生き長らえるとは思えない。21期生のかわゆい女子たちがおばさんになるまでは生きていないということだ。しかし、生きている間に民主主義が終わり世界の激変があるかもしれないし、それを見届けたい気もする。トランプの米国大統領がきっかけで各国が自国優先主義になり、あげくの果てに戦争がはじまる恐れもなしとしない。

 人間はだれしも生命を閉じる。そんな縁起の悪いことを、という声が聞こえてきそうだが、ひとの死はじきに忘れる。あの親しかった谷雅志が亡くなって4年たつがもはや谷がペン森に貢献したことすら忘却の彼方になりつつある。ぼくが消えてもペン森の卒業生の胸中では生き続けるだろう、と思いたい。

 






締め切りのない心地よさ。
このところ2週間くらいブログの更新をさぼっている。締め切りに追われない状態がこんなにらくなものだとは、締め切り人生を歩んできたものにとってはじめて知った感覚だ。
ぼくは新聞記者が長いが、テレビ記者だと秒単位の世界だから、この味わいはもっと違うだろうと思う。トランプとか南スーダンとか高齢者の運転事故とか書く材料はいろいろあった。ぼくがごときが書かなくても、新聞やテレビで嫌と言うほど報じられているからそれでよしとしよう。来週は更新してもよいと考えるが、またさぼったらごめんなさいです。とは言ってもだれも期待してないか。


大川小の児童は救えたはず
5年半前の大震災被災地には2回行ったが、その2回とも児童・教職員84人が死亡、行方不明となった石巻市の大川小学校を訪ねた。校舎入口わきに献花台が置かれ、無数の花がた向けられていた。無人の校舎内は津波で荒々しく洗われ、校庭のすぐ裏に山がせり出していた。山はこう配がきついが、児童たちがシイタケを栽培して学習に使っていた。この山に登っていれば児童70人の死亡と行方不明4人の大半は助かったはずだ。

児童23人の遺族が仙台地裁に県と市を相手取って23億円の損害賠償を求めていた。仙台地裁は26日県と市に14億2658万円の支払いを命じ、大川小訴訟は遺族側が勝訴した。しかし、遺族にとってはこれで一件落着とはいかないだろう。亡くなったり、行方不明の児童はもどってくるわけではないのだから。児童たちは校庭に集合して50分も座って待たされたあげく、7メートルの高台に引率されて避難する途中津波に呑まれた。

裁判で問われたのは、教職員が市の広報車の巡回によって大津波の襲来を認識していたのに、適切な避難措置をとなかったことだ。現に裏山避難を訴え実行した教員は唯一助かっている。臨機応変の態度がとれなかった先生たちであった。先生の言うことを守ったばかりに児童たちは命をなくした。児童たちをじっと校庭に待たしている間校舎にいる先生たちは50分間裏山に上って避難すべきかどうか意見を言い合っていたのだろうか。

決断できない罪ということをぼくは思った。ぼくは現場に行って裏山に逃げればよかったものをと考えたが、それはしろうとの後付けかもしれない。それでも校庭に立つと選択肢はやはり裏山しかない。まして、市の広報車の運転手は津波襲来を目撃して、大川小周辺に引き返して危険を呼びかけたのだ。先生たちは津波が来る予見はあっても危険性を察知できなかったのである。大川小は市の避難場所に指定されていたから、余計そうだ。

石巻市で「ここまでは津波はくるめえ」とおじさん2人がゆっくりとたばこをくゆらしていたところを津波にさらわれた、という話も直接聞いた。津波に対する切迫感はあまりなかったのだろう。ペン森でもヘルメットと縄はしごを買って備えているが、大掃除のさい邪魔扱いされてどこかに埋もれている。ペン森はビルの2階だから大げさな避難用具は必要ないかもしれないが、上階の重さで出入口のドアが開けられなくなる心配がある。

大川小関係は新聞の大川小裁判報道に依拠しているが、このようなニュース記事にでも涙が出るようになった。小泉元首相も涙もろくなったが、歳をとるとどうして涙腺がゆるむのだろうか。小泉は原発ゼロに熱心だが、最近では東北大震災で米軍がトモダチ作戦で支援した支援米兵たちが放射能が原因とみられる鼻血・下血・甲状腺がんなどの健康被害に遭っていることを訴え支援基金を発足させた。小泉の生き方にぼくは全面的に賛同したい。

 当然ながらぼくは大川小の献花台前でも涙があふれた。裏山に逃げれば助かったものを、という感情に支配されみすみすこれからの人生を失った、と思うといたたまれなかった。小学生は先生の言うことが絶対だ。臨機応変に素早い決断をしなかった先生たちの罪は一生かかっても償えない。










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