ペン森通信
ペン森生よ熊本へ走れ!
熊本地方は風水害に備えて、かわらぶき屋根が大半でそのかわらに重量がある。テレビの画面から重いかわらによって家が押しつぶされたようになっている様子もうかがえた。ぼくが宮崎県の鹿児島県に近い農村に住んでいた小学生当時、台風が接近するとおやじが雨戸に表から太い板を打ち付けていた。夜台風が襲来してくると風の音が不気味で家の中の座敷にいる家族は畳が風圧で床下から持ちあがり、気持ち悪く恐怖に震えたものだ。

ぼくは台風取材の経験はあるが、地震取材の経験はない。熊本には東京からも大勢の記者が現地入りしたが16日深夜にあった2回目の震度7の本震にはさぞ肝を冷やしたことだろう。地震嫌いのぼくは現役でなくてよかった、と心底思った。台風取材は九州の西部本社にいたとき、台風の目を探して風雨の中をベンツで駆け回った。台風の目を探し当ててどうするつもりだったのだろうか。いまとなってはさっぱりお見当もつかない。

土砂崩れ取材もした。東京の本社から四国へ飛んで現場へ行った。当時コント55号がテレビで活躍していたころで、遺体に1番から整番号をつけて安置してあった。ところが55番だけが身元不明。遺体は激しい土砂崩れに巻き込まれているから顔どころか、体全体がばらばらになっている。もちろんDNA鑑定はない時代だ。55号は引き取りが手ないままだ。ぼくは現在ならネットで叩かれそうな不謹慎にも混沌55号という記事を書いた。

といって現場にそんなに行ったわけではない。社会部では遊軍が長く、主に企画ものに携わった。要するにだれをどこに配置するかといった手配師まがいの仕事だったり、みんなの原稿を長夕刊ごとにまとめたり、正月紙面はこんな企画はどうだろう、といった類。ぼくが遊軍長をしていたころ、遊軍記者は26人いた。大部隊だったのである。いまは当時120人だった社会部員が7,80人に減ったという。1人当たりの負担が大きくなった。

人生は365日、精一杯楽しんだ。古き良き時代にぼくは新聞記者をやっていた。筆記用具も3Bの鉛筆だった。電話で受け取る原稿をB5判の半分くらいのざら紙に書く。ときにはそばに整理部員が控え、書いていく原稿をひったくっていく。知らな漢字があると悲劇だ。なまりの強い記者からの電話原稿には往生したものだ。「えどのえ」ときいても本人は「いどのい」と言ったつもりである。採用試験に漢字があるのはその時代の名残だろうか。

現在はマスコミ間の競争が激しい。不倫が大ニュースになるなんて予想もしてなかっただろう。なにしろ、自慢にはならないがぼく以外はみんな不倫していると思っていたニュースの価値も時代とともに変化する。日経には女性社員を愛人にしている社長がいた。週刊文春が暴いて知れ渡ったのだが、日経記者は社員のだれもが知っていることがどうして話題になるのだろうと首をひねっていた。まあ、首をひねるほうがおかしいけどね。

いま、『蒲団』で知られる私小説作家、田山花袋の『東京震災記』を読んでいる。関東大震災のルポである。あの情痴作家が九段・神保町・神田・深川などを歩いて被災の様子を書いている。なかなかのルポライターぶりである。ペン森生も熊本入りしないかなと期待しているが残念ながらだれもいない。
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