ペン森通信
AKB48を押しのけた古い記憶
 ほとんど見たことのない紅白を大晦日はほぼ全部見た。最近の若者は演歌には興味を示さないがぼくらの年代は、やはり演歌である。唱歌・童謡、演歌、ちょっと下ってフォークソングをラジオとテレビで聞いた世代だ。大学生時代にはテレビはまだ登場しておらず、もっぱらラジオか自分で歌う歌声喫茶で歌唱を耳にしていた。大陸から帰還した叔父はぼくの家に一時居候していて、来る日も来る日も『黄色いリボン』のレコードをかけていた。

 ついこの間まで敵性国家だったアメリカの文化が南九州の農村にまで押し寄せ、帝国陸軍少尉だった叔父は、アメリカ開拓時代の騎兵隊を賛美する歌を覚えようと必死だったのだ。ぼくが小学1年のとき敗戦になり、戦争が終わるとともに、敵性アメリカの文化や物資がどっと教室にまで到来した。ぼくがいまだに牛乳が苦手なのはバケツに入れた脱脂粉乳をひしゃくで汲んで当番が器に注いでくれ、それをのんだ給食のせいである。

 中学生のころだったか、ラジオからは唱歌や童謡が流れていた。童謡好きの母親がいつも川田正子の「みかんの花咲く丘」を聞いていた。いま「みかんの花咲く丘」を聞く機会はラジオでもテレビでもないが、母親と聞いたこの童謡はぼくにとってのセンチメンタル・ソングだ。当時は小鳩くるみという歌手もいた。「みかんの花咲く丘」の歌詞もこの21世紀の人工衛星、ロボット時代には非現実的だが6、70年前は現実だったのだ。

 その歌詞の3番はよく記憶している。《いつか来た丘 母さんと 一緒に眺めた あの島よ 今日もひとりで 見ていると やさしい母さん 思われる》。ぼくがなぜ「みかんの花咲く丘」を思い出したかと言うと、紅白で森進一の「おふくろさん」を聞き、野坂昭如が暮れに亡くなったことによる・連想が働いたのである。森進一は集団就職で上京し最初は靴店の店員になる。病気の母親とぼくの母親の鹿児島の入院先の病室が同室だった。

 森進一は向田邦子と同様、鹿児島に居住していたことがある。ぼくの大学時代のサークルの後輩の親友でもある。森は集団就職で東京に来たのだが、集団就職とは昭和50年60年代の経済成長期に地方の中学高校出の若い労働力が大都市の商店や工場に「金の卵」として集団列車でやってきて雇用されたことをさす。上野商店街が建てたという記念碑が上野駅にある。川越かどこかに記念会館もあり、森進一も訪ねたことがあるそうだ。

 野坂昭如には一回だけいっしょに飲んだことがある。焼け跡闇市派の反戦で通したかれは一時、農本主義を唱えたことがある。ぼくはそれに賛同して、農地豊かな秋田で会おうと待ち合わせた。待てど暮らせどかれは来ない。東京の家に電話をすると「体調が悪い。申し訳ない」と下手なウソをつく。どうせ飲みすぎの2日酔いに決まっているが、そんなに腹は立たなかった。かれの精神の骨格をなす『火垂の墓』に打たれていたからだ。

 本日のこのブログの更新内容は新年のスタートにふさわしく抱負を書くつもりだったが、古い古い思い出話になってしまった。紅白はAKB48はなんとかわいいのだろうと年甲斐もない興奮を伝えるはずだったのにセンチに流れた。今年はAKBのようなかわいい子と会いたいものだ。






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