ペン森通信
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田英夫の評伝を書きたかったが
橋下徹は政界から去る。マスコミをにぎわせた問題児というか革命児が消えてしまうのは残念だが、本人の弁だから仕方ない。決してぼくは好きではなかったけど、これで安倍がもくろむ憲法改定が遠のいて、それだけは嬉しい。敗れ去ったこの大阪都構想と橋下をどう思うか、ぼくは亡くなって月日がだいぶすぎた田英夫に聞いてみたかった。ぼくはやり残したことがあって、それは橋下以上の風雲児田英夫の評伝を書くことだ。

当然、本人の了解もえていたから、あとはインタビューを重ねて執筆して本にするだけの手順だった。ところがぼくが脳梗塞で倒れてしまった。インタビューどころではなくなった。田自身も腎臓が悪く1週間に2回人工透析を受けていた。ぼくの脳梗塞は比較的軽く3週間足らずの入院ですみ、後遺症も大したことはなかった。田の腎臓は1生ものの病気である。もともとやせ形の体型だったが、みるみる痩せて痛々しくなっていった。

田はJNNスコープ(TBS)の初代ニュースキャスターである。ベトナム戦争時北ベトナムに入り市民は通常と変わらぬ生活をしていると「ハノイからの報告」を行う。この反米的な報道が自民党の逆鱗に触れ、TBSの社長が自民党によばれる。表向きはそうではなかったように糊塗されたが、田はニュースキャスターをクビになる。それが1968年であった。71年に参議院に立候補して192万票を獲得しトップ当選を果たす。

田の晩年にぼくは付き合いがあったが、いかにも男爵の孫らしく上品で穏便な人柄だった。最初は社会党議員で社会党を除名になって社民党の党首になる。国会議員になって田中角栄になにかの陳情がてら面会すると封筒を渡された。持ち帰って中を確認すると100万円の札束がはいっていた。ぼくが田の評伝を書くむね毎日新聞の岩見隆夫に伝えると、情報はいっぱいあるから教えるよと言われた。100万円の件を岩見は田から聞いていた。

ぼくが田の名を聞いたのは第一次南極越冬隊の代表報道記者だったからである。NHKのラジオから田の声がよく聞こえてきた。田は東大経済学部の学生だったが、学徒出陣で応召され、海軍の特別攻撃隊員(特攻隊)として宮崎県で出撃を待っていた。出撃の前に敗戦となって命を散らさずにすんだ。戦後、共同通信にはいり1960年に社会部長となる。後年、歴代の社会部長たちが会をもってよく囲んでくれる、と田は喜んでいた。

その田が2001年に勲章を授与される。参議院議員が30年と長かったからだ。ところが朝日の有名な元記者は勲章(勲1等旭日大授賞)をもらったことが腹にすえかねると言っていた。ぼくは田や岩見らとともに「子ども平和基金」という任意団体をつくって戦火のアフガンの子どもたちを支援する活動をしていた。元記者にも加わってほしいと頼んだが、断られた。左翼陣営でがんばった田さんが勲章を受け取ったのが気にくわない、と。

いまの学生諸君は田英夫を知らないだろう。温和なひとだったが、骨っぽいところがあった。一流のジャーナリストだった。最後のころ田英夫は過去を捨てるかのようにジャーナリストとだけ名乗っていた。ぼくも朝日元記者同様勲章を受け取ったのは唯一の汚点ではないかと思っている。なぜ勲章を受けたか問い、橋下のことを聞いて、評伝に書きたかった。




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