ペン森通信
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大川小の犠牲は人災だったと思う
3・11の大津波で児童・教職員84人が死亡、行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の事故で児童23人の遺族が石巻市と宮城県に対し、総額23億円の損害賠償を求めた裁判が19日からはじまった。遺族側は「これは人災である。児童たちは助かる命だった」と訴えている。ぼくは大川小の現場に2回行ったが、2回とも子どもたちは助かる命だったと感じた。教職員の慎重な判断がなされていれば子どもたちは救われた。

たまたま校長は留守だったものの、学校には先生たちがいたのである。親にしてみれば先生がいれば大丈夫だろう、と安心するのは自然の心理だろう。だが、子どもたちは校庭に51分座って待機させられ、一斉に津波に向かって行動しはじめた。校庭のすぐ裏は山だ。この山にどうして逃げ込まなかったのだろうとだれしも考える。けっこう勾配がきついところもあるが、そうでないところもある。椎茸の栽培もおこなわれていた山だ。

先生たちは、山は勾配がきついからかえって危険だと考えたのかもしれない。普段から山には登るなと注意していたのだろうか。でも子どもたちは身軽である。ぼくも小学生のころは里山で育ち、よく仲間たちと山に入り浸っていた。斜度30度くらいなら、木の幹や枝をつかんですいすいと登ったものだ。もっとも南九州なので、大川小の裏山みたいに雪で滑りやすいということはなかった。だが、どうして裏山に避難させなかったのだろうか。

遺族らも「裏山に避難させれば全員が助かった」といっている。大川小のそばを流れる北上川流域には小中学校が点在するが、大川小ほどの犠牲者は出ていない。84人のうち先生の犠牲は10人、児童の犠牲は74人。生き残った先生は1人。フォトジャーナリスト加藤順子の調査報道によると、この男性教諭の報告を市教委がまとめ、車の中で一夜を明かしたというが、実際は裏山を抜けた先にある民家にいた、という。

この教諭は重要な証言者であるが、いまだに記者会見にも出ていない。仙台地裁で裁判がスタートしたので、いずれは、児童はなぜ犠牲になったのか、防ぐ方策はなかったのか、なぜ校庭に51分も待機させていたのか、どの時点で大津波が来ることがわかったのか、など証言しなければならないだろう。それは生き残った大人の責任だ。大川小の悲劇は真実があきらかにされないまま、ここまで3年余の月日がたったのだ。

宮城県や石巻市は請求棄却を求めて争う構えだ。要するに、想定を超えた大津波による未曽有の災害下で起きたものである、として遺族側があげる人災説に反論する姿勢である。たしかに未曽有の大災害であったことは間違いない。観光バスがビルの屋上に上げられた隣町の雄勝で「ここまでは津波はくるめえ」と近くの川っ淵でたばこを吸って休んでいた中年男性2人が津波に呑まれて行方不明になったという話もそのビルの警備員から聞いた。

ぼくも若い未来ある若者を預かる身だから、縄はしごとヘルメットは用意している。ペン森は2階だから、階段を利用すればすぐ外に出られる。避難先の靖国神社、北の丸公園が近い。だが2階だから、上の階の圧力でトイレや出入口のドアが開かない恐れがある。首都圏直下地震が来ないことを祈るのみ。






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