ペン森通信
江戸時代からの就活メッセージ
15日の日曜日、谷雅志の墓参に行った帰り、東京駅商店街の飲み屋で献杯した。飲み屋は黒塀横丁の方舟という北陸と新潟の日本酒と郷土料理の店。銘酒と新鮮な魚を堪能した帰り際、向かい側にあった米沢牛黄木という店が気になった。前々日の13日、毎日新聞朝刊社会面の息抜き囲み記事に山形県の吉村美栄子知事がキャロライン・ケネディ駐日米大使に「お招きのお手紙を送った」という記事がひっかかっていたからだろう。

手紙は、ケネディ大使の父親ケネディ米元大統領が江戸後期の米沢藩の上杉鷹山(ようざん)を称賛していた縁で出した。ケネディ元大統領が日本人記者団と会見したとき、尊敬する日本の政治家として、上杉鷹山の名をあげたが、日本人記者はその名を知らなかった。ケネディがはたして鷹山の名前をあげて褒め称えたのかどうか、これは都市伝説の一種とみられていた。ところが、娘の大使は父の尊敬する日本人をしっかり憶えていた。

ケネディ大使は11月27日の講演でこう言った。「父は鷹山の善政と公益への献身を称賛していた」と。地元はやっぱり本当だった、と喜んだ。そこで招こうという流れになったわけである。去年17期男子と2人で米沢に行って、まずは上杉博物館にはいった。博物館内で鷹山の改革に反対する家臣とのドラマを再現したビデオが上映されている。短いものだが、ぼくは童門冬ニや藤沢周平の関連小説を読んでいたのでおもしろかった。

 藤沢周平の小説は絶筆となった『漆の実のみのる頃』だ。日向(宮崎)の高鍋藩の二男が上杉の養子になる。その治憲(鷹山)が17歳で米沢藩の9代目藩主としてお国入りをするくだりを詳述してある。鷹山は馬を降りて歩いて米沢に入る。米沢藩は藩租の上杉謙信の時代からあとは、豊臣側についたために減封に次ぐ減封の憂き目に遭い、守旧派家臣を擁して細々と続いていた。鷹山がお殿さまになったときは、窮乏はなはだしかった。

 鷹山がまず手をつけたのは倹約令であった。自ら一汁一菜を貫き、武家の庭先は畑にして作物をつくらせた。その家屋敷の模型が博物館のほぼ中央にしつらえてある。まるで太平洋戦争敗戦直後に庭を耕してカボチャやサツマイモを栽培して食べた当時を思い起こす都市生活者の年配者も多かろう、と思わせる。ぼくも鷹山が上杉の養子になる前に属した高鍋と同県で敗戦を迎えるが、農村だったので庭を耕すまでには至らなかった。

 鷹山が名君として名高いのは改革の断行と教育を推し進めたことにあるが、改革の断行には人材の登用があったことも見逃せない。周りにお友だちや賛成者を集める近代日本の狭量な政治家とは異なる点にもその人物の偉大さが伝わる。鷹山の有名な名言は「なせばなるなさねばならぬ何事もならぬは人のなさぬなりけり」と家臣に示した歌を縮めた「なせば成る」だ。やる気を出してやればどんなことでもできないことはない、ということ。

 なにごともなせば成る。なさないのはやろうとしないからだ。就活生に送りたい言葉を鷹山は江戸時代に言っていたのだ。なせば成るの精神を胸に刻んで、19期生よ、内定するまであきらめるな! 内定したら米沢牛を食べに行こうぜ。(ケネディ大統領の鷹山エピソードは3,4年前にもこのブログで書いた)。
スポンサーサイト

この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
http://penmori2007.blog108.fc2.com/tb.php/599-4ec2ea2a
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

瀬下先生

Author:瀬下先生
FC2ブログへようこそ!





最近の記事



最近のコメント



最近のトラックバック



月別アーカイブ



カテゴリー



ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる



ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する