ペン森通信
長崎でキリシタン迫害を考えた
土日を含んで9日間の夏休みが一昨日終わった。熊本赴任中の13期女子とたまたま休みが重なったので、まず熊本へ。飲んでタクシーに乗るさい、彼女はまだ飲み足りないと言って別れた、タクシーの運転手が「お孫さんですか」と聞いてきた。28歳の彼女がよほど若く見えたか、ぼくがよほど年寄りに見えたか、あるいはその両方か。ホテルへ向かう道すがら運転手は「きびきびとした、いいお孫さんですね」と感嘆しきりだった。

 熊本港からフェリーでわずか30分ゆられて長崎県の島原へ。「島原大変肥後迷惑」という言うくらいだから熊本―島原は当然近い。島原半島の中央にそびえる雲仙普賢岳の噴火は熊本(肥後)にも影響を与えた。島原外港駅から島原鉄道の急行ワンマンディーゼルカーで諫早へ。変哲もない単線の私鉄ローカル線だ。23年前の火砕流に呑まれて知人の土谷カメラマンが消滅した。その記憶に関連してこの私鉄には乗りたいと思っていた。

 ディーゼルカーの右側に有明湾の海が見える。諫早でJRに乗り換えて長崎へ。駅に付随しているJR九州のビジネスホテルが宿だが、エレベーターから駅に停車している列車が見える。いかにも終着駅という感じがあって、規模はちがうがもう何年も前に行った能登半島の輪島を思い出した。停車中の列車は白い胴体をしているから有名な特急「かもめ」らしい。この列車の座席は普通席も本革張りである。長崎―博多を走っている。

 翌28日は原爆資料館と浦上天主堂、平和公園を回った。29日、ジェットフォイルで五島へわたり、13期女子の運転するレンタカーでほとんど無数に点在する島の教会を訪ね回る。この島民とキリスト教との出合いはザビエルが1549年鹿児島へ上陸したあと、
66年にキリシタン城主宇久純定の招きで2人の宣教師が城中でキリストの教えを説き、多くの島民を洗礼に導いたのがはじまりである、と最初に行った堂崎天主堂の資料にある。

 五島列島を支配していた宇久純定もその二男純堯(すみたか)と歴代当主はキリスト教の布教活動に熱心だったが、純堯の甥純玄(すみはる)が1579年当主になると、一転して迫害をはじめる。以来、1873年明治政府によるキリシタン禁教礼の撤去まで五島キリシタンは棄教、改宗をせまられ、従わねば水責め、火あぶり、磔(はりつけ)、蓑(みの)踊り=蓑を着せ手足を縛って火をつけ悶えさせるなどの拷問、処刑が待っていた。

 それは島原でも同様で、領主の松倉勝家はとんでもない殿さま。家臣も疎んじていたが、キリシタン迫害弾圧と並行して強引に税を取り立てた。年貢は米や麦はもとより、煙草の葉やナスまで取り立て、納めない農民は両親や妻子まで捕らえられて水牢に入れられ、蓑踊りを科された。餓死者がでるほどの凶作つづきのうえ、年貢のほかにも窓銭、棚銭などの税に泣かされ、悪政にたまりかねて農民はついに蜂起する。島原の乱である。

 このとき、五島でも堂崎などで農民が蜂起する、農民たちは鎮圧軍と戦いつつ、島原城に迫った。島原の乱は農民一揆ともキリシタン一揆ともよばれるが、キリシタン一揆としたのは幕府。思想統制に利用したのである。キリシタンは表向き仏教徒を装い潜伏する。カトリックは宗教上の理由で人工中絶はできない。現在でも水俣病や、カネミ油症事件の隠れた被害者がいると言われるゆえんだ。

 
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