ペン森通信
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「夜間非行」の快男児逝く
 殺しても死なないような男ががんで死んだ。かれが大学3年生のときからの知り合いだから、もう40年になんなんとする付き合いであった。58歳の若さで逝った。妻と成人したばかりの美人姉妹が残された。かれは自分のことはあまり話さず、ひとの面倒をよくみた。酒もよく飲み、交際範囲がひろかった。16,17日の通夜、本葬には各分野からさぞ大勢の男女が押しかけるにちがいない。かれ谷雅志は講談社編集総務局長だった。

 谷が慶応の学生のとき、先輩の大学院生がいた。院生は朝鮮戦争に詳しい国際政治学者・故神谷不二(かみや ふじ)教授の門下生である。院生は防衛大学への就職を打診されたが、やや左翼思想的な立場だったからか、断った。ぼくは社会部の遊軍記者をしていて世相や若者を担当していた。院生も若者論に興味があるようで執筆を読んだぼくは、院生を取材した。5月か6月だったと思うが、院生はまだ黒いとっくりセーターを着ていた。

 その院生を通じて谷と付き合いはじめた。院生は夕刊フジやら週刊朝日で物書きのアルバイトをして学生を使っていたのである。谷も学生グループだった。谷や院生のほかにもぼくの周囲には若者が集まりだし、だれかの知人の海岸の別荘へ行って、着いたとたんにぼくがすぐさま引き返してルポを書け、と指示して若者たちがあわてて引き返した。谷がなにを書いたか記憶にない。ぼくも30代の後半で、元気にあふれ酒も強かった。

ぼくが飲み会に女性を連れてこいと1人に命じたら未成年の女子高生を伴ってきた。女の子はアルコールを1滴も飲まなかったような気がする。まだ東京都の淫行条例がなかったころだが、もちろん淫行なんてやるはずもない、きわめて品行方正な若者たちであった。長じてぼくも含めて、品行はあやしくなって、谷は病に冒されてから「夜間非行」も自由にできない体になった、とメールで嘆いたりしていた。谷も昭和の青春を謳歌した。

谷から1通だけ年賀状や暑中見舞いと関係ない手紙をもらったことがある。スペインのバルセロナに1年間留学したが、そのバルセロナからだった。ぼくにはどうも書きにくい、という内容の一部は憶えているが、その他のことは忘却した。ただ若いころからかれは悪筆の宮沢賢治とどっこいどっこいの字を書き、味はあったが下手くそだった。頭は鋭く回転も速かった。「夜間非行」のくせに、下ネタや女性の話題は避けがちのところがあった。

谷は原発反対のデモに加わっていた。反原発のデモ帰りだとペン森に寄ったことがあった。だが谷は原発を若者と話すことはなく、価値観の強要はしなかった。自分の娘に関しても、父と子はまったく別人格と言っていた。姉妹はまぎれもなく美人だが、娘さんは美人だね、と言ったら、そりゃそうですよ、おれのかみさんの子だから、と嬉しそうだった。最も切なさそうな表情を見たのは、親友のテレビ作家腰山一生を亡くしたときだった。

ぼくがペン森をつくったとき、かれは一席設けて激励してくれた。病に伏して管とつながった姿をかれは見せたくなかっただろう。それがかれの美学だったと思う。最後の見舞いも意識がなく、掛け布団をすこし剥いで右手を握った。上にも下にも横にも好かれた快男児の手を握ったのは初めてで最後である。合掌。
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