ペン森通信
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『あゝ上野駅』18番線ホーム
上野駅13番ホームの発車ベルが28日から井沢八郎のヒット曲『あゝ上野駅』のメロディーに変わったそうだ。早く聞きに行きたいが、神保町―上野は交通の便が悪く3,40分で往復はできないけど、今週中には行ってみたい。『あゝ上野駅』(64年発売)は集団就職の応援歌であった。いまは集団就職という言葉を知っている若者は少ないが、東北方面の農村から中学卒業生が労働力として集団就職列車でやってきて主に東京に就職した。

 ぼくが大学生だった60年代の初頭、当時鹿児島から東京行き急行の席取りのため東京や大阪、名古屋の大学に進学した学生の家族は総出で前夜から駅に並ぶのが普通だった。高度経済成長がはじまっていたころで、中央集権がすでに形成され、地方の若者や労働者は中央に吸い寄せられていった。宮崎で生まれ育ち、鹿児島で高校時代を送ったぼくも迷いなく東京の私大生となった。こうして東京は栄え、地方は徐々にさびれていった。

 西日本は東京までのあいだに大阪、京都、名古屋と吸引力のある大都会があったが、東北は東京と直結したようなところがあった。冬季には出稼ぎ労働者という季節労働者が東京を整備する国の公共事業で働いていた。ぼくが62年に記者になってからしばらくたってからも出稼ぎ労働者が複数で犠牲になった事故取材があった。64年の東京オリンピックの施設づくりも出稼ぎ労働者の下積みの労働なしには語れないのである。

 高度経済成長を支えたのは集団就職で大都会の商店や工場に住み込んだ若い労働者たちであった。若い労働者たちは農家の二男三男が多く、父親たちの一時的な出稼ぎ労働者と違い、ほとんどは永遠に故郷と別れたのであった。54年に最初の集団就職列車が青森を出発して、75年に最終列車が上野に着くまで21年間つづいた。上野に到着すると、雇用主の社長なんかが出迎えた。金の卵と言われた貴重な労働者だったのである。

 この集団就職の話題を作文のネタにしようと調べ回ったペン森女子がいた。もう10年以上も前のことなので詳しいことは忘れたが、彼女によると山形か宮城の大学に集団就職に関する研究者がいるということだった。彼女ともう一人の女子と青森へ行ったことがあった。ぼくはもっぱら運転手だったが、下北半島で通りかかった中学校の校門を見て、「あ、この中学からもずいぶん集団就職で東京へ行ったのよ」とつぶやいた。

 埼玉の川越市に集団就職したひとたちの憩いの家があるということも彼女を通じて知った。いまでも存在するかどうかは知らない。神奈川の相模原に理髪店を構える有力者がいるともきいた。歌手の森進一も集団就職組だ。新宿の靴屋で店員をしていたこともあったらしい。直木賞作家の出久根達郎は中学卒業後、茨城の行方から集団就職で上京して月島の古本屋で奉公した。中学出の若者たちは元気に無事、中高年になったのだろうか。

 上野駅前の広場には集団就職の碑がある。東北から上京して住み込み店員の多かった上野商店街が数年前に建てた。『あゝ上野駅』は13番ホームに流れるというが、集団就職列車が着いて、ああ東京に着いた、と不安と夢を背に降り立った上野駅の到着ホームは、13番線ではなく、いまは地上から消えた18番線ホームだったのである。

 
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