ペン森通信
城山三郎を真似よう
ひとに本を勧めるのは、きらいではない。今日8日の毎日夕刊特集「この夏に会いたい」で城山三郎を取り上げていた。城山本は初期のまだ愛知学芸大学助教授だったころ直木賞を受賞した『総会屋錦城』をはじめ、足尾鉱山事件の田中正造の伝記『辛酸』、定年を迎えたサラリーマンの空虚な生活を描いた『毎日が日曜日』などに若いぼくは夢中になったものだ。晩年のエッセーもふくめて城山作品には教わるところが多い。

 もし、『辛酸』を読んでなかったら、10、11生数人とともに足尾鉱山の赤茶けた山で植林活動に参加することもなかったろう。それをきっかけにべつの10、11期生と旧谷中村の跡を訪ねる気にもならなかっただろう。旧谷中村の役場があった場所は渡良瀬川遊水池の広場になっていて、当時をしのばせるものはまずない。田中正造の生家がすぐ近くの道際にあるが、いまや旧谷中村が強制廃村になったことも田中正造も忘れられた。

 公害の原点ともいうべき足尾鉱毒事件を知っている若者はほとんどいない現状だから、ぼくが旧谷中村に作文のネタ場として案内したところでなにかがひらめいた受講生も皆無であった。藤岡町の歴史民俗資料館に行き、わざわざ非番の学芸員を呼び寄せてもらったことがあったが、この学芸員が田中正造にあまり好意的でなく、「田中は栃木の県会議長をやっていたとき、鉱毒批判のそぶりもみせなかった」とけなし、興がそがれた。

 衆議院議員をしていた田中正造は村に住み込み抵抗運動をはじめる。渡良瀬川上流の鉱毒流出によって稲作が重大な被害を受け、村民の運動も苛烈さを増す。田中正造は明治天皇に直訴するが、旧谷中村は強制破壊される。1944(明治44)年、旧谷中村民は北海道常呂郡サロマベツ原野へ移住する。サロマベツに子孫を訪ねて行った受講生はいなかったが、ESの本欄に荒畑寒村の『谷中村滅亡史』を書いた者がいたのはうれしかった。

 荒畑寒村は20歳にして名著『谷中村滅亡史』を著すが、その20歳の著作というところに現代の若者はどのような反応を示すのだろうか。若者どころか、ESに記入してもメディアの面接官は素通りしたという。教養低下が情けない。城山三郎は現代男子への風刺だろうが、私欲のない男っぷりのいい男性を好んで書くが、『鼠』では戦前の財閥、鈴木商店の風采のあがらぬネズミのように走り回る番頭、金子直吉の生涯を描く。

神戸の鈴木商店は大正時代のコメ騒動の際、焼き打ちに遭う。焼き打ちは大阪朝日新聞が執拗に攻撃した報道によって生じた風評被害だったということと、大番頭金子直吉の物語とが『鼠』の骨格をなす。こうして天下の悪役に仕立てられた鈴木商店は朝日のえじきとされ、結果として社会から葬り去られてしまう。つまりは悪役に仕立てたのも新聞なら、刈り取ったのも新聞だった。公器のマッチポンプ体質は当時からあったのだ。

『鼠』は城山三郎が新聞記者的な手法、足で書いたドキュメンタリーノベルである。ひとつずつ疑問の薄皮を剥ぐように調べて歩く。ぼくが受講生をネタ仕込みの旅に連れていくのも、現場へ行って自分の目でみて、耳できいて、肌で空気を感じて、考えるというドキュメンタリーの鉄則を知ってもらうためである。この考える=思考するという内面的な耕作作業が作文の個性と独自性をもたらす。城山ドキュメンタリーを読んで真似しようぜ。

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