ペン森通信
若者が熱病にかかっていたころ
今後、日本に大きなデモは起こるか、というテーマで卒論を書いている受講生がいて、昨夜はデモ話題ですこし盛り上がった。起こらない、というのがぼくの意見。デモを誘発する貧困がない、若者が怒らなくなった、興味関心が拡散する社会、無思想などがその理由である。他の受講生にも起こる、と予言する者はいなかった。原発問題が引き金になるかなと内心、ぼくは期待しているが、怒りは矮小化されて日本中が燃えたぎらない。

 日本中が怒ったのが1960年の第一次安保闘争であった。チュニジア、エジプト、リビアの反政府デモの蜂起をみて、「岸を!倒せ!」のシュピレフコールが耳によみがえった年配者はかなりいただろう。ぼくがそうだった。昭和には熱すぎるくらい熱い季節があった。エネルギー革命が引き起こした60年の総資本対総労働の激突、日大や明大や東大や中大の全共闘学生が学費値上げや旧来の管理体制に反発して沸騰した70年闘争の日々。

 60年安保では6月15日、明大、東大、中大の全学連部隊が国会に突入をはかる。明大と中大の学生が門の破壊と構内の警察輸送車を引き出す隙に、東大生が構内になだれ込む。東大生はずるかったが、元気があった。火がつけられた輸送車のなかには、投石をうけ、罵声をあびている機動隊員の食料や財布が入っていた。憤怒が青い焔となっていた機動隊は警棒を振りかざし学生に襲いかかる。国会構内で東大生、樺美智子が死んだ。

 【『女子学生の死』は、日本国中に大きな衝撃を与えました。この事件に、多くの国民は、『国の将来を憂えた女子学生が自己を犠牲にした』という悲劇を見たのです。翌日、全国の大学で授業が放棄され、抗議集会が開かれました。いても立ってもいられなくなった学生たちが、全国から夜汽車を乗り継いで東京に向かいました」】(池上彰の『そうだったのか!日本現代史/集英社文庫』)。夜汽車を乗り継いできた若者の怒声は、いまや昔だ。

 樺美智子が亡くなった60年6月15日は雨だった。デモの隊列を組んでいるあいだ、雨に打たれると興奮が増し高揚した。あの闘争の本質はA級戦犯なのに総理大臣に上りつめた岸が、日本をアメリカのポチにした岸嫌悪だった。機動隊が興奮したのは雨のせいではなく、学生への憎しみだったと思う。当時大学進学率は10%に満たない。高卒VS大学生という怨嗟の構図もあったのである。60年安保は憎悪をはらんだ平和闘争だった。

 70年闘争になると機動隊の装備も整えられ、楯で防護するようになる。機動隊は最前線の学生の足の甲に楯をぶつけた。警備側にいた佐々淳行は、東工大の管直人はいつも被害を受けない4列目にいたから、4列目の男と皮肉る。69年の東大安田講堂攻防戦で逮捕された学生は633人だが、東大生は少なく、明大、中大、日大、法大と他大学生が大半を占めた。安田講堂はこのあと、全国に飛び火して165大学が紛争の舞台となった。

 70年には赤軍派による「よど号」ハイジャック事件もあった。連合赤軍による「あさま山荘事件」は72年だった。すでに警察は三派全学連などの反日共系全学連を「過激派」と命名していた。「警察権力があまりに抑え込もうとすると学生は暴力化しますよ」と警察庁担当のぼくは警備局長に言った。しかし、連合赤軍は暴力も暴力、リンチ殺人だった。内ゲバ死者100人。70年の後半は凄惨な血の抗争に流れた。学生は大やけどして、いまになるも立ちあがれない。
 
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