ペン森通信
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松山沖の伊33号潜水艦取材ドラマ
 吉村昭の本は全部読了したと思っていたが、読んでないのがあった。『戦史の証言者たち』である。きのう病院の定期健診で待ち時間2時間半のあいだに続きを読みはじめた。戦艦武蔵の進水、山本連合艦隊司令官の戦死、福留参謀長の遭難と救出、伊号第33潜水艦の沈没と浮揚、と太平洋戦争時の4つの有名軍部秘話の生き残り関係者の証言を記録したものだ。テープをそのまま起こした話し言葉の文章なのできわめて取りつきやすい。

 綿密な取材法の公開本でもある。その聞きだし方の要領とコツがすべて明らかにされ、ぼくはこの467円と安価な新潮文庫に興奮した。おかげで血圧が上昇し、前回の先月は上が130を切り、下も70台だったのに、きのうは15くらい上がっていた。ぼくがおもしろかったのは松山沖の伊予灘で急速潜航訓練中に沈没し、水深60メートルの海底に横たわった伊33号の事故である。伊33号は全長108メートルの大型潜水艦だ。

 この潜水艦は日本海軍の前進基地だったトラック島で、修理中の出入り口のハッチから浸水して沈没した。大半は上陸していたが、艦に残っていた航海長ら奇しくも艦番号と同じ33人が殉職したという経歴がある。伊予灘で沈没した伊33号の引き揚げ作業は敗戦後の昭和28年7月に行われた。完全浮揚したとき浸水してない区画があることがわかった。菌が遮断された区画にあったのは、腐敗せず服装もそのままの生きているような遺体だった。

 中国新聞今治支局の写真が得意な若い支局長が果敢にも艦内に入って写真を撮った。ガスがこもっている可能性があり、それは危険きわまりない行為だったので、引き揚げに携わったひとたちは、目をむいて驚いた。取材合戦の激しさのあまり、若い記者は無謀にもハッチを開けて中に入ったのである。そのくだりを読んでいたぼくは27歳時に取材した福岡県の三井山野炭鉱の事故を思い出した。

 それは昭和40(1965)年に237人が死亡したガス爆発炭鉱事故だった。その取材でぼくは朝日に抜かれた。朝日記者とカメラマンは別ルートの昔の出入り口を探しだして坑内に入り込み、坑内写真を撮影して大々的に報道した。大事故にもかかわらずほとんど1人で取材していたぼくは、チーム取材にしても朝日は危ないことをやるなあ、とあきれた憶えがある。取材競争の果ての意味のない写真だった。競争は冷静さを失わせる。

 山野抗は73年に閉山した。つでながら、北海道でほとんど最後の炭鉱が閉山した際、1500人が解雇され、そのうち再就職できたのは5人だったか15人だったか、そのように労組委員長が発言しているインタビュー記事を雑誌で見つけた。「こんなインタビューがあるぞ」とペン森で言ったら、翌日北海道・釧路に飛んで行って調べた女の子がいた。機敏な反応を示したその女性は日経記者となった。もはや炭鉱はなくなり、炭鉱事故もない。

 伊33号の艦内写真は掲載されることはなかった。遺体がリアルに写っていたからだ。その記者は吉村昭に答えている。「私は若かったんで、危険などもほとんど考えず艦内にはいったんですよ。今じゃそんなこと出来ません。とても出来ませんよ。(略)遺体を収容した日は、仏壇に灯明をあげて冥福を祈っています、毎年ね・・・」。今年2月、ぼくは念願の松山を訪れたので、余計に伊33号の松山沖のドラマが胸に迫った。
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