ペン森通信
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新燃岳が呼び覚ます幼年時
宮崎の霧島新燃岳のニュースを見て以来というもの、甘酸っぱくも小学1年生当時を連想することが多い。降灰に悩む都城の隣の村(現在は合併して都城市)でぼくは子ども時代を送った。小学1年生というと、昭和20年太平洋戦争敗戦の年である。その年の秋にはもう、外地から出征した兵隊や軍属が引き揚げてきていた。故郷の記憶を呼び覚ますような絵を子どもたちに描いてもらい、引き揚げを待つ兵隊さんたちに送って慰めたい、ということだったと思う、そのような絵を描きなさいという指示が学校からあった。

ぼくは霧島山を描いた。おぼろげな記憶によると、その村から望見する霧島山は中央が尖ってその頂点の両脇に同じ三角形をした標高のやや低い小ぶりの頂を従え、なだらかに稜線が張っていた。じつにきれいな自然の優美を目にできた。ぼくはその霧島山をスケッチして、提出した。たしかスケッチは知事賞をもらったような気がするが、もはや65年も前の小学低学年時のことだから、あやふやな思い出である。ただ、遠くに見える霧島の姿だけはいまでもしっかりと脳髄に付着している。

思い出は連鎖作用を起こすのだろう、そのころの家の周りの景色まで浮かんでくる。わが家の敷地は300坪くらいあり、家は母屋と大きな物置小屋2軒に畑。畑は200坪あったろうか、サトウキビ、トウモロコシ、カボチャ、キューリ、トマトなどが栽培されていた。庭では鶏を放し飼いにしていた。小学校は家から1分、ゆるい坂と小さな石段を登るともうそこが正門だった。木造2階建ての校舎だった。周囲は田んぼと桑畑。隣家は医院、前の農家は種馬をもっていて、種付けがしきりに行われていた。

ぼくはその種付けの様子を意味もわからないまま、飽きずに眺めていた。意味がわかるような年齢に達した大学の教養課程で、いま詳述は避けるが、その生々しい行為を哲学のレポートに書いて、痩せて好色そうな教授をからかったことがある。幼児体験がその後の人生にどの程度、どのような影響を与えるのか知らないが、ぼくは歳を重ねるにつれ、地方の荒廃というものに胸を痛めるようになった。利用した駅もいまや無人駅となったらしい。あの駅が無人に! 想像すらできない。今年か来年か、幼年時をすごした田舎を訪れたい。

中2で鹿児島市内に移転し、その後東京に来て、もはや大都会生活も50年になるが、霧島噴煙が思い出させてくれた田舎生活は、時代の変遷と日本の構造変化を実感する上で貴重な体験だったと思う。ぼくの親父は炭鉱に坑木を納める林業を営んでおり、村一番の納税者だった。だが、石炭から石油へのエネルギー転換によって、鉄道の線路に敷く枕木を扱うようになった。家には寸法の余った丸太の端が転がっていて、ぼくはオノでマキをつくる役割をしていた。子どもも労働を担った時代である。いまの子は消費からはじめる。

新聞記者になろうと考えたのは中学時代である。深い理由はなく、単なる憧れだった。だが、この憧れは生命力が強く、高校、大学と持続して新聞記者となった。高校でも大学でも一貫して新聞記者志望だったのである。だからと言って、こういうことをやりたいという、しかとしたテーマはなかった。いま、今春採用試験のES記入の時期だから、ぼくはやりたいことを明確に表現するように、と強調しているものの、自分自身振り返るとまことにあいまいなまま、いろいろ書くには書いたが、ついに老齢にいたった。

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