ペン森通信
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命がけで将棋を指した天才の青春
 前回のブログの反応はかなり悪かった。冒頭にエッチ関係の記述があったからだろうか。内容が本の紹介だったからかもね。⑥から⑩まで行数が不足して、ろくな寸評もできなかった。行数不足というのは、ぼくが勝手に決めているこのブログスペースに収まるかどうかのことであって、読む側にはなんの関係もない。書ききれず気がかりなのは⑦の『聖の青春』(講談社文庫)だ。聖とは、ネフローゼ(重い腎臓疾患)を病みながら将棋のA級にまでのぼりA級在籍のまま29歳で夭折した天才棋士、村山聖(さとし)のことだ。この感動ノンフィクションは第13回新潮学芸賞を受賞した。掛け値なしの推奨本である。

 ぼくは日曜午前10時になると、ほとんど欠かさずNHK教育にチャンネルを合わせる。将棋の時間である。サンデー毎日時代、誌上段位取得企画の担当デスクをしていて、日本将棋連盟に数年出入りしていたが、ぼくは将棋のことをあまり知らなかった。将棋を知ろうと勉強しはじめたのが将棋番組だった。いまでも日曜午前10時には、自宅にいる場合ほとんど欠かさずチャンネルを3に合わせる。同じように将棋番組に親しんでいた後輩の仲のいい東京新聞の記者がいたが、若くして亡くなった。いま、そのことをふと思い出した。かれはぼくより将棋は強くなかった。やったことないけど。

 『聖の青春』の筆者、大崎善生はプロローグに言う。「私は昭和57年に日本将棋連盟に入り、十数年にわたり将棋雑誌編集者として将棋界のもっとも近くで生活してきた。昭和57年といえば、村山がはじめて将棋界の門を叩いた年であり、羽生善治が佐藤康光が、その後の将棋界の地図を大きく塗り替える俊英たちが続々とプロ棋士の養成機関である奨励会に入会した年である。その中でも、強く心に残っている棋士が村山聖である。やさしさ、つよさ、弱さ、純粋さ、強情さ、奔放さや切なさといった人間の本性を隠すこともせず(略)」。ぼくが千駄ヶ谷の日本将棋連盟に足を運んでいたのは、折しも若き天才たちが奨励会に入門したころであった。

 ぼくは村山聖に会ったことはないが、そのまるまっちい体型と風貌はよく憶えている。後年、将棋番組で目にしていたからだ。97年、羽生善治と決勝でぶつかり敗れた。羽生とは6勝7敗という実戦記録を残すが、徐々に追いついて6勝までいく。羽生がもっとも恐れた棋士であった。その羽生と『週刊文春』で名コラムを書いている異才棋士、先崎学が共著で『村山聖名局譜』という本を出している。先崎と村山は遊び仲間であり酒友でもあった。5歳でネフローゼと診断され、進行性膀胱ガンにもおかされ、脳への影響を考慮して抗ガン剤と放射線治療を拒否し、命がけで将棋を指しつづけた村山は98年に他界する。

師匠の森信雄七段との師弟愛も並みではなかった。「村山の遺体の前で森は泣き崩れた。(略)『村山君・・・』『村山君・・・』泣きじゃくりながらその言葉繰りかえしていた。(略)村山のためなら何でもしてやった。自転車の荷台も押してやった。パンツも洗ってやった。『もうわしの力は要らんのか』」。
 村山の苦闘と師匠の献身に比べたら、わが人生はなんぼの価値もないような。


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