ペン森通信
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植村直己に冒険家といわれたぼく
 「ザ・植村直己・デー」という催しが日本山岳協会創立50周年を記念して7月24日、13:30から学術総合センター・一橋記念講堂(千代田区一ツ橋2-1-2)で行なわれる。植村直己はいまや冒険家としてのほうが通りはよいかもしれないが、れっきとした大登山家であった。国民栄誉賞を受賞したこの著名人を知らない若者も、時代の流れとともに、多くなったのではないかと思う。だが、明治大学出身者は母校の世界的に名だたるOBを誇りに思っているだろう。
 
 植村直己は明治大学農学部に入学する。新歓でどこの部に入ろうかとうろうろしているうち山岳部の勧誘ビラを手にしているのに気づき、軽い気持ちで山岳部の部屋を訪ねてみた。はじめから山岳部に入部する気があったような気もするが、ぼくが本人から聞いた入部のいきさつはそんなものだった。そこから植村の山人生と冒険人生がスタートするのである。山岳部では植村はよく転んだ。あだ名はドングリころころのドングリ。「へたり込んでいると上級生がぼくのパンツまでさげちゃうんですよ。よして!って叫んでね、また歩き出す」

 兵庫県の旧城崎群日高町にあった植村の実家と、通学した小学校を見にいったことがある。一帯は山すそに広がる農村地帯で植村の実家も農家だった。もう30数年も前のことで、列車で行ってタクシーを利用した、タクシーの運転手が実家と小学校につれていってくれた。植村の著作が駅の売店に置いてあったから、すでに地元の有名人になっていたのだろう。そのとき世界初の五大陸最高峰単独登頂を成し遂げたあとの70年前半代だった。

 明大農学部を卒業した植村は就職に失敗する。だが、就職しても出世にはなんの関心もなく、退社して山登りや冒険に向かったにちがいない。ヨーロッパアルプスへの憧れ断ちがたく、まず資金が貯まりそうなアメリカ立ち寄ることを決め、移民船「あるぜんちな丸」でロスへ渡る。不法就労で強制送還されそうになるが、ようやくフランスへ着く。その経緯すら冒険だが、かれは「冒険家」という肩書きが好きではなかった。ぼくが毎日新聞を辞めると告げると「あなたはなんという冒険家なんだろう」とあきれていた。

 植村は年上の公子さんに一目惚れして「もう山登りはしないから」と約束して結婚する。山登りはしなくなった代わりに、もっと危険な冒険をはじめる。71年には南極横断に備えて、その距離に見合う稚内→鹿児島の3、000キロを51日間かけて歩き通す。74年12月から76年5月に北極圏1万2、000キロ、犬ぞりでの走破を果たす。犬ぞり探検の前には、数ヵ月間エスキモーと共同生活をして、体をならし食生活もなじませた。

 植村が84年43歳にしてマッキンリーで行方不明になった。この偉大でぼくとつな善人もゴキブリは苦手だった、と公子さんから聞いた。植村の最終的な夢は、北海道で野外学校のような寺子屋を開くことだった。ゴキブリの北限はあるのだろうか。植村が行方不明になって26年、ぼくはペン森という寺子屋をはじめて15年たった。
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