ペン森通信
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高村光太郎の独居地でたどる道程
  岩手県は、毎日新聞の社長をしたこともある庶民宰相原敬、銀河鉄道の宮沢賢治、一握の砂の石川啄木などの逸材を輩出した。高村光太郎は岩手のひとではないが、ぼくはこんど花巻の郊外にある「高村山荘・高村記念館」を訪れようと思っている。
 光太郎は敗戦直後の昭和20年10月から27年10月まで7年間、
この山荘で農耕しながら独居自炊の生活を送る。そこは「星座の高さが目立ち、北斗七星などが頭に被さるような感じに見える」と光太郎が書いているところだ。
 花巻温泉に泊まって、ついでに高村山荘に行きたいわけではない。山荘という建物の中に、光太郎が老年を1人ですごした惨めな小屋があるらしい。風雪が吹き込みそうな7坪半の電気のないその小屋で光太郎はなぜ暮らす必要があったのだろうか。
 光太郎は28歳で知り合った3歳下の智恵子と31歳で結婚する。かれにとって智恵子は「昨日までのやけ酒や、遊びがまるで色あせてしまい、ただこの女性の清新な息吹に触れることだけが喜となった」女性だった。「私の精神も肉体も洗われるように清められ」た智恵子は心を病み、精神分裂症で東京の病院に入院させる。智恵子は昭和12年、54歳で亡くなった。
 「私の精神は一にかかって彼女の存在そのものの上にあった」光太郎はその2年後『智恵子抄』を刊行する。ほぼ同年の昭和15年、中央協力会議議員になり、17年には文学報国会詩部会会長に就き、戦争に協力するのである。かれの数多くの戦争協力詩は朝日新聞などに掲載され、国民を奮い立たせた。
 高村光太郎はそのことによって戦争責任を問う声があがり、非難を浴びる。わびしい小屋に1人こもり、下痢に悩みつつ自炊したのは、非難を避けるためではなかった。自らを罰したのである。内面はたとえば「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」という『道程』のように強く高潔だった。
 昭和33年73歳で病死するが、昭和22年、帝国芸術院会員に推されたが辞退する。昭和28年には日本芸術院第二部会員に推されるが、これも辞退する。若いころ、ニューヨーク、ロンドン、パリに学び、本本来は彫刻家だったこの希有の芸術家は、被さるような星空の下でなにを考えて独居自炊したのだろうか、と想像してみたいのである。そういう環境に身をおいてぼくは、自分の68年の道程を見つめてみたい。
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