ペン森通信
涙、涙のこの1冊
 『文藝春秋』SPECIALの「日本人は本が好き」を危うく買い忘れるところだった。ぼくは単行本の良書や雑誌の増刊号は東京堂で買うことにしている。わがペン森から神保町を歩いて東京堂に着くまで、古書店がならんでいて、歴史や軍関係の専門店もある。金物屋も興味深い。書泉グランデも覗いてみたい。東京堂に着いたころはさてなにを求めてきたのだろう、と首をひねることもままある。これは寄り道のせいではなく、ど忘れ加齢のせい。小便に行く途中、いまどこに向かっているのか失念するときもあるからさ。

 きょうは書泉グランデに立ち寄っただけで東京堂に向かったので、目的の「日本人は本が好き」を購入できた。すぐページを繰った。特集「私が泣いたこの1冊」が目にとまって、ぱらぱらと見やる。「泣いた1冊」には司会者で俳優の大読書家、児玉清が伊藤左千夫の『野菊の墓』をあげている。「そのとき涙も涸れるかと思うほどないたことを今も忘れることができない」。そのときとは60年前の15歳のとき。

 ぼくも中学生のときに読んだ。「こみあげてくる涙、涙で、ついには嗚咽し、民子を失った政夫の気持のあまりの救いの無さに身もだえするほど狂おしく天を仰ぎ、滂沱と涙した」という児玉と似たような状態におちいった。ぼくは祖父母宅の布団の中で涙にくれた。「この映画、木下恵介監督『野菊の如き君なりき』は、本校の近くにある松戸が農村だったころ、古い固定観念や因習の犠牲になった悲恋物語」と前置きし教材としてビデオをみせた。ぼくは女子学生の視野からはずれた席の最後尾でひっくひっくとしゃくりあげていたんだよね。本も泣けるが、映画も泣ける。

 ビデオでは野村芳太郎監督『砂の器』、神山征二郎監督『月光の夏』もひと一倍、涙腺がゆるんでいるから、ぼくは涙涙だったね。『砂の器』は映画で泣いたことはない、と自慢する男もしまいには陥落するらしいよ。『野菊』に参った児玉は書いている。「七十五歳の老年期を迎えたのに、なお読む度に溢れ出る涙は一体どこからくるのか」。ぼくも70歳の老年期を迎えているが、どこかに少年期の残滓が残っていて、なにかの拍子にまた芽吹いてきたのではと思う切なくも純な感覚がある。その切なさに『野菊』は共鳴する。べつの言葉でいえば、育ちきってない部分があるということ?

 中学生のころの感覚を鮮明に憶えているということは、悪いことじゃないよね。すると、今春ぼくと2人旅をする中学生の孫娘は、70年後末期高齢者になっても祖父との旅の記憶を保っているのだろうか。どこへ行くかはまだ決めてないが、よい思い出をつくってあげねば。


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