ペン森通信
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福沢諭吉や木戸孝允出でよ
 司馬遼太郎説によると、日本の2大教育者は適塾の緒方洪庵と松下村塾の吉田松陰である。緒方洪庵はオランダ医学者で適塾は大阪大学医学部につながる。知っているひとは知っているが、ペンの森はこの適塾を真似た。大阪に復元されて現存するペン森の源流、適塾を訪ねた卒業生もいたが、実際はそれほどあがめていたわけではない。

 適塾は橋本左内、大鳥圭介、高松凌雲、大村益次郎(村田蔵六)、福沢諭吉などの英傑を輩出した。慶應義塾の創始者にして1万円札の肖像、福沢諭吉は適塾の塾頭を務めたことがある。幼少時、散髪嫌いで母親は手こずったが、あとでお酒を飲ませてやる、といったらぴたりと泣きやんだらしい。

 諭吉は自分と酒とは切っても切れない、という意味のことを『福翁自伝』に書いている。それにならって、酒も飲める寺子屋をめざしたのがペン森なのだ。動機不純。そこへいくと吉田松陰は酒にもたばこにも女にも縁がなく、安政の大獄で捕えられ数えの30歳で従容として死刑に服する。生涯めとらず、童貞のまま他界したといわれる。

 松陰の死骸は桂小五郎(木戸孝允)、伊藤利介(伊藤博文)ら4人の門弟が獄吏からもらい受け、目印をつけて小塚原に埋め4年後、高杉晋作らがいまの松陰神社に改葬した。東急世田谷線の松陰神社前で下車して商店街を抜けた先に松陰神社があって、奥に松下村塾の看板が掲げられた本物そっくりの家がある。

 その座敷で学ぶ伊藤や山県有朋などの豪華メンバーの姿が浮かぶ。桂小五郎は塾生ではなかったが松陰を師とした。松陰自身は佐久間象山を師と仰ぎ、松陰が下田から密航をくわだてたとき相談にのった。そのため松陰事件で連座して故郷の長野県松代に蟄居した。象山記念館が松代大本営跡地下壕への出入口の道に建っている。

 ひととひととの出会いほど人生のふしぎはない、という。無口平凡な少年だった桂小五郎は松陰に出会って、人生が急転した。緒方洪庵も吉田松陰も私塾を開いて日本を根っこから変える原動力となった。松陰は通称名が寅次郎だった。フーテンの寅さん同様、旅をして行く先々で純粋な人間性や思想性や教養や哲学や学識が感銘をあたえた。

 わが私塾、ペンの森から行き詰まったこの日本を建て直す逸材出でよ。ペンで立つ福沢諭吉、高松凌雲、木戸孝允、伊藤博文、高杉晋作よ出でよ。諭吉や孝允を思わせる女傑よ出でよ。

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