ペン森通信
AKBや乃木坂のレコードはないの?
21期生は平成生まれがだが、ぼくはいまだに平成にはなじみがない。やはり自分がすごしてきた昭和のほうが親しみやすい。戦争があり、バブルがあり、テレビが生まれ、新幹線や高速道路ができて、めまぐるしく新しいものが登場したが総じて楽しい昭和だった。ペン森スタートの最初の部屋には公衆電話があった。新聞社の内定をその電話で知った者もいた。携帯電話が登場してびっくりしたのも1期生のころだ。

 昭和13年に宮崎県の国有林のなかで生まれたぼくは太平洋戦争を直接は知らない。小学校1年生のときに敗戦になったがそのこと自体記憶にない。憶えているのは殴り合いのケンカをして勝ったこと、教室に兵隊が駐屯していたこと、艦載機から銃撃を受けたこと、校舎に長い間銃撃の痕跡が残っていたこと・・・。初恋は小学4年生時のクラスメイト内村妙子が相手だった。恋らしい感情はあと大学生までなかった。

 内村妙子はばあさんになっただろう。知り合いの大学教授が同窓会に出席するに際して、あのかわいい子に会うのが楽しみで参加した。うまく行ったらこっそり連れ出して1発と期待していた。ところが相手もそれ相応に老婆になっていた、しかも農家育ち特有の腰が曲がって、上半身が斜めにしゃんとしていた、という。「1発どころじゃありませんや」となげいていた。彼はぼくより4つ5つ年上であるが欲望は果てなし、見上げたもんだ。

日曜日大河ドラマのあとのNHK総合「トットちゃん」がまさに昭和物語そのもので面白い。登場する森繁久弥、渥美清、坂本九・・・みんな昭和の匂いをぷんぷん発散させている。森繁は黒柳徹子に会うたびに「1回どう?」と聞いていたらしい。森繁は物好きだ、とぼくは感心した。彼は女好きで知られたが、恨まれるということがなかったという。得な人間だ。いまどき不倫が大ニュースだから迂闊なことはできないから。

 森繁を物好きだとぼくが思うのは黒柳徹子があまり好きじゃないからだ。ぼくはおしゃべりな男も女も好きではない。この間電車内の隣席に30台と思しき2人連れの女が座った。座ったとたんにしゃべるしゃべる。その騒音に耳をふさぎたくなったが我慢していた。そうしたらぼくの感情が激して大声を出しそうになった。こうして気が狂うんだろうなと思った。内閣府の調査によると結婚の不安は日本人がお金が一番、英仏は相性が最多。

 相性は結婚してから生活を共にしてからわかるような気がするが、ぼくにはおしゃべり女は相性が悪い。おとなしい女性が好みである。「男は黙って・・・」というCMがあったが、あれは昭和似合いのCMだ。三船敏郎に合いそうだ。ぼくは1人旅も好きだが、あれは黙っていればすむからいいのだ。でももう1人旅は足が不自由なのでおいそれとはできなくなった。おとなしい介護役の女性でも付き添ってくれると助かるのだが。 

 安いCDプレーヤーを買ったら安すぎたのか2週間でダメになった。昭和の人間らしく今度はCDでなくレコードにしようかと考えている。AKB48の「365日」はレコード化されているのだろうか。AKB48や乃木坂は完全に平成だね。昭和は歌謡曲や軍歌です。浪曲はもうちょい前の世代。ぼくはそんなに古くはないし、新しくもない。

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昔よりいまが最高です
このブログは先週更新しなかった。更新予定日の火曜17日は多忙で時間がなかった。金曜20日は体調不良であった。物心ついてからはじめて下腹の鈍痛に襲われ、下血した。おふくろが大腸がんで亡くなっているので、その遺伝かなと思っていたが、毎食後正露丸を飲んだら昨日からおさまった。どうやら一過性の下血だったらしい。21,22日と土日はひたすら安静にしていた。自分でも驚くくらいよく眠りこんだ。

それだけ寝るくらいだから、疲労の蓄積は相当なものだと考えた。そう言えば21期生の作文を読みながら、一瞬気を失う場面があって、作文を床に落とすことが数回あった。電車内でも読んでいる本を最近しばしば落とす。自分でハッとするからまだいいが、隣席の人に「落としましたよ」と注意されないから、ほんの一瞬だけ意識がなくなるらしい。ホームで転倒して駅員や警備員に「大丈夫ですか」と声をかけられることはなくなったが。

といって品行方正になったわけではない。焼酎の量をへらしているだけである。このところお湯割り2杯だけということも少なくない。うちでは4杯だ。4杯をゆっくり飲んでから睡眠導入剤のお世話になり午前零時から1時の間に寝る。睡眠はたっぷりだが、77年間生きてきた疲れがたまっている。おふくろは大腸がんでふせっているとき、このまま死んでしまうのだろうかと不安がっていたが、ぼくも先週は死が迫っているように感じた。

司馬遼太郎の『峠』は越後長岡藩の河井継之介の人生の旅を描いた作品だが、そのなかにこんなくだりがあった。「人間の美しさのひとつは老いるにつれて自分の過去が美しく見えてくることであろう」。要するに老人になれば昔は良かったというすぎし日の美化がはじまる、それが美しいというのである。ぼくは昔よりもいまのほうがいい。いまは若いピチピチ女子が駅の改札まで送ってくれることが多い。ぼくはしっかり手をつなぐ。

これが40代50代だと、いやらしいとかセクハラとか言われたかもしれない。いまは人前でも平気だから、いまのほうが昔よりもいいのだ。ただ年のせいで記憶力がきわめて弱くなった。昨夜東京の就活シェアハウスに就活期間だけ住んでいる地方大学の女子がきたが、最初、完全に名前を取り違えていた。同じ地方から来ている別の大学の女子と勘ちがいしていた。あやうく間違った名前を呼ぶところだった。

地方大学の学生が来るようになったのは21期生からである。宮崎2人、下関1人、島根1人、広島1人、仙台2人。東京の大学に通学する息子や娘を持てば仕送りが大変だろうと察する。アルバイトで学費も家賃も留学費用も稼ぎ学校もサボらない男子もいるが、こういう強い学生はそうはいない。就活期間だけ東京に居住するのは、仕送りの軽減につながるいい知恵だと思う。東京は情報が集中しているうえ、企業も集まっている。

200キロ乗車以上JR3割引きのジパング倶楽部の会員手帳を今期1回も使わないまま更新期になった。1年間まったく遠出しなかったということだ。ひどい引きこもりになったと思う。行きたいところもあるし、同行してもらいたい女子もいるから、まだしばらくは健康でいよう。このブログの更新は来週火曜はできない。午後2時か3時まで定期健診だ。






抽象的に殺すか、具体的に殺すか。
米大統領オバマの広島訪問はわが意を得たりの感がある。5,6年前、広島支局に赴任している毎日新聞の女性記者が訪ねてきた。彼女にぼくは言った。「毎日には記者の目という記者が意見を言うコラムがあるんだから、それを利用してオバマ大統領、広島にきてください」と呼びかかけてみてはどうか、と。アメリカ人は半数以上が広島・長崎への原爆投下は戦争を早く終わらせ、米兵の犠牲を増やさないために必要だったと思っている。

 だから大統領が日本で謝罪させられるのでは、と国民感情には反対する空気が漂っていた。27日の広島は謝罪なしと言うが、広島や長崎の被曝者のなかには納得できない向きもあろう。オバマは2009年のプラハ演説で核兵器のない世界の実現を訴えたとき「アメリカは唯一の核兵器使用国である。同義的な責任がある」と言った。言うまでもなく日本は唯一の被爆国であるが、被爆ゆえに戦争の加害者から被害者に転じた。

 70数年前は鬼畜米英と言っていたが、いまは恋人以上の嘘のような日米関係である。どこかの新聞にいまの日本は「寝ても覚めても日米関係」と言う表現があったが、歴史学者のハンチントンが指摘するように日本はどこかの国に寄りかかって生きてきた。ハンチントンの見方によればいずれ中国を頼りにするだろう、とのご託宣だが、いまのところその気配はない。ぼくが生きているあと数年はまだ寝ても覚めてもアメリカ、だろう。

 でもトランプが大統領になったらどう変わるかわからない。トランプの可能性はゼロではないし、民主党のクリントンと世論調査ではせっているのだ。トランプは日本に核武装しろと迫るかもしれない。フィリピンはトランプに擬せられる異端児が大統領になってすぐ、中国に秋波を送ってびっくりさせた。権力を持つたった1人の人間のさじ加減でどう転ぶか知れたものではないから怖い。フィリピンは強権政治がはじまる。

 アメリカが原爆を広島・長崎に投下した時の大統領はトルーマンだった。敗戦後まもなく、ホワイトハウスを見学した際。トルーマンに質問した日本人の女子高生がいた。アメリカに留学していたのだ。「日本に原爆を落としたことを後悔していますか」。トルーマンはそっぽを向いていたそうである。ぼくがサンデー毎日で企画した読者応募の1通だった。
原爆の非人道性を最終的に投下命令を下したトルーマンは知っていただろう。

ぼくも映画や本や広島・長崎へ行って知っているが直接は知らない。新人記者時代、下宿先のおじさんが被曝者だった。広島の原爆ドームには2回行った。以前は広島に行ったら、原爆ドームと同時に広島城も見ろと強調していた。抽象的に大量に人を殺す原爆と銃座からたった1人にねらいを定めて具体的に殺すその差を表現しろと注文していたのである。軍隊は殺人を行う組織であることをわれわれはときどき忘れる。

ぼくは自衛隊は災害時の救助専門の世界で唯一の人殺しをしない軍隊になってほしいと願っている。人殺しの軍隊はイスラム国などのテロ組織と人を殺すという行為においてさして変わらない。オバマは広島城も訪問する。捕虜だった米兵が被曝死したところだ。アメリカ人の感情を鎮めるために慰霊する。

高齢者は有力な資源である
先週の5,6,7日の午後中央区立産業会館で21期生の直前合宿を実施した。作文、模擬面接が主なメニュー。初日5日は青木朝日新聞出版社長の「マスコミを目指す諸君へ」という講話からはじまって、それぞれの自己紹介のあと外へ出てネタを拾って800字書く模擬取材を課した。新聞記者志望は「なにがニュースになるか」を見極める訓練、出版などの志望者は「なにが企画のネタになるか」を知る訓練である。

 当日はGWまっさかりで周辺の店は大抵閉まっていた。条件は悪かったが、ルポ文章もよくなかった。このようなルポ体験はペン森ではあまりやらないが、ぼくの生産性本部の講習では恒例の実習である。いまは高齢に達したので講師に呼ばれることもないが、実習生は労働組合の広報担当者である。広報紙を発行するときに必ず文章が必要だからそのような機会が設けられたのである。トヨタ関連の労働組合が多かった。

 労働組合員はある程度年かさで感度が固まっている分、新鮮さに欠けた。21期生はあらかじめ用意したネタを組み入れた者もいて、こっちは身近なところで発見したネタは少なかった。産業会館の周囲にもネタは豊富なのにと歯がゆい思いがした。その意味で感度は大丈夫かと心配になった。労働組合の30代よりもできは悪かった。最近、入社試験も模擬取材を取り入れるところが増えてきたが、発見したことを書けばばよい。

 2日めは作文2本と模擬面接。作文の1題めは「門」、2題めは「選ぶ」。ほとんど通常と変わらぬお題である。みんな気楽に挑んだ。もちろん、2題とも前日よりは書きやすかったと見え、出来栄えもまあまあ。作文はもっている鉄板ネタの使いまわしがどう出せるかの実験を兼ねていたが、使いまわしはあまり器用とは言えないようで、苦労した様子がうかがえた。模擬面接はESを見ながら型どおりで終わった。

 3日はまず作文。前夜は有士が集まって時事問題の勉強をしたはずだから、少し時事的な知識を問う意味と年齢的に自分の祖父母を題材にしてそれだけで終わる者もいるかもしれないと思いつつ「超高齢社会」というお題。ご存じのとおり、国連の定義によると高齢者は65歳以上で、その人口比によって高齢化社会(7~14%)、高齢社会(14~21%)超高齢社会(21%~)と分類される。ややひっかけ気味のお題である。

 案の定、年齢的に祖父母のことを書けばすむと飛びついたものが多かった。祖父母を取り上げるのは悪くないが最後まで祖父母だけでとおして終わっては面接に進めないだろう。コンパニオンのアルバイトをしている島根大学の女子が書いた九州の超高齢者が焼酎とビールを飲みに飲んで元気がよく、超高齢社会は高齢者によって活発になるという内容であった。日本はすでに超高齢社会に突入したが高齢者の経験、知識、知恵は有力資源だ。

 超高齢社会をマイナスイメージでとらえるよりもプラスイメージで思考すると世の中が明るくなる。がんや認知症や葬式は遅かれ早かれだれでも経験することだ。それをことさらに強調するよりも高齢者が自然にもつ資源に目をつけた明るいイメージのほうは救われる。
 

 


転倒してもまだ天には行かないよ
兄貴分とも言うべき存在だった四方洋が80歳で急死した。きのう通夜が四谷の上智大学に隣接する聖イグナチオ教会で行われた。カトリックに入信していたとはついぞ知らなかった。キリスト教の葬式に参加したのは初めてである。当然ながら高齢の参列者が多く約200人か。聖歌を歌い、神父の聖書朗読を聴き、献花をして通夜の儀は1時間で終わった。飲食もなく、ご霊前を包む必要もなく、簡素にして飾り気のない通夜であった。

 こうして四方はキリストの迎える場所へ行った。死因は特発性間質性肺炎。認知症を患ってしかも寝たきりでなくてよかった、と思う。実際にはピンコロだったと推察する。ピンコロとはピンピン生きてコロリと死ぬことを言う。長野県の佐久にピンコロ地蔵というのがあって、その理想の死に方を願って全国からお年寄りたちがお参りにやってくる。長野県は地域医療が進んでいて、佐久市は男性の長寿日本1になった。

ぼくもピンコロといきたいが、そううまくいけば言うことはないが。だらだらと家族を辟易させながら一向にくたばらない可能性が高い。父親がそうだった。ぼく自身は路地から自宅玄関に通じるわずか6段の階段で倒れ動もがいても立ち上がれない状態になったことがある。夜帰宅途中、自宅近くのゆるい下り坂道で倒れて足をバタバタさせていたら通行人に助けられたことがあった。ことによったら骨折から寝たきりだ。

体幹のバランスが悪くて貧弱なのか、先日はベランダから自室に入ろうとしてドアのレールにつまずき、洗濯ものをたたんでいた家内の目の前でバッタンと見事に転倒した。もし座机のへりで頭を打っていたら救急車ものだった。家内はそれを目撃したものだから、今月末にある10期生の結婚式への送迎車の迎車を断ったと言ったら尋常でなく心配した。結局、迎えにきてもらうことにしたが、ぼくは自分でも気にするくらいよく転倒する。

 四方洋は東邦大学で教鞭をとったこともあり、町田市民病院の理事長もしていた。医学関係の知人も多かったはずだが、急死では手のうちようはなかっただろう。京都大学新聞のOBだが同じくOBだった政治評論家の故岩見隆夫から「四方の人脈はすごいぞ。なにかあったらかれを頼れ」とアドバイスされたことがある。頼る事態はついに訪れなかったが、3女と甥っ子をペン森で預かったことで少しは役立ったかもしれない。

 通夜には新聞社の古い仲間たちも10数人来ていた。80歳をすぎた先輩が「訃報の宴楽が会ったとき、一瞬きみが逝ったと思ったよ」と言った。残念でした。ぼくはピンコロねらいで毎晩飲んでいる。幸か不幸か焼酎専門の飲酒になってから、体調はすこぶるよくなった。すぐ酔うし、脚が不自由だから、女子大生とお手手をつないで地下鉄の改札まで歩くことも珍しくない。すれ違う酔っ払いどもが羨ましそうに見る。悔しかったら長生きしろ。

 本日午後告別式だが、通夜だけで勘弁してくれるだろう。四方が『サンデ―毎日』の編集長の異動を受けた際、ひとつだけ条件をつけた。社会部のぼくをくれなければ引き受けない、と。帰天した四方はぼくが天に来なければ、地上に下りる、とだだをこねているのじゃないか。まだ行かないから悪く思わないで。アーメン。





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