ペン森通信
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軽減税率でものが言えない新聞
 ペン森は本日25日をもって今年の営業は終了する。新年は1月4日からだ。以前は新年の初日に神田明神→湯島天神に徒歩でお参りして内定祈願をするのが恒例だった。ペン森に帰着したらすきやきパーティ。もう久しくお参りもしてないし、すきやきの牛肉探しに走り回ることもなくなった。本日は酒や食いものを各自持ち寄りで望年会をごく小規模に開く予定。多数参加すれば大規模になるが、通知不足なので大規模にはなるまい。

 望年会の席でそれぞれが今年の回顧と来年の展望をしゃべるのも年末行事になっている。
で、ぼくもしゃべる。ぼくは結婚披露宴でも準備なしで口から出たことをそのまま言う癖がある。ときにスピーチがうまいですねと褒められることもあるが、たいていは笑わせたり、きわどいことを言うから、眉をひそめる親族もいたらしい。思えば逮捕される前のホリエモンと隣り合わせもあった。かれは「恩師って、なんの恩師ですか」と聞いてきた。

 ぼくは、根はストイックな真面目老人だ。本日は気にかかっていたCM「いい部屋ネット」の平凡な女子が藤井日奈子という名前とわかって、すっきりしているので、うんと真面目な話をしよう。きのう関西電力の高浜原発の運転差し止めの仮処分決定を覆す決定を福井地裁が下した。これで九州電力の川内原発に次いで高浜原発の再稼働が法的にはなんの問題もなくなったわけだから、これと原発の安全性やもんじゅについて触れてみよう。

 原発の安全性に関して文系の判事がどの程度理解しているのか、という問題がまた表面化した。原発の安全性なんてもちろん文系はわからない。理系がわかるかどうかも怪しいものだ。わかるのなら福島があんなにひどい目に遭うこともなかっただろう。ペン森20期生女子の1人も作文に書いていたが、福島で小児甲状腺がんが激増している。このことがネットで話題になっていると言うが、ぼくはその種のネットを開けないので知らない。

 小児甲状腺がんの激増は福島県の調査でわかった。全国平均なら100万人に1人くらいだそうだが、福島の発生率はその何百倍も高い。113人が甲状腺がんと確定診断されている。チェルノブイリでも事故後4,5年してから発生したという。チェルノブイリ近くのベラルーシよりも患者の数は多い。ところが県の検討委員会や国立がんセンターの専門家は相関関係なしと否定している。いつもの因果関係は不明である、というのと同じ。

 大問題なのにメディアは黙っている。2020年の東京五輪・パラリンピックも吹き飛ぶ恐れがあるからだろうか。原発同様原子力にしがみついているのは高速増殖炉もんじゅもそうだ。原発の使用済み燃料から再処理によりウランやプルトニウム取り出して再利用する計画だから「増殖」炉なのだ。増殖どころか、こいつはとんだ食わせもので、廃炉になっていたはずが施設維持費という予算が年間200億円以上ついて生き延びている。

 本来なら新聞はもっと追及すべき税金の使い方だが、すっかり野党性を失った。購読紙は軽減税率の対象になるのでペンが鈍っているのだろうか。ペン森のペンは権力に立ち向かう正義の象徴として名付けた。これでは恥ずかしくて若者に新聞記者はいいぞ、とは言えない。 

 

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「永遠の処女」のどこがいいのだろう。
 スーパーの休憩スぺースでばあさん同士がとなり合って話していた。すぐ近くに座っているぼくの耳に2人の話し声が聞こえてくる。「あたし、髪切ったのよ、自分で」「あら器用だわね」「自分で鏡を見ながらだから、不揃いでしょ」「どれ、後ろを見せてごらん」「ちょっと、片っ方が長くて片っ方が短く見えるわね」「そうでしょ、寒いからこれぐらいにしておこうと右半分だけ切ったところで気づいて短くしたのよ」「ほんとに寒くなったわね」

 と次には寒い話題へと転じていった。ぼくもきのう散髪した。もともとぼくはスポーツ刈りの刈り上げの短髪だから、冬、散髪したあとはすこぶる後頭部が寒い。きのうもいつもの千円床屋である。1人しかいない散髪屋の兄ちゃんは行くたびにどんな髪型にしたいのかと聞く。かれこれ3年は通っているからそろそろ顔を覚えてくれてもいいと思うのだが、前回は「モヒカン刈りですか」とこの馴染みの常連客に聞いてきた。

 ぼくもじつを言うと、顔はなかなか覚えない。買い物の帰りにおばさんが親しげに話しかけてきた。かみさんにそのことを話したら、「眼鏡をかけていた?」と問いただすが、眼鏡をかけていたような気もするが、かけてなかったような気もする。いちばんの特徴さえはっきりしないのだから、ひとの人相を言うのも不得手である。自分のせいでぼくは人相描きというものをあまり信じない。人間の記憶なんてまったく曖昧なものなのだ。

 ぼくがこの人間は好きかどうかをはかる尺度にしているのは、顔の輪郭や造作がぼんやり曖昧であれば、好きだと言うことだ。嫌いな人間ははっきり頭に刻まれる。とくに女子の場合、それは顕著である。谷崎潤一郎の全編大阪弁の独白で貫く同性愛小説『卍』にほとんど全裸のモデルをヒロインが描く場面が出てくる。モデルと人相とは異なり、やがて同性愛の相手になる女性に似てしまう、というくだりがあった。ぼくとは真逆だ。

 もっともぼくは、絵は苦手だからだれに似せて描くといった器用なまねはできない。頭の中のイメージ映像としてぼんやりとしか思い出せない好きな女子は2人いるが、2人とも鮮明な写真があるのでそれを見れば気がすむ。いっそ動画だと忘れない。この間から「いい部屋ネット」のCMのまん中の女子が気に入っている。その子の顔、足の動き、スカートの広がりまでしっかり憶えている。平凡な日本風の女子であるから好ましい。

 永遠の処女といわれた原節子が今年鬼籍に入ったが、原節子はぼくの好みではない。ぼくが好もうと好むまいと知ったこっちゃあるまいが、洋風美女は往々にして情緒が不足している。日本男子はある種の動画でも情緒を大切にする。『東京物語』の原節子はミスキャストだというのがぼくの説。日本女性にしては大柄すぎる。八千草薫とか津島恵子とか、ほかにも女優はいただろうにと思う。原節子とは年代がずれているかもしれないが。

 今年もあとわずか。とうとう列車を楽しむ旅にも行かなかった。JR3割引きのジパングを活用しなかったのもはじめてである。当然だが、年末年始は旅もデートもない。ただテレビの前に寝転んで「いい部屋ネット」のCM女子を見て、ぼんやりと浮かぶ好きな女子は年末年始をどうしてるやらと妄想するだけである。


 


日本の新聞は世界の非常識
水木と金曜午前にかけてペン森のPCがOFFになった。このブログは火金に更新しているので、金曜の更新に間に合うかどうか心配だった。どうやらまにあった。業者に来てもらって修復した。とは言っても、ソケットが外れていただけ。電話線やらPCやらコピー機やらをつないでいるから線の根元はこんがらがってなにがなにやらわからない状態だ。なぜソケットが抜けたかというと、どうやらその付近で暴れた若者がいたらしい。

一時は同じ原因で電話も不通になった。PCと電話不通おかげで、ひまができたので、だれかが持ってきた「石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞記念講座2014 ジャーナリズムの『新地平』」をめくった。大賞受賞者は【公共奉仕部門】大島千佳(NNNドキュメント取材班代表)授賞作はNNNドキュメント「自衛隊の闇~不正を暴いた現役自衛官~」。これを観ていない。日本テレビがこんな番組やるはずがない、と思ったのだろう。

【草の根民主主義部門】山崎一洋(下野新聞社編集局 子どもの希望取材班代表)受賞作品 連載「希望って何ですか~貧困の中のこども~」 【文化貢献部門】与那嶺恵「首里城への坂道~鎌倉芳太郎と近代奥縄の群像~」を書籍(筑摩書房)で。【草の根民主主義部門】伊藤めぐみ(有限会社ホームルーム ドキュメンタリー・ディレクター)受賞作は「ドキュメンタリー映画「ファルージャ~イラク 戦争 日本人人質事件・・・そして~」

 講師はこれら大賞受賞者に加え、学生諸君にジャーナリズムの世界の多様性を理解してもらうために新聞、雑誌、テレビ、ラジオなどメディアを替えて選択したとコーディネーターの谷藤悦史政経学院教授ははしがきで述べている。講師陣の中にぼくの知人が2人いた。元NHKアナウンサー山根基世と、元毎日新聞常務の河内孝。いや山根アナは落ち着いた語り口調を感心して耳にしていたのと友人が私的なフアンだったので錯覚した。

 河内孝はそんなに親しくはなかったがよく知っている。東大拳法部出身の朝日記者がマスコミOBを集めてブログ通信をはじめるので参加しないかと朝日記者につないでくれたのは河内だった。ぼくはペン森があるので大して出席はしなかったし、書いた記事も2本だけ。1本は女子受講生の体験作文のパクリである。労務者が安宿に住んでいる山谷に白人の若者バックパッカ―が宿泊していると言う話。取材し直して書いたら評判がよかった。

 これはのちにNHK放映した。パクリのパクリである。河内の講演内容は自分自身のパクリである。でもペン森の新聞志望者は必読の内容と言っていい。新聞の未来についてネットなどニュースの伝送手段が大きく変わっているのだから、従来の日本の新聞も変わらねばならないのに変わらない。日本の新聞の常識は世界の非常識と言える。日本の新聞は世界的に大変な特殊性がある、と強調する。情報の入手手段の無限の広がりに敏感になれ。

最近の新聞離れとよく表現されるが、正常な姿に戻りつつあるプロセスではないかとも言う。夕刊が発行された1951年は朝日と毎日が200万部、読売が170万部で地方紙を合わせて1000万部。これがコアな新聞読者だと言うのがかれの説。ぼくも賛成だな。   

『文芸春秋』も『週刊文春』も面白い
 知の巨人、立花隆が『週刊文春』12月7日号で嘆いている。「最近つくづく感じることは日本の主要マスコミのパワー(取材力、分析力、発言力)の急激な低下現象である。まったく同感だ。これは推測だが、立花はたぶん1昨年の例の事件騒動以来すっかり元気がなくなった朝日新聞を槍玉にあげたいだろう。話はそれるがその騒動のとき、読売が販売攻勢をかけた。その結果読売の部数が増えたとは聞いてないから効果はなかった。

聞いたのは朝日も読売もかえって部数を減らしたということ。読売に対する反発の強さである。あげくの果て、新聞がいやになったひとが多かったので、読売のやったことは逆効果だった。いまどき、新聞の販売競争を敵の記事の失点を利用して繰り広げるという感覚がおかしい。新聞はネットも含む他のメディアとの関連においてまだ上昇気流に乗れると踏んだのであれば、取材力、分析力がないどころか世間知らずと言われても仕方ない。

同じ号の『週刊文春』のメインの1本は「小泉純一郎が吠えた!『安倍総理は全部強引』」である。ノンフィクションライターの常井健一が書いているが、これは『文芸春秋』1月号の同じ筆者によるインタビュー記事「小泉純一郎独白録」の焼き直し。独白録のほうは4時間半にわたる単独インタビューだから、安倍政権だけでなく原発や進次郎にまでおよび読ませる。小泉の「原発即ゼロ」に共鳴するぼくは独白録を真っ先に開いて読んだ。

このインタビューをやってのけた36歳の常井は同年代の進次郎の演説、講演、視察の様子を300回以上密着取材してきた。単純にえらいなあ、と感服する。フリーランスが可能なのにどうして主要マスコミではできないのだろうか。自ら呪縛して諦めているとしか思えない。立花が慨嘆する低下現象はこういうところにも表れている。ペン森出身者は常井に十分対抗できる能力資質粘着力をもっているはずだが、内定即会社員になる。

小泉のいう原発ゼロにぼくが賛同するのは原発のごみ核廃棄物が無害になるまで10万年かかることを知ってからである。小泉はフィンランドに建設している核廃棄物最終処分施設「オンカロ」を見に行った。ヘルシンキからジェット機で1時間、それから船に乗って島に着く。「実際に見てこれを日本でやろうたって無理だと思った。地下400メートルに廃棄物を埋めて毒性が抜けるのは10万年後」。ピラミッドができたのは4000年前。

小泉は総理時代、原発推進派だった。それが一転したのは「原発推進論者が言っていることもやっていることも間違っているってわかったからよ。ひでえことを俺も信じてきたなという自分への悔しさ、不明の至りだな」。原発は人間がコントロールできないエネルギーだ。福島には故郷を失ったひとが10万人はいる。原発推進派は未来世代に対する責任をなにも感じてないのだろうか。倫理的に見れば原発推進の存在は許されることではない。

『週刊文春』では阿川佐和子の対談が相変わらずおもしろい。今回の相手は脳科学者の澤口俊之。「欧米の研究では1週間にいっぺんのセックスが一番、幸福度が高くなると発表されています」。ぼくはセックスとはもはや無縁。澤口によればハグだけでも脳は若返るという。OGを含むペン森の女子諸君よろしくお願いします。







無事を知らせる年賀状、年末状
ぼくは年賀状は出さない。代わりに年末状を出すことにしている。新聞記者時代、年末状の企画を書いたのがきっかけだ。年末状を出しているひとをどうやって探したのかもう忘れてしまったが、意外に多いことを知った。で、ぼくも真似をはじめた。だが、今年は年末状もごく少ない。年4回発行している『瀬下塾ジャーナル』の33、34号の発送が遅れたので、そのなかにA4のコピーを1枚差しこんで年末の挨拶をすますことにした。

これも新聞だったが、年賀状特集を書いたことがある。当然だが、年賀状は郵便の発達と大いに関係がある。明治時代は正装して上司に年賀のあいさつをしていたが、上司のかみさんあたりがいちいち挨拶を受けるのは面倒だ、と亭主に文句を言ったかどうかはわからないが、そのうち客は訪れた証拠だけ残して帰るようになった。会社員や公務員なら名刺だけおいていけばすむようになった。そのための名刺受けがあったらしい。

さらに簡素化されて郵便で出せばすむようになったわけだが、相手方に元日に着くのが新年の挨拶に最もふさわしいので、年末の年賀状書きは宿題に追われるように切迫感で胸が痛い。ぼくも年賀状を出していたころは10枚か20枚ずつ並べて、ひとまとめに同じ字を書いていた。賀正なら賀正が10枚ないし20枚、謹賀新年も同様に10枚か20枚である。横着も極まれりという感じであったが、時間の節約にはなった。

 そのくせ到着は待ち遠しく、大学生時代も元旦は午前8時ごとから郵便受けを開けていた。女の子から何通来ているかが大問題で、好きな子から来ていようものなら今年こそその子をなんとかしたいと真剣に思ったものだ。相手はただ儀礼として年賀状をよこしたのだろうが、こっちはそんなことはどうでもいい。年賀状といえども、出す相手のことをいっときでも考えてくれたのだ。気がある証拠であると解釈して嬉しかった。

数年前から写真付きの賀状が多くなった。結婚した相手と2人で、あるいは結婚式の写真、次の年には赤ん坊と3人で、というあんばい。ペン森は適齢期を前にした男女が集合している関係で、ぼくがもらう年賀状にはとくに家族写真が目立つようになるのかもしれない。ペン森生同士の夫婦に子どもができ、それが年賀状写真で披露されるとときに涙が出ることもある。それだけ感慨深く、うれしいのだ。涙もろくなったせいもあるが。

去年もうあの先輩はお迎えが来ただろう、と思って年末状を出さなかったひとから年賀状が届いて「恒例の年末状が来なかったので、きみの身を案じている。元気だろうか」と添え書きがあった。互いに相手は生きて元気でいるがどうかが気になるのだ。この歳になると年賀状も年末状も生きている証になる。これは年老いてから気がついた効用だ。今年は11月にはもう喪中はがきが届いた。亡くなった父や母は超高齢で100歳以上もいた。

喪中はがきのひとにもかまわず年末状は出ことにしている。それが年始の挨拶違う年末状のいいところだ。ぼくは喪中はがきは出さなかった。年賀状は来なければ正月からさびしすぎると思う。来週、年末状を発送してぼくがまだ無事であることを知らせよう。



ご都合主義の基準にだまされるな
先週土曜日の夜、くず折れるという感じで自宅自室で体が床に崩れ落ち机の淵で側頭部を打った。体調が悪かったわけじゃない。焼酎をお湯割り3杯飲んでいい調子になっただけである。体の軸が定まってないからそうなった。あんなにいとも簡単に倒れるのは、憲法という日本の基準を恣意的に解釈して軸が上下左右に動いて定まらず、その意味では安定しているように見えて言うことが変わる安倍政権のようだ。

 本日の毎日新聞が1面トップで「会計検査院が秘密保護法『拳法違反』」という特ダネ記事を載せていた。憲法90条は「国の収入支出の決算は、全て毎年会計検査院がこれを検査し、内閣は、次の年度にその検査報告とともに、これを国会に提出しなければならない」と規定している。会計検査院は税金などで成り立つ国のお金が正しく無駄なく有効に使われているかをチエックする独立機関であるから、国会、内閣、裁判所の制約を受けない。

 ところが明治憲法(大日本帝国憲法)下では政府、軍の機密費が会計検査の対象から外れていた。このため軍関係の予算が野放しになって膨らむ傾向があった。現行憲法90条はこの反省から生まれたという経緯がある。「すべてを検査するとしている憲法90条の上からして問題だ」と内閣に指摘したが、内閣は配慮することなく特定秘密保護法は成立した。つまり現状では検査を受ける側が提出文書を選別できるわけである。

 特定秘密保護法に対して多くのマスコミは大反対したが、いまはそんな騒ぎがあったかさえわからないほどテロやISの陰でひっそりしている。だが成立した秘密保護法は脈々と生きている。国家による防衛や外交など重要な情報隠しがあっても気づかないおそれがあるのだ。それは気づいたときにはもう遅い、という危険性をはらんでいる。沖縄返還に伴う密約問題はアメリカで明かになったのに日本外務省は認めない。この怖い体質がある。

 東京オリンピック・パラリンピック誘致のとき、安倍はなんと言ったか、みんな憶えているだろう。「福島原発事故の影響は収束している」という意味のことを言ったのだよ。オリンピックも復興オリンピックと言っていたのに、もはや復興のフの字もない。権力は嘘をつく、ということを肝に銘じているのがアメリカのマスコミと聞いた。自分に都合のいいように基準を変えるのも嘘のうちに入るだろう。

福島原発事故で国民の被ばく線量の年間上限基準値が1ミリシーベルトから20ミリシーベルトに引き上げられたが、これなどもご都合主義のいい例だ。基準を変えるというのはこれまで対象だったものが対象外になって除外されるということだ。守るべき基準ってなんだろう。ぼくは相対的貧困者だが、いまのところ酔えば転倒するくらいで健康だ。でも飲酒が車の運転と同じく法律違反になるなら重罰を食いかねないほど飲んでいる。

憲法を勝手に解釈変更するくらいだから、いまの政権は危険だ。とは言っても野党には政権担当能力はない。監視役のマスコミもおとなしい。政権に怖いものなしである。政権がなにをするかわからないこういうときこそ国民は要注意だ。ぼくも飲みすぎていい調子にならないようにしよう。



楽しみは多し、人生は短し
島崎藤村『夜明け前』を2カ月くらい前から読んでいる。それでもやっと125ページに達しただけにすぎない。酔ってよれよれと駅からゆるい坂道を歩いて家に着き、シャワーを浴びてベッドにもぐり枕元の電気スタンドをつけて、『夜明け前』を開く。1,2ページ読むと眠くなる。スタンドを消してすこし妄想を楽しむうち眠ってしまう。ぼくが幸せを感じるときだである。土日は別の本に親しむかDVDを観る。

こんなふうだから、『夜明け前』は永遠に夜明けを迎えないかのように枕元でいつも眠っている。この2カ月間なにも読まなかったかと言うと、そんなことはない。電車の行き帰り、ペン森の日中だれもいないときが貴重な読書時間だ。読みかけ、読了、再読をふくめて十数冊は手にしている。いま電車の中で開いているのは『東京に暮す 1928~1936』(岩波文庫/キャサリン・サンソム)と『ビートたけし 悪口の技術』(新潮文庫)。

ぼくはたけし本が結構好きで、先だっては『新しい道徳』をこのブログで取り上げたばかりだ。たけし本はだれがだれとヤったとかいう噂話がふんだんに出てくるからときに下ネタで盛り上がるペン森のぼく向きである。現在の読みさしは池波正太郎の武士ものの短編集、藤沢周平のスリリングな武士もの、切ない市井もの集や半藤一利の『日本のいちばん長い日』の再読、再読では『父の詫び状』など向田邦子の短編エッセイ集もある。

ぼくはうちに蔵書6000冊くらいあるが、昔に読んだ本の中身は記憶してないから無造作に引っ張り出して読みはじめても、それは新刊本と同じだ。歳を重ねると古いことを覚えていて、新しいことを忘れがちと言うが、3,40年前に手にした本のストーリーはさすがに忘却して頭から消滅している。若いころ夢中だった冒険小説や海外ミステリーはかすかに筋立てを思い出す程度でだれかに話して聞かせるほどは憶えていない。

21期生の女子が『紋切型社会』(朝日出版社/武田砂鉄)を読んでいた。これはあらかじめ用意された表現がはびこる社会を考察する良書である。ペン森でのぼくの読みさし本でもある。これと『ルポ風営法改正 踊れる国のつくりかた』(河出書房新社/神庭亮介)を机に重ねている。神庭はペン森9期生の朝日新聞記者。先日の20周年パーティに参加していた。「風営法改正の書き出しはなかなかいいよ」と上から目線でほめておいた。

『紋切』と『風営法改正』はお勧め本だが、さらに『未来からの遺言 ある被爆者体験の伝記』(岩波文庫/伊藤明彦)や『死刑囚 最後の一時間』(宝島社/別冊宝島編集部)や『危険な世界史 運命の女編』(幻冬舎/中野京子)などは手軽に読めて刺激的だ。もちろん、ぼくの好きな吉村昭の漂流もの、歴史もの、戦記ものなどの著作全部、藤沢周平の書いた短編と長編の全部。井上靖の『敦煌』『楼蘭』などの西域ものもすばらしい。

あすあさっての土日は読書ではなく、DVDが愉悦の元。家にあるぼくのPCはインターネットはできないがDVDは利用できる。アカデミー賞大全集やヒッチコック全集20世紀の記録などを仕入れているのでこれで週末をすごすのだ。楽しみが多い割に人生は短いよ。








若者も将来は下流老人だ
ン森の若者もそうだが、若者の大半は自分が将来年寄りになることが想像できないらしい。ぼくだって大学生のころは高齢になるなんて考えもしなかった。やはり自然の摂理なんだ。ぼくに対して若いねえ、と感心する向きもあるが実際若いひとにそういうことを言うはずがないから、これは高齢者向けの外交辞令であろう。どうせ先が限られているのなら、我慢や抑制してきた欲望を解放して自由気ままにすごそうと思うのである。

欲望と言っても大したことではない。旅をする程度だ。問題は同行者がいるかどうかだ。孫娘は一応除外するとして、同行者は男子か女子か、1人か2人かグループかによって気分は異なる。これがセンチメンタルジャーニーならいいのだが、どうも自由気ままというより自暴自棄の気配がある。このままいくとぼくは下流老人に転落しそうな予感があるから、ほんの少し余裕のあるいまのうちにお気に入りとともに旅をしたくなったのだ。

 お気に入りのだれかが同行してくれるかどうか、同行とは足の不自由なぼくの場合、ほとんど介添え、介護と同義だ。でもぼくはまだお気に入りと旅の願望があるから、恵まれた老人だろう。喜寿を迎えて、OGも含めペン森生という若者にお気に入りがいるという事実は大きい。このような老人はそんなにはいないにちがいない。だが洋洋たる未来が広がっているように見える若者の先行きも幸福とはほど遠いかもしれないと最近思う。

評判の新書『下流老人』はまだ読んでないが、題から触発されて若者も下流に落ちる未来が見える気がする。非正規雇用4割は将来貧困に直結することは明らかだ。若者であるというだけで下流老人の予備軍と言えるのである。年収400万円以下の層が労働者の7割を占め、300万円から200万円後半のひとがかなりいるらしいから、歳をとっても年金収入では賄えない。ぼくは主たる収入が年金だが年収は300万に達しない。

でもさして不自由は感じない。自宅にPCがほしいときがあるくらいだ。買いたいものがない。結婚披露宴のご祝儀支出が重なれば苦しいが今年みたいに2件ですめば、お気に入りと旅をしたいという欲望も達成可能性が出てくる。先行き、まずペン森はいいつまで続けられるのか。それが一番の心配。もし病気入院してもだれかが面倒を見てくれるだろうが、果たしてぼくは再生できるだろうか。今年は喪中はがきがやたら多くなった。

 どっちみち、ペン森を閉じる際にも、自分を閉じる際にも出費がかさむ。下流老人になっても最低生活ができる対策の一環として、結婚披露宴には来年の1組を最後に参加しないことにしている。そうすると1件3万~5万円を預金できる。披露宴1回分はお気に入りと1泊の旅ができる費用とほぼ同額だ。みみっちいがこのところそんなことを考えている。朝目が覚めて、ペン森への行き方がどうしても頭に浮かばなかったときからだ。

 本日の毎日コラム「論説の目」によると、日本の男女格差を平等度合いで示すと145カ国で101位。女性の賃金は男性よりも低い。離婚はいま3組に1組。母子家庭は生活苦に悩む。政権の唱える「女性が輝く社会」は道険しだ。先日、企業内託児所の話が新聞に出ていたが、働く女性はベビーカーを押して満員電車で通勤するのかい。考えた男はばかか。こんな政策では若者の未来も絶望的だ。





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