ペン森通信
9連休のすごし方に悩む夢追い人
9月の第2週(7~12日)は夏休みをとることになった。7~12日の前後土日を入れると計9日間の連続休となる。そのころになると20期生の就活もほぼ決着しているだろう。今夏は暑かったので、夏バテこそしなかったものの、就活があまりにも長期でいささか疲れた。なにもしないで気をもむだけのぼくがそうだったから就活生はもっと大変だったにちがいない。いまのところ大手マスコミに内定したのは12人である。

 9日間の休みをどうすごすつもりかと家人が問うたが、土日に家にいるだけでうんざりしているのに、9日間も家にいられたらきわめて迷惑、と言外に言っている。土日はたいてい自室でごろごろしてテレビを見たりまどろんだりしている。要するに寝たきりの予行演習をしているようなものだ。外へはほとんど出ない。杖をつきつき歩くのが面倒なのである。家のあたりは昔、多摩丘陵と言っていた。丘陵を崩して宅地にしたので坂が多い。

勾配が緩いぶん杖つき老人には助かるものの、勾配より平地のほうがいいに決まっている。直言はしないが、9日間も家にじっとしては困るというのが、家人の意向のようだから、2,3日の旅くらいはしてもいい。幸か不幸か、孫娘がぼくと旅行をしたいと申し入れてきた。孫も終活生で内定祝いの旅になる。さてどこへ行こうかと考えると、同行してないのは北海道と九州だけと気づいた。ぼくは汽車派だからどこへ行くにも列車である。

列車で地方へ行くと困るのが階段だ。エレベーターは神保町駅でも1基しかなく、このあいだ赤ん坊を見せに来た9期女子が「エレベーターがなかなか見つからないの」と嘆いていた。地方の駅にはエレベーターのない場合もあるし、おまけに階段も長い。これが足の悪いぼくには打撃だ。ペン森のように帰宅時、駅改札までだれかしら付き添ってくれるなら安心だが、ぼくの旅は、基本は単独だ。マイペースな人間だからである。

旅には費用が必要である。ぼくは貧乏だ。旅費の捻出が悩ましい。孫娘が同行する場合、その母親たるぼくの長女が援助してくれるからいい。でも北海道か九州へ列車を利用するとなると、3泊4日にしても2日間は往復に費やすことになる。足がそんなに悪化してないおととしは九州の旅を楽しんだが、いまは無理だろう。孫娘にぼくの育った故郷を見せたいが、実現は相当むずかしい。人生の締め切りが切迫すると可能性がほんとに狭まる。

で、9日間の連休をどうすごすかだ。こんな大型の休みなんてもらったことがないから弱る。76歳にして現役を続けているから悩むのだ。普通ならもうとっくに現役を引退して自宅に逼塞している年まわりである。生涯現役のつもりはないが、実際はそれに相当するような高齢になった。このような老人に作文を見てもらう学生が気の毒だ。ぼくは4つの私大で講座をもっていたが70歳でお役御免となった。車の運転も70歳でやめた。

70歳は人生のひとつの区切りである。4コーナーを回ってゴールへ向かって杖をつきつき歩いているのがいまのぼくだが、溌剌とした学生時代もあったのだ。映画記者になろうと真剣に思ったが、かなわぬ夢だった。可能性は狭まったが、まだひとにいえない夢を見ている。「夢追い人」のくせは年齢とは関係ないね。








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読書は人生でもある
 このところ本を買わない。自宅本棚にならべてある本は文庫本も入れて6000冊程度と思うが、読んでない本もかなりある。かつて読んだ本であっても、手にとって開いて文字をたどると、昔読んだことをおぼろげに思い出すが、筋は細かいところまでは記憶してない場合が多い。昔は海外の冒険小説やスパイ小説が好きだったが、冷戦終結とともにスパイものは失速した。いまは、藤沢周平を読み返しその巧みな小説力にうなるばかりだ。

ぼくの所蔵本はたいてい娯楽ものである。研究書や語学、古文書の類はまずない。日本とアメリカのエッセイ、小説を中心とした江戸や幕末の歴史もの、現代の風俗もの、政治権力闘争もの、歴史上の人物の伝記、内外の文学系などが多い.好色読み物もけっこうあったが、いまは少ない。引っ越しのたびに捨てた。家人の目に触れないようにこっそり処分してきたからである。写真集も何冊かまとめておいてあるが、まあ見ない。

子どものころから本好きだったのだろう。小学低学年の当時は漫画『少年王者』に夢中ではなかったかと思うが、定かではない。中学生では吉川英治の『宮本武蔵』、大仏二郎の『鞍馬天狗』、伊藤左千夫『野菊の墓』に時間を忘れた。高校に入ると、受験勉強はあまりしなかった。本ばかり読んでいた記憶があるが、なにを読んだかはほとんど記憶にない。ただ、漱石や鴎外ではなく海外ミステリーに傾斜していったような思い出がある。

大学に進学して卒業と同時に新聞記者になると、イギリスの海洋冒険小説にはまった。アリステア・マクリーンの『女王陛下のユリシーズ号』、スパイ小説の大家フリ―・マントルの処女作『バウンティ号の反乱』などを思いだすが、アリステア・マクリーンは有名な『ナヴァロンの要塞』をはじめ映画にも手に汗をかいた。大学時代に読了した社会学などの本も後輩に全部あげた。かれはほとんどをアメリカですごしているが読んだだろうか。

思い出せばきりがないと言いたいところだが、思い出せないから困る。脳から記憶がだいぶこぼれ落ちている。脳に残っているペン森生への推奨本は井上靖『天平の甍』『敦煌』『楼蘭』『蒼き狼』、藤沢周平『冤罪』におさめてある短編、吉村昭の『破獄』『漂流』などである。ぼくは『破獄』『漂流』『天平の甍』にはぜひ挑んでほしい。決して諦めることを知らない不屈の男たちから勇気と元気とをもらって生き方の指針にしてくもらいたい。

いつのまにか老齢に達したぼくは何回も同じ本を手にしてしまう。ページをめくってしばらくしてから、あれ、これは前に読んだと気付くこともたびたびだが、いままで気づかなかったのだから、新しく読むのと変わらない。わざわざ新冊を買わずとも、これまでのストックで十分に間に合う。ましてや先送りしてきたストックにはまだ読んでない本も多く含まれている。分厚くて漢字の詰まった本が目立つので難儀だが。

読書が趣味のないぼくの唯一の楽しみでもある。本を携行してないと電車に乗っても落ち着かない。夜は睡眠導入剤になってくれる。ときどき興奮と妄想をよぶこともあるが本こそ人生の友である。








ネズミ1匹もいなかった安倍談話
 僭越ながら、総理大臣安倍晋三の終戦70年談話を添削しようかと思った。作文にしては1000字の魏志倭人伝より3倍長いが、内容は主体のないだらだら文である。記者会見の様子をNHKが中継していた。20期生に感想を聞かれたぼくは「巧言令色 鮮(すくな)し仁」とだけ言った。言葉巧みに飾り立て、いかにも人徳がないような印象を受けたからである。修飾過多の抽象長文で実質を伴っていないと感じたのだった。

 実際は官邸の官僚たちが手を加えて、本人の意思がどの程度生きたかは知らないが、美文にしようとして悪文になった感は否めない。「私」という主語がなく「胸に刻む」という表現の多用に実質のなさが見てとれる。だから読む(聴く)ひとの胸に染みいらない。もうこれだけでAはあげられない。Cまではいかないが、B評価が妥当だろう。焦点がぼやけてなにを言っているかわからないこの長文は、マスコミ採用試験なら筆記落ちである。

 安倍談話が発表されたのは8月14日だった。その後新聞や週刊誌などが論評したが、総じて評判は芳しくない。ぼくはそのほとんどを読んだが、「私」という主語がまったくない、ということやなにを言いたいかわからないという批判はどこにでも書いてある。1週間おいたぼくの評価は後出しだから、真似はしないがなんらかの影響は受けているかもしれない。ただ悪文という批判や「胸に刻む」という空疎な表現の多用批判は見てない。

 五輪エンブレムだけでなく、サントリーのトートバッグなど数々のパクリ疑惑にさらされているデザイナー佐野研二郎はもう逃れられないだろう。では五輪エンブレムはどうする? 東京オリンピック・パラリンピックはなんとなくファッショめいてきたから怖いねえ。この空気が太平洋戦争下の日本を覆っていた。安倍談話はその空気を醸成したマスコミには触れず強制連行や慰安婦強制の日本軍も無視した。主語「私たち」に包含したのか。

 「巧言令色」の「令色」にはひとに気にいってもらえるよう取り繕うという意味を含んでいる。では安倍はだれに気にいってもらいたいのだろうか。すでにこの世にない祖父の岸信介、韓国女性、アメリカ、中国だろう。中国は訪中前だから刺激しないように気配りせざるをえなかった。アメリカは日本にとっての親分筋にあたるのでご機嫌を損ねないように留意したはずだ。安倍は当初、自分の右翼色を出すつもりだったとなにかで読んだ。

 もちろん安倍は「侵略」なんて言葉は使いたくなかった。週刊新潮8・27号によると、安倍と親密な東大名誉教授の北岡伸一が読売の会長渡辺恒雄と会って突然「私はもちろん侵略だと思っている」と言いだしたのだそうだ。ナベツネとも親しい北岡はナベツネの意を受けて侵略使用を安倍に直言したらしい。だから安倍談話ではなくナベツネ談話だという政府高官もいるという。反軍少年だった権力者ナベツネは少年に戻ったのだろうか。

 北岡が70年談話には「侵略」とはっきり打ち出すべき、と書いたのを読んだとき、ぼくはいささかの違和感を抱いたが、それだけだった。ナベツネが侵略派だとも知らなかった。人間は謎深い。1個の人間の中に数人の人間が潜んでいる。
 

 


20期生内定に異変あり
なんだか電車も空いていると思ったら、世間はお盆休みだった。ぼくも暑さ続きで老体の体力が落ちている。最近、土日の休みだけでは体力気力の回復に至らない、という実感があるのでゆっくりと休暇を取りたい。とは思っても、今年の採用試験は8月に集中して9月まで尾を引きそうだから、20期生たちの内定状況が気になって一向に気持ちが休まらない。夏休みを取るとしたら8月末から9月頭にかけてだろう。

ちなみに内定状況はNHK、毎日、ブロック紙、地方紙がまだ選考中だからこれから増える見込みだが、大手は読売4、共同通信2、朝日1、日経1などである。読売の4人は例年にない現象だ。ペン森生は総じて軟弱だから読売内定は少ない。ぼくは読売は好みじゃないから購読したことがない。20期生は突然変異的に読売に対する関心が高くなったのか。読売の自社勧誘はペン森先輩が入れ替わり立ち替わり熱心にやっていた。自社の悪口を言うのがマスコミなのにすごい!

それだけ愛社精神が強いわけだ。大手マスコミは日本的な伝統を守って、終身雇用である。自分の選択で退社するか、問題を起こして退社のやむなきに至るかのどっちかだ。問題はセクハラが代表的だ。ぼくはその是非の線引きがよくわからない。ぼくは警視庁公安に尾行されたことがあるらしいが、それは極左と言われる人物と親しかったからで、他人から尾行されていると聞かされて知った。セクハラも自分では気づかないでセクハラしていることがある。。

なにしろ、ペン森は女子もそのへんがあいまいな態度でこっちが人権侵害をやっていてもとやかく言われることがない。立場上ぼくが先生だからという事情があるのかもしれないが、女子は冗談でそれはセクハラですよ、と注意してくることはあっても当局に訴えることはない。要するにセクハラの厳密な解釈がペン森ではないから、ぼくはきわどい下ネタも酒がはいるとときどき楽しんでいる。これが平和というものだろう。ありがたい。

平和の満喫ができる雰囲気はこの窮屈な社会にあって、貴重なものではあるまいか。下ネタにかぎらず、ペン森はあけっぴろげな空気がある。ぼくの性格の反映もあるのだろうが、ペン森生も息苦しいのが苦手なようである。かと言って決して野放図ではない。ぼくの目の届く範囲ではきわめて善良な良識的な若者である。1,2期生の昔に比べると、歯がゆいくらいナイーブでもあり、ぼくみたいな旧式の人間には物足りない印象が20期生である。

20期生は女子よりも男子が優秀な感じがあった。内定も男子のほうが多い。部屋の掃除や食事の後始末、ゴミ出しを任せられるのも男子である。きのう「流しに洗い物がたまっているのではないか、これからその始末に行きます」と読売と朝日に内定した男子から電話があった。内定の報告ではなくそんな家事の連絡だった。よく気がまわるなあ、と感心した。女子たちはママになったら自分の子をどう扱うのだろうと気になって仕方がない。

読売も朝日も後片づけの電話をしてきた男子を見逃さなかった。見るところは見ているから面接をばかしてはいけない。内面性は言葉でどんなに飾っても、取り繕っても見透かされる。内定がほしけりゃ、内面を磨け、だ。


まるで小説のような記者生活
アルピニストの野口健が週刊現代の「わが人生最高の10冊」の1位に植村直己の『青春を山にかけて』を挙げ、2位に『サハラに死す 上温湯隆の一生』を上げている。ぼくは植村も上温湯も付き合いがあった。上温湯の死に関していまでもぼくはじくじたる思いがする。上温湯と知り合ったのはぼくが33歳で東京――北海道・網走までのヒッチハイク大会に学生に化けて参加したときである。いまから43年も前のことだがよく憶えている。

当時上温湯は20歳くらいだった。北海道から帰ったあと、ぼくが働いていた新聞社を訪ねてきた。ぼくがヒッチハイク大会に出たのは同僚の鉄道記者・種村直樹が社会部遊軍席で「こんな案内が来ている。これはきみ向きの企画だな」と1枚の紙を渡してくれたのがきっかけだった。種村は国鉄全線2万キロ走破など熱狂的なフアン多い有名記者だったが国会担当に配置換えになったのを機に退社して独立し、レイルウエイ・ライターとなった。

種村は亡くなったが、彼がいなければぼくは上温湯と出会うこともなかった。ヒッチハイクは浦和から群馬を抜けて日本海回りで青森からトラックに便乗して津軽海峡をフエリーで渡り苫小牧に着き、網走までまた車に同乗させてもらってひた走るというコースだった。33歳学生のぼくは「学生さんはふけてるねえ」と運転手に言われた。上温湯はヒッチハイクで知り合った彼女を伴って訪ねてきた。サハラについてゆくと彼女は言った。

「かよわい女の身でサハラ横断7000キロをう行く体力気力はあるのかい」と彼女にきくと「このところマラソンをしてきたえています」と答えた。でも上温湯は単独でサハラにいどんで、22歳で死んだ。「ラクダが6頭必要なんですが、ぼくの持ち金では1頭しか買えません」。無謀にもその1頭でサハラ砂漠を横断することにする。出発していくらも行かないうちにラクダが倒れた。壊血病で死んだラクダから離れられず彼も一緒に絶えた。

彼がぼくを頼ってきたのは新聞社の後援が欲しかったのではと思う。それから数年たって、彼の彼女だった女子が訪ねてきた。スペインに住んでいて、結婚して子供2人を授かったという。見た目はすっかりおばさんになっていた。それからまた数年すぎて、彼女から「日本でこのひとに会って来てくださいと伝言をたのまれまして」という中年男性が訪れた。その男性と調布駅南口の路地を入った喫茶店に入ったことだけを記憶している。

上温湯の死亡が確認されたあと世田谷の彼の家に線香をあげにいった。母親が応対してくれた。大きな仏壇があり、一見して創価学会と思わせる家だった。上温湯は決して明るいタイプではなく、なにかに悩んでいた。ぼくはそれは青春の一形態だろうと軽く考えていたが、サハラ砂漠横断を考えるほどの懊悩だったのかもしれない。ラクダと命を共にした際、うすうす死を予感していただろうと思う。それは遭難死ではなく自死に近かった。

関西の学生数人もアフリカの砂漠地帯へ行くから支援してくれと言って、来たことがある。フィルムを十数本わたした、写真を掲載したら掲載料を払う、と約束した。写真は送られてきたように憶えている。社会部や週刊誌の記者をやっていると、小説のような体験をする。20期生に毎日のように内定が出てはじめた。きみたちの先行きは起伏に富むぞ。

 

 



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