ペン森通信
赤ん坊に会う前に時代を考えた
ようやく風邪も治ったようだが、こんどはすこし腹痛を起こしている。途中下車してトイレに行くことが2,3回あった。それでも風邪がおさまったのはよかった。11期女子が赤ん坊をつれてくると言っていたのを断っていたが、これで来週か再来週赤ちゃんを見せに来て、といえる。ペン森も19年をすぎたが、二世がかなり増えた。子ども2人というペン森生も相当いるからうれしい。3人という子沢山もいて少子時代に心強い。

家内もぼくも6人きょうだいである。ぼくは小学1年で太平洋戦争が敗戦となったが、工場労働者、農民、兵隊を増強するためにまだ産めよ増やせよ、がつづいていたのである。要するにぼくらの世代の子沢山は国の生産財としての子どもの増産だったのだ。そういう意味でぼくらは消費財としての子どもだった。生産財、消費財として育った世代が国を発展させる原動力になった。生産財としての子どもは戦後に生産力を発揮したのである。

 いまの子どもたちはぼくらの子ども当時にくらべてかわいそうだ、と思う。ぼくは農村でのびのびと育った。未来に対する心配はなにもなかった。高校、大学は行くものと信じて疑わなかったし、実際地元の進学校から東京の私立大に進んだ。別段の理由もなく、強いて言えば中学時代から憧れていた新聞記者になった。1社のみ受け、幸運にもその社で新聞記者になれた。いまでも東京社会部当時の夢をよく見る。書けなくて焦っている夢だ。

 都市に住宅公団の団地ができたのは1955年だった。地方から都市に出てくる労働力が住まう住宅をつくる必要があったあらである。そしてこのころから、いまごろ大騒ぎをしている地方の疲弊がはじまりだしていたのだ。70年代までは集団就職列車も金の卵と言われた中学生を満載して地方から都市へ若い労働力を運んできた。歌手の森進一もその一人である。団地に入居するのはとても大変で住宅公団の職員はいばっていた。

 文化住宅ともてはやされた団地はいまや独居老人だらけとなった。両親を残して子どもたちが出て行って独立したからである。ぼくも団地生活を北九州と東京で経験して、マイホーム1戸建てを建てて住んでいる。近くが多摩ニュータウンだが、団地内にあった商店のほとんどがつぶれて、入居者も年寄りばかりとなった。時代の流れのすさまじさを感じないわけにはいかない。日本は登り坂から一挙に急な下り坂に変わってきている。

 このような変質は十分わかっていたのだが、政府は適当な手を打たず先送りしてきた。消費増税の全額を社会保障費に充てると言っているが、増税分のうち社会保障費に充てたのはほんの1割にすぎない、と本日の毎日新聞の本田宏コラムは指摘している。真実なら政権の詐欺まがいの発言に国民はだまされていることになる。これを明らかにするのが調査報道の使命と思うが、報道機関はどうも及び腰だ。情ない。必ず権力は堕落するのだよ。

 ぼくら世代がすごしてきた戦後は親の世代よりも豊かになると言う約束ごとみたいなものがあった。来週か再来週会う赤ん坊の未来を考えるとなんだか切ない。日本は下り坂を上手に下れるだろうか。階段でも山でも下りのほうが難しい。上手に下りてくれる政治を選びたいが受け皿がない。だがやはり未来の夢は赤ん坊に託そう。

 

 



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沖縄は独立以外にない
衆議院選挙をどうして総選挙というかというと、議員全員を新たにに選出するからである。参議院は3年ごとに半分ずつだ。存在意義は半分でも半選挙とは言わない。今回もぼくはどの党に投票しようか迷っている。従来は政権をとる心配がなく、チェック機関としての共産党に入れていれていたが、この野党はすこし自信をもったようだし今回は入れない。もちろん今度も憲法改正、原発再稼動、集団的自衛権容認の自民党には投票しない。

史上最低の政権・首相と断じてきた民主党に、むなしいが夢よもう一度の1票を投じようかと思っている。見渡してみると、民主党くらいしか良くも悪くも知っている政党はないのだ。最低の政権ではあったが、2009年最初の首相鳩山由紀夫は沖縄普天間飛行場の移転先を「最低でも県外」と宣言した。この発言で沖縄県民は「県外移設」に目覚めた。結局、辺野古回帰になって県民は絶望したのだ。民主党につきまとった期待と絶望。

県外移設は歌謡曲の文句にいうとおり「嬉しがらせて泣かせて消えた」のである。沖縄の約7割が米軍基地になっているのは1952年に発効したサンフランシスコ講和条約にさかのぼる。このとき沖縄のアメリカ統治が合法化された。沖縄は本土から切り離されたのである。その日の4月28日は日本政府にとっては主権回復の慶賀すべき日だが沖縄にとっては「屈辱の日」である。この屈辱と米軍基地から解放されるには独立しかない。

11月の沖縄知事選は予想どおりの結果だった。それでも辺野古移設賛成の現職の仲井真弘多が261、447票も獲得したことに驚いた。NHKが開票と同時に当確をうった翁長雄志は360,8220だった。前那覇市長の翁長は自民党県連の幹事長をしていたが、自民党は支持せず民主党、共産党は支持するという保革共闘という珍しい組み合わせで戦った。「もうこれ以上基地を挟んで左右に分かれる必要はない」と翁長は選挙戦で訴えた。

 これで辺野古の埋め立てがストップするかというと、そうではあるまい。仲井真知事が埋め立て工事を承認したから、政府は普天間基地の辺野古への移設問題はもう終わったものとして扱おうという姿勢だ。仲井真は「県外移設」を公約して知事になった。それが公約を翻して新基地建設に賛成したのである。このような人物が自民党が押し立ててまたも立候補して26万票もとったのだから沖縄の内面は揺れに揺れていると驚いたのである。

 仲井真が県外移設から辺野古賛成に裏切ったのは国が出す沖縄振興策という金に目がくらんだので。仲井真は金で沖縄を売ったと言われた。実際、仲井真は金政府から懐柔されたのだ。仲井真は「沖縄振興について安倍内閣の沖縄に対する思いがかつてのどの内閣にも増して強いと感じた」と絶賛した。沖縄の民意は知事選ではっきり示された。スコットランドの独立投票のさい、沖縄県民は沖縄の独立に賛成するのではと考えて興奮した。

 普天間の県外移設先はグアムがいい。沖縄の独立は、かのナポレオンが驚嘆したように戦争をしない武器のない平和な琉球に戻る以外にない。中国が触手を伸ばしてくるかもしれないが、沖縄独立宣言で世界の公共財であることを訴え、不可侵国家を謳えばすばらしい。今度の選挙、とりあえずは最初に県外移設を言った民主党に投票するつもりだ。以上、本日21日毎日の「論点」=沖縄の民意を読んで。

 


日テレ女子アナ内定取り消し裁判に注目
 日本テレビのアナウンサーに内定していた東洋英和の学生が銀座のクラブで一時ホステスのアルバイトをしていたことがとがめられ、内定取り消しとなった。これは週刊現代が報じたことから、各メディアがとびつくかっこうとなった。女子大生は裁判に訴えてアナウンサーとして日テレで仕事をしたい意向だが、日テレは受け入れない。内定取り消しの理由は「ホステスのアルバイト歴が高度の清廉性を求められるアナにふさわしくない」。

 「高度の清廉性」に目を剥いたひともいただろう。それは清楚な処女性を意味するのだろうか。ホステスのアルバイトは清廉性を損なうものなのか。職業差別のようにも受け取れる。ぼくは断然女子大生の味方だ。かといってなにかができるわけでもないが、腹が立つ理不尽な仕打ちである。日テレがNHKみたいに少しは清廉性のあるテレビ局なら理解もしたい。アナウンサー試験は一般職より早く経団連の採用憲章を無視して行われる。

 昨年の9月、女子大生は日テレのセミナーに参加して、内定を得た。ところが今年5月末、内定取り消しとなった。すでに裁判ははじまっているが、裁判の過程でアナウンサー採用の内幕が明らかにされるだろう。ぼくは日テレ不利と見立てるのだが、青田買い、囲い込み、他社を受験できない時期に内定取り消し、といった事情を勘案すれば、採用の不公正さからいって日テレに有利な材料はない。女子大生は最近の若者にしては心が強い。

 くだんの女子大生が仮に裁判に勝って、日テレ入社が認められれば、入社してからいじめられるんじゃなかろうか、と心やさしいペン森生は心配する。どっちみちこれだけ注目されているのだから、入社してからも世間の関心は持続するだろう。日テレも日テレ社員も下手なことはできない。週刊現代11・29号によると日テレは現在、彼女に内定辞退を迫っているらしい。裁判で採用試験の採用基準が分かれば一般学生も喜ぶだろう。

 ペン森に来週、2人の体験受講生が来る。いずれも女子で放送志望という。通信添削生の20期生が4人いるが2人が放送志望だ。放送局も新聞社も採用基準はあるようなないような、あいまいなものだ。日テレもだから「高度な清廉性」などという抽象的な表現を基準にしている。「女子大生の素人ホステス」と女子大生と素人を強くアピールすれば、おじさんの大半が納得できそうな抽象的な基準である。実際彼女は女子大生の素人だった。

 76歳のぼくですら「高度な清廉性」ということばは古臭いと思う。おそらくこれは日テレのおじさんが理想の女性を想像してひねり出したのだろう。想像というより妄想に近い。昔の理想の女子を追想しているのかもしれない。この一連の騒動で日テレの女子アナだった夏目三久のコンドーム写真を連想したひとも多いにちがいない。彼女には確かに「清廉」なイメージがあると思うが、下ネタ的な話題をはねかえし、よくぞ復帰した。

 さて来年の採用試験は4カ月ずれこむ。それを規定する経団連の採用倫理憲章をマスコミが守るかどうかはわからない。新聞は守るだろうといわれる。そうすると、採用試験は真夏に行われることになる。ペン森は20期生だ。まだ先はあるが、準備は早いに越したことはない。

 

社長辞任でも朝日は健全であれ
「現場の混乱鮮明」という見出しが昨日13日朝日の政府原発事故調56人分調書公開記事につけられていた。これはそっくり同日紙面で掲載した吉田調書をめぐる朝日の報道と人権委員会(PRC)の見解要約記事に当てはまる見出しだった。ぼくがとくに関心を持ったのは取材過程から記事掲載まで――の項である「記者の1人が吉田調書の全文の写しを入手」とそこは特ダネだから、りっぱなものだ、頭が下がる。それからが混乱する。

 写しを入手した記者はその分野に詳しい別の記者とタッグを組む。この2人が朝日社内で吉田調書の内容を独占するのである。「担当となった次長は調書を見たが、専門用語が多く分量もあったため精読せず、取材記者らが作った資料をもとに2人から説明を受けた」。要するに担当次長は面倒だったのだろう。これには一体どういうことが書いてあるんだ、簡潔におれにもわかるように説明してくれよ、と言ったにちがいない。

 「編集部門の責任者であるゼネラルエディター(GE)は担当次長に吉田調書の閲覧を求めたが、情報源が明らかになるのでと述べたため、それ以上それ以上要求しなかった」という。記者会見で居丈高になるのが朝日記者の特徴だが、担当次長もGEも部下に遠慮しているというか、怠惰というか。知る権利を読者から負託されているという自覚には欠ける。2人の取材記者以外の責任ある立場の編集幹部は調書を読んでなかったのである。

 5月20日朝日は1面で吉調書入手のスクープを放って、同業他社だけでなく世間もうならせる。ところが見出しと本文を読んでだれしもあれっと違和感をもっただろう。「所長命令に違反 原発撤退」「福島第一所員の9割」とある。記事組み込み日の前日、「違反」と「命令」という表現に異論が出た。「違反ではなく指示に反して」ではどうか」。「命令ではなく、指示ではないか」。担当次長は他にも取材資料がある、間違いないと突っぱねた。

 編集幹部はこの調書を読んだ2人をすっかり信用したが、2人は情報源の秘匿を理由に調書を見せない。2人は幹部を信用してなかった。ところが2人は現場の人たちへの裏付け取材をしてなかった。命令に違反した様子もうかがえない。記事の取り消しかお詫びをするしかないと追いつめられる。そこで木村伊量社長の謝罪会見になるわけだが、PRCは全社的な危機対応は遅きに失したとはいえ、評価できるとした。と朝日は自讃する。

 木村社長も来週再来週に退任するらしいが、関係した編集幹部も左遷もしくは格下げとなるにちがいない。衆議院解散・総選挙という国の大事な人事ともに社内の人事異動の季節はずれの季節が劇的にやってきたのである。社長会見以降、紙面は牙を抜かれたようにおとなしくなっていたが、社員は逆につぎの社長はとか、人事の話題でもちきりだろう。それをまた週刊誌がネタにする。しつこいが朝日ネタはまだまだ売れるにちがい。

朝日の社長は代わるが、日本の総理は変わらない。衆院選で自民党は議席を減らすが、大勢に影響はなく安倍政権は続く。安倍の血脈は長州・山口である。幕末長州ははじめ、激しい攘夷派であった。安倍は長州が開国派にテロを仕掛けたように朝日を憎む。それは朝日を」名指しして批判した「撃ち方やめ」の捏造発言でもはっきりでた。総理は代わっても、朝日は健全な言論報道のリーダーであれ。
 

 

 

 

トイレが近くなって考えた
国会は解散風が吹きはじめた。関係ないがぼくは風邪を引いた。ペン森を風邪で休んだことはない。脳梗塞で入院して休ませてもらったのはもう13年前になる。そのとき、たばこもすっぱりやめた。煙草をふかしている夢を見ることがいまでも年に1回はある。車の運転は5年前に、ゴルフは7年前にやめたが、運転とゴルフも夢を見ることがある。夢に出てくるのはすぎ去った過去ばかり。夢は小便に起きる直前に見る。

テレビの軍師官兵衛で茶々の隣に寝ていた秀吉が身を起こしてもぞもぞしていた。「どうしました?」と茶々が聞くと「もらしちゃった」と秀吉はばつが悪そうに言う。ぼくは酒を飲んでも、就寝前に睡眠導入剤を飲むから、比較的睡眠は深いほうだと思う。困ったことに自分では大して意識しないまま、いつの間にか老人になってしまった。秀吉みたいに布団のなかに漏らすのでは、と気がかりだ。老人になると想定外の心配ごとがふえる。

就寝してから小便で目が覚めるのは1夜に多いときで4、5回、少なければ1,2回だが、最近休日は早寝をするのでその分、回数がふえる。10時すぎにベッドにもぐると、12時半か1時に夢とともに1回目の目覚めになる。膀胱はぱんぱんに膨らんでいる。廊下ひとつ隔てた洋式トイレを遠く感じたりする。注意報を自分で発しながら、柱を伝わって寝ぼけ眼で駆け込む。トイレにも手すりをつけているが、これは小便の際には無用だ。

老人はトイレが近い。出るまでには少々時間がかるときもある。小便をする際は老人のあとに並ぶな、と言われるゆえんである。帰りしなペン森ですまし、ほぼ1時間後帰着した駅でトイレに行く。乗車前に用をたしているから、駅ではたいていスカである。それでもなんとか気分を盛り上げて、ほんの一滴のチョビでも出すように努力する。待っているひとがいると気が急く。駅で済ますから以前のように自宅近くで立ち小便をしなくなった。

東京の通勤電車にはトイレがないが、ローカル線にはトイレがある。最近、用心深くなって、たとえば熱海から乗るときはトイレ車両を必ず確認してから、その車両か隣の車両に乗る。地方を走るディーゼル車両は1両か2両だが、これもトイレの有無を確認してからトイレ車両を利用する。ローカル線は駅間距離が長いせいか、高齢者の利用が多いせいか、ほぼトイレがついている。むかしは便器の穴の下を通過する枕木が見えたものだ。

垂れ流しでしかも停車中は使用不可だったことを憶えているぼくは、停車中の列車のトイレ使用にはいまだに慣れない。走行中に使うことが多くなるが、脚の自由が利かずすぐバランスを崩すので途中の通路で苦労する。子ども時代の体験が後遺症となって残るというのも長生きの証拠であるから、あまり深堀はしないことにしている。もちろん通勤途上の主要駅のトイレはほとんど場所を調べている。備えあれば憂いなしの知恵である。


日本の文化はおもてなしにその真髄があると言われる。トイレのきれいさ、とくに駅やデパートのそれは比類がないほどではあるまいか。といってもぼくの海外体験なんてしれたものだが。トイレのことを考えると、ぼくはドメスティックにならざるをえない。

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その後の人生も楽しく
 金曜日、木曜日は体が重い。一種の歩行困難者になる。とりわけ、夜11時をすぎて駅の改札をでて家にむかうとき、ほとんど例外なく酔っているので、杖をついている最近は転倒することもなく帰り着く。杖さまさまである。体が重いのは年齢のせいも大きいと思う。いい加減引退していい歳だ。かかりつけの医者も最初は「まだ働いているんですか」と驚いていた。おととい5日に76歳になったのだから、悠々自適でもいい歳だ。

 男は会社を定年退職したら、田舎生活を楽しもうとか、絵を描こうとか、温泉巡りの旅をしようとか、いろいろと夢を描くらしい。でも田舎暮らしは自然に恵まれている代わりに虫が多いうえに村の付き合いが大変だ。絵を描くにしても温泉巡りにしても金がかかる。収入がないのに自分だけ楽しんで、老後資金のことを考えてよ、と女房が怒るに決まっている。かと言って、家の中にいつもいるものなら、「たまには外へ出たら」と言われる。

 会社だけが人生のすべてだった人にとって定年後は死ぬほど退屈で長い。その点ぼくは、会社生活は人生の寄り道だったと思っている。もともと30代のころから若い人に囲まれてマスコミ向けの作文を見ていた。その作文塾を前の会社を途中退社してから、なんの迷いもなくマスコミ志望の学生向けの作文塾をはじめたのである。以前から酒つきだったが、これは緒方洪庵の適塾に倣った。塾生の福沢諭吉は開塾中も酒を手放さなかったという。

 ぼくが酒飲みだった、ということが、ペン森が来年20周年を迎える一番の要因だろう。おかげで自ら楽しむだけでなく、有為な学生と親しく接することができ、将来に期待してわくわくする心情になれた。おととい卒業以来訪れてきた5、7期生はソニーに勤めていたがいまは辞めて、起業するという。世界をめぐってきて英語堪能にして頭脳活発、堅実な若者だから、きっと成功するだろう。未来を見据える頼もしさをぼくは感じた。

 つぎの要因はぼくが若者好きだということだ。若者は未来や希望につながる可能性を秘めている。最近の若者はひ弱で心身のたくましさに欠けるが、それでも76歳のじいさんよりもはるかにその可能性に期待していい。それが若さの強さというものだ。ぼくが30代で面倒を見た学生はもう50代後半にさしかかっている。ぼくがペン森をはじめたころと同じ年齢である。体が重いのはすぎし日からよく飲んだと気が咎めるからにちがいない。

 76歳のお祝いメールに、父親とぼくのことが話題になり、定年退職の父親はぼくのような人生がおくれたらいいなあ、と羨ましがっているらしい。たしかにぼくは好きなことをやってきた。いい人生だとぼくは思う。家内は「毎晩がお誕生祝いみたいなもんでしょ」というが、まあ、神保町の平成の適塾はそんなもんだ。ここから福沢諭吉、大鳥圭介、高峰譲吉、高松凌雲、橋本左内、大村益次郎や歴史に名を残す女史を輩出させたいものだ。

誕生祝いに石井光太の『浮浪児1945-戦争が生んだ子供たち』を学生たちからもらった。上野の地下道にたむろしてかっぱらいやごみあさりをしていて、仲間が何人も餓死するなか生き伸びた少年たちのその後が気になっていたぼくの読みたかったドキュメンタリーだ。ひもじいという言葉はもう死語になった。いまの若者は罪の意識を感じることなく食べ残す。だが生きづらい。なんという時代だろう。

村上春樹に共感する
きのう3日、毎日新聞に村上春樹のインタビューが載っていた。村上作品はむかし、『風の歌を聴け』を読んで『ノルウエイの森』も読んだが、どちらも内容にはかすかな記憶しかない。エッセイは挿絵が愛くるしい安西水丸とコンビの『村上朝日堂』が好きだった。『はいほー』も愛読した。以前、週刊朝日で連載エッセイをもっていた。それを読むために週刊朝日はよく買った。小説をあまり手にしてないのはたぶん食わず嫌いなのだろう。

インタビューには共感するところが多かった。小説も読んでみようと思う。村上とぼくとはぼくのほうが10歳年上だが、太平洋戦争や福島第一原発事故に関してもだれも責任をとらない「自己責任の回避」が日本の共通の問題だと指摘している点におおいに同意する。「例えば、終戦後は結局、誰も悪くないということになってしまった。悪かったのは軍閥で、天皇もいいように利用され、国民もみんなだまされて、ひどい目に遭ったと」

「(日本は)犠牲者に、被害者になってしまっています。それでは韓国・朝鮮の人も怒りますよね。日本人には自分たちが加害者でもあったという発想が基本的に希薄だし、その傾向はますます強くなっているように思います」。そのとおりだと思う。おそらく広島・長崎へのアメリカによる原爆投下で瞬時に市民の日常が断ち切られ、子どもや女性を含む戦闘員以外に多数の犠牲者を出したことから加害者から被害者に転じた、とぼくは考える。

「原発の問題にしても、誰が加害者であるかということが、真剣には追求されていない。もちろん加害者と被害者が入り乱れているということはあるんだけど、このままでいけば『地震と津波が最大の加害者で、あとはみんな被害者だった』みたいなことで収まってしまいかねない。戦争の時と同じように。それが一番心配なことです」。これにも共感するね。
いまだに福島県から10万人以上が逃げている。それに対してだれも責任をとってない。

 村上春樹が早稲田大学に入学した68年から大学紛争が激化する。新宿の地下西口広場は学生グループが香港学生のように集合して議論をしていた。熱気にあふれていた。ぼくはすでに警察庁担当記者だった。70年には日本初のハイジャック事件が発生、若者が乗っとった日航機は福岡空港を飛び立つ。ぼくはそのとき、警察庁長官、後藤田正晴と長官室で話していた。電話をとった後藤田は半分飛び上がって「そんなはずは!」と叫んだ。

 警察官が空港作業員に化けて日航機の周りにいたのである。ぼくが最も憶えているのはコックピットの窓から顔を出している機長がとても浮かぬ表情だったことである。機長は家庭を捨てて、愛人と暮らしていた。浮気がばれると機長は思って困惑していたにちがいない。だが、日航は機長をいっとき家庭に戻し妻ともども平和な家庭を営んでいると思わせようとしたが、パパの不倫はやっぱり暴かれた。以後、機長は流浪の人生だったらしい。

 60年代70年代はじめは若者にとって激動の時期だった。「僕らが60年代に持っていた理想主義を、新しい形に変換して引き渡していくのも大事な作業です」。人は楽観的になろうとする姿勢を持たなくてはいけない、とも村上は強調する。現代の若者に楽観的な姿勢をもってもらうには、ぼくら60年代経験者は人生教訓と理想を引き渡さねばならない。





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