ペン森通信
いい人材よりも有望な若者を
 秋採用試験の読売の論文課題は「人口減社会」だった。その人口減を象徴するかのように予備校の代々木ゼミナールが全国に展開している27校のうち来年22校を閉じて7校にする、という。一方、大学は92年に523校だったのが782校に増えている。18歳人口が減少して大学全入時代を迎えたというのに、大学の数が増加するというこの矛盾。
当然、定員割れの大学も出てくる。学生の質も低下するばかりだろう。

 この質の低下はペン森にとって他人事ではない。急激な低下でなく緩慢な低下だから、普段あまり意識させられることはない。カエルを水にいれて水をゆっくり沸かしていってもカエルは気づかず、気がついたときには茹であがっているのと同じで、20年たって気づいたら学生は相当退歩していた。今年ほどマスコミ各社から「いい人材がいない」という嘆きを聞いたことはない。鹿児島の南日本放送は人事がペン森まで人探しに来た。

ペン森にいると、飲んでは馬鹿話をしていた仲間が当たり前のように内定する。すると朝日も読売も毎日も中日も共同もNHKも大したことはない、自分も入るのではないかと錯覚してしまう傾向が見える。だから中には身の丈知らずの高望みをする受講生もいる。マスコミは東大が有利とは決して言えない代わり、偏差値の高い大学の学生が内定しやすい感じはある。ESに大学名を秘しても結果として、そういう学生が先に決まってゆく。

今春の採用で朝日に東大生が1人もいなかったことが話題になった。週刊新潮が取り上げて広まったのだが、新潮で嫌みな健筆をふるうのは年かさの記者にちがいない。ある程度年齢のいったひとならば、東大=朝日=岩波というイメージがまだ残像としてあるだろう。ぼくが思うに、朝日は日本の中央集権国家という権力構造の枠の中で威力を発揮してきた。政府、すなわち日本を動かす中央官庁に電話1本で話せる同級生がいたのだ。

ペン森に両親とも東大法学部出身の中央官庁キャリアの優秀な息子がいて、朝日に職を得た。内定してから間もない日、かれは朝日の記者たちに歓待された。官僚の両親のお世話になったから、ということだったらしい。つまり、朝日記者と官僚とはそれだけ近かったのだ。両者を結ぶのは東大法学部にほかならない。といって、朝日記者が官僚と癒着していたのでもないようだ。要は情報を入手しやすい立場にいたのである。

そういう意味で中央集権の枠内に朝日はいたわけだ。あるいは朝日は中央集権を形成する一員であったかもしれない。中央官庁の採用はすでに東大法学部一辺倒ではなくなっている。マスコミはもっと多様な大学卆の採用を前からしてきたが、その多大学採用が加速している。そうして、学生の能力の劣化現象に今年になってやっと気づいて、予定よりも採用減の社が何社も出た。もっともマスコミ各社の採用基準にはまるで進歩がないが。

ぼくのところにも「いい人材はいませんか」ときいてくることがある。ぼくはそれが不満だ。「有望な若者はいませんか」ときいてほしい。有望の中にぼくは片親や障がいをもった親や兄弟をもっている、あるいは本人が障がいをもっていて、より広く深い取材のできる能力を加えたい。記者は明るく健康で丈夫だけでは通用しない多様複雑な世の中になってきたのだ。

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知らぬ間にことは進んでゆく
転倒して痛めた左脚がまだ調子よくない。18,19日と休ませてもらい静養したが、杖が手放せない状態が続いている。ついに、門扉から玄関近くまでのわずか5段の階段に手すりをつけることにした。障害者ではないが、高齢者にはちがいないので、手すりの取り付け費用は市から5万円まで補助が出るらしい。それを利用することにした。女房と終活の話をした。ぼくは樹木葬か共同墓地を希望しているが、無宗教葬を望む家内も同意した。

いま、秋採用のまっ最中である。だから休める。秋の結果が出てからも来年の春採用まで時間があるので切迫した受講生はいない。休みがとれる。例年、採用試験期になると旅に出ていたものだが、車を手放してから極端に遠出が減った。高齢になると体の動きのキレが鈍くなる。ましてや、転倒したあげくの杖生活ときては歩くのが精いっぱいという状態だ。自宅から神保町のペン森に通うのにも往生する。旅に出るにはかなりの勇気が必要。

旅が難しい半面、この時期は卒業生がよく訪ねてくるので、気分が変わってうれしい。きょうも夫読売、妻産経の夫婦が来てくれるらしい。受講生は本試験が終わって作文を書かなくてすむので、ぼくも添削から解放される。ひまだからきのうは朝日の面接を終えてきた秋挑戦組の男子と夕方5時から飲みはじめた。6時半にNHK記者から日経に転じる13期男子がきて、ぼくのお気に入りの14期日経女子記者を呼んで楽しかった。

けさ見たら日本酒の1升ビンが2本空いていた。ぼくが帰路についてからかなり盛り上がったのだろう。ぼく自身よく倒れなかったなあ、と感心するくらい酔いがまわっていてペン森を出るとき、だれが来てだれが残っていたか記憶にはない。それでも秋挑戦組の男子が1人残留していることは憶えていた。家についてからゴミ袋にゴミを詰めたままだったことに気づいて、電話したからろれつは怪しくとも気は確かだったように思う。

ゴミ捨ては水曜日の資源ゴミを火曜の夜出しているが、今週は火曜日に休んだので、ペットボトル、酒ビン、ビールの空きカン、段ボール、新聞がたまりにたまっている。来週火曜にだれも来なければ、足の不自由なぼく1人で運び出さねばならない。まあ、30分近くかかるだろうが、いままでも経験しているから無理をすればできるはず。このゴミ出しはけっこう厄介だ。夏は生ゴミがすぐ腐ってしまい腐敗臭に参る。

新聞もほっとけばすぐたまる。新聞を何紙も取ると、読んだあとのゴミの量がすごい。むかし、物資が払底していたころ、新聞紙は貴重品だった。弁当の包み紙、座敷の掃き掃除の際ちぎって撒く濡らし紙、しりふき用と用途は多方面にわたった。いま一人暮らしをしている学生で新聞を取っているのはごく少ないが、新聞はゴミという意識もどこかにあるのかもしれない。ペン森をはじめるとき、ゴミのことはまったく頭になかった。

 もちろん、自分が老人になるなんてことも毛ほども考えなかった。考えないうちにどんどん歳を重ね、実感のないまま後期高齢者になっていた。実感的に気づいたのは酔って体の自由がきかなくなってからである。知らぬ間にことは進んでいくものだ。


作文は内なる叫びを
 来週は11日から15日まで直前作文特訓を実施する。会場は11,12日がペン森、13,14,15日は中央区の産業会館。例年だと初日と2日目が混む。1日3本の作文を課すから、2日間でネタを使い果たしてしまう。3日目から極端に人数が少なくなるので、4日目の14日と15日は自己PR、模擬面接、グループ討論も組み入れようかと考えている。有料の会場を借りるのだから有効利用しなければ。合宿みたいなものだ。

 直前に作文対策をしてどれほどの効果があるか、水を差すようだがおそらくほとんどないだろう。本人がそれまでの人生で考えてきたこと、実行してきたこと、失敗から学んだこと、それらの集積がもたらした価値観といったものが問われる。一言で言えば読み手の内面に訴える内なる叫びがあるかどうか、と言っていい。それは作文だけでなくESや自己PRにも通じることだ。もちろん表現するに値するかどうかのセンスの有無が前提だが。

 このセンスというのがなかなか厄介である。ペン森では口を酸っぱくして一次情報を活用しろと強調している。マスコミの試験だから、と気負って社説みたいなものを書くひとがいるが、それは二次情報の加工にすぎない。今年は特定秘密保護法、集団的自衛権の行使容認と国の方針を根底から転換する政権の姿勢があらわになった。これらの問題に真正面から取り組んでも、それはどこかで読んだような聞いたような、鮮度のないものだ。

 書き方(構文)は、マスコミが1000字を課していたころは起承転結を要求していた。
起  三条木屋町 糸屋の娘
承  姉は十七 妹は十五
転  諸国大名は 弓矢で殺す
結  糸屋の娘は 目で殺す

糸屋の娘の妖艶ぶりを表現した江戸小唄である。「諸国大名は弓矢で殺す」という転が効いている。でもこれは真似しないほうがよい。起承転結はむずかしい、とくに転が、と学生は嘆く。なら混乱するから真似しないほうがよい。ましてや、800字が主流になっているいまは「現在→過去→未来」の流れになるように書きなさいと勧めている。テレビのニュース原稿がたいていそうだ。これは逆三角形型でもある。

もうひとつ有力な書き手順もある。組み写真方式である。「クローズアップ→近景→遠景」
という内容の流れだ。A地点とB地点に橋ができた。便利になったと橋を眺めて喜びを顔いっぱいにひろげているひとのアップ、次に橋の渡り初めをしているひとたちの描写、最後は橋がないために苦労した高齢者や女性たちの声と橋が完成するまでの歴史的な背景。問題はその橋が本人とどうかかわり、書くに値するニュース価値があるかどうかである。

 読売記者から作家になったひとの話。火事の通報があった。「何棟焼けた?1棟か、じゃいいや」かれは現場に行かなかったが大いに叱責された。燃えたのは1棟にすぎなかったがそれは五重塔だった。来週はなにより現場で一次情報を見つけるためのセンスを少しでも身につけるための特訓でもある。


太き骨のそばに小さき頭の骨集まれり
 広島、長崎の原爆忌が近づいた。広島、長崎に赴任したことはないが旅ではともに訪れている。広島は14期女子に卒業証書を届けるため、孫娘との旅の途中に寄って1泊した。3日の日曜日NHKスペシャルは「原爆の絵」だった。「原爆の絵」のビデオコーナーは確か原爆資料館のなかにもあった。広島のひとがそのときの記憶を生々しく絵にしたその絵の作者などを訪ね歩く番組であった。2002年に放映された、その再放送である。

 NHK広島放送局は平和記念公園の近くにあって、付近では頭抜けて背が高い。それだけでNHKは金があるんだな思わせるビル。川向こうにある中国新聞の古さに比べたら月とスッポンだ。だが原爆報道の揺るぎない強さでは両メディアは抜きんでている。それは沖縄の沖縄タイムスと琉球新報が米軍基地問題で本土のメディアよりも質の濃く高い意識をもつのと同様である。現地と時間的にも地理的にも離れた地域との温度差は大きい。

 広島の原爆による死者に関して、ぼくは大学の授業などで14万人と言ってきた。これは訂正しなければなるまい。14万人は原爆が投下された1945年に亡くなったひとのことらしい。実際はその後も含めると死者は28万人にのぼるという。統計の魔術である。どこかで切れ目を設けねばならないだろうが、それによって事実が隠れることも生じる。交通事故死は事故に遭って24時間以内に死んだひとを示す。あとの死は数えない。

 1945年、詩人の正田篠枝は35歳で広島の爆心地から1・7キロ離れた自宅で被爆したが、生き伸びて原爆症による乳がんのため65年に54歳で死去する。しかしこの歌人は原爆死者14万人にはカウントされてない。正田篠枝は1947年に私家版歌集『さんげ』をだして一部で注目される。私家版というのは、占領軍情報局の厳しい監視と検閲の目を避けて広島刑務所内でひそかに印刷して発行されたからである。

 ぼくは女子大の授業で『さんげ』を教材に正田の短歌について話したことがある。
  炎なかくぐりぬけきて川に浮く死骸に乗っかり夜の明けを待つ
  ズロースもつけず黒焦の人は女(をみな)か乳房たらして泣きわめき行く
酒あふり酒あふりて死骸焼く男のまなこに涙光る
太き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり

 皮膚の焼けただれた被爆者は水を求めて川に群がるがそこで息が絶える。死骸はもつれていかだのように川に浮かび、その上に乗って夜明けを待つひともいたのだ。上記2番目の「ズロースもつけず・・・」のズロースを全部の女子大生がわからなかった。「ズロースって名ですか」「木綿のパンツだよ」こんな質疑応答があった。死骸を焼きながら酒をあおり泣くおじさん。「太き骨・・・」は有名な短歌。可憐な小さきあたまの骨が痛々しい。

 あす6日が広島の原爆忌である。19期生に広島の中国新聞が第一志望という女子がいて見事内定した。原爆投下直後に撮影した写真は3枚しかない。そのうちの1枚は新聞記者が写したものだ。19期のその女子は発表よりも現場でニュースを拾うタイプだ。いい記者になるだろう。




女子の酒好き旅友を募集中
 パチンコ、カラオケ、ファストフード、ホステスのいるバ―、フ―ゾク、ゲーセンにはまったく興味も関心もない。ぼくがそれほどくそまじめな朴念仁かというと、とんでもないということはペン森生がみな知っている。ちょっと偏りはあるが、女子大好き人間である。19期生にゲイがいるが、なぜ男が男を好きになるのかぼくには全然わからない。でも同性婚という世の中の流れもあるし、そこはローマ教王同様、寛容に多様性を認めよう。

 パチンコ、カラオケ嫌いだと老後をどうすごすのかと心配してくれる友人もいるが、もう女子のおかげで十分に老後を享受している。これでも数十年前にはパチンコ、ゲーセン、ゴルフ、クルマにかなり夢中だったのだ。30歳前にはこいこいバクチに溺れ、それで小づかいを稼いだ時期もあった。朝日記者をカモにしていた。警察の記者クラブで金銭のやりとりをするバクチをやっていたのである。防衛庁では広報部長に20数万円負けた。

 人生のそのときどきに応じて趣味嗜好は変化してゆくが、変わらないものもある。ぼくの場合、学生当時から旅だ。遡れば、原発で注目を集める薩摩川内に父方の祖父祖母が住んでいたので、小学5年生時、宮崎の田舎から鹿児島乗り換えで5時間かけて1人で会いにたびたび行っていた。それに端を発して旅好きになったのかもしれない。戦後4,5年たっていたが、地方の列車も混んでいて荷物置きの網棚にひとが寝ていた。

 大学生のころは山陽本線もまだ電化されてなくて、蒸気機関車が列車を牽引していた。ぼくはもっぱら各駅停車で東京―鹿児島を行き来していた。夏になると下着類は駅の洗面所で洗って、列車内の網棚につるして乾かしていた。24,5の駅に途中下車して改札の駅員が切符にパンチを入れる場所に寝たり、駅前公園に寝て蚊の餌食になったりした。のんびりしたいい時代だった、と高齢者はひたすら過去を美化するのである。

 50歳記念で車の免許を取得したときからドライブの旅をはじめた。最初の車は三菱パジェロの3Lショート4輪駆動。けっこうワイルドだった。ガソリン代もばかにならなかったが、ペン森を創設する前で1800万円の年収があったころだから余裕だった。70歳で手放し、運転を放棄したときはおとなしくトヨタのカローラ。この間、カローラはペン森合宿車に転じることも多かったが、ぼくもよく1人でドライブ旅をした。

 一番行ったのは日本海を北上した秋田・男鹿半島だろう。近場では甲府にある山梨県立美術館へ1回だけ車で行った。その美術館はミレーの「タネをまく人」があるのでいまでも年に1回は訪れる。ペン森で若いひとにメディアのタネをまくのがぼくの仕事だからだ。だが駐車場の向かいにほうとうの名店「小作」があって、そこで酒を飲むのがたのしみ。だから車では1回だけ、あとは中央線各駅停車を利用して美術館のあと「小作」で飲む。

 で、秋採用試験が終わったら、日帰りでできれば女子を伴って山梨県立美術館へ行こうと思う。8月31日まで「生誕200年 ミレー展」を開催している。ミレーを観て「小作」でほうとうを口にしながら飲むつもりだ。女子を伴いたいのは酒の相手になってほしいからである。相手になってくれる女子はいないかしら。

 



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