ペン森通信
佐世保高1女子の殺しに鈍感
 また長崎県佐世保で女子の同級生殺しがあった。また、というのは2004年にも佐世保市立小で6年生女児が同級生の首を切って殺したことがあったからだ。被害女児は毎日新聞佐世保支局記者の娘だったので、ぼくはとくに記憶している。今度の加害高1女子は遊びに来ていた友だちの首と左手首を切断するという戦慄すべき行為をしていた。切断は殺害後に行ったというが、女子のこのような残虐行為は聞いたことがない。

 死体を隠すために風呂場でばらばらにしたケースはあったような気がするが、今回のような事件ははじめてだ。はじめて経験するにしては、ぼくは驚愕の度合いが少ない気がして、そういう自分に驚いている。世間もまたテレビが騒ぐほどはショックを受けてない印象がある。いつのまにか衝撃の多い事件事故客船沈没戦争旅客機撃墜のすさまじさに慣れすぎてしまったのだろうか。それともぼくだけが感度が鈍くなっているのだろうか。

 ぼくだけだったらいい。子どもを含めた世間もそうだったら、これは日常と異常の境界がなくなったようで気持ち悪い。平和な豊かな暮らしの一方、残虐な漫画がもてはやされ、テレビも刺激的な場面が少なくない。バイオレンス小説ももはや大藪春彦は古典すぎるが、主人公の陰気な情念は現代に通じるものがある。先行きに明るい展望が開けない現代は陰気な空気が漂う時代だ。危険ドラッグの吸引もこの時代だからじゃないか。

 そうなると若者に兵役義務を課して日本も徴兵制をしくべきだという短絡発想に陥るひともいそうだが、それは現代人のもう一つの特徴である思考停止につながるものだ。どんなに衝撃的な現場でもテレビを通して見ると、臭気が伝わらないから、映像というリアルな現実と匂いのない現実を同時に体感することになる。現代は昔に比べて周辺に匂いの少ない時代といってもいいだろう。第一、糞尿の匂いが周囲からまったく消えた。

 加害高1女子はベッドの上で友だちの被害女子の首を切断したというが、血の匂いに驚いたのではないか。胴体まで切断するかのような傷があったらしいが、血の匂いに耐えかねて途中であきらめたのではとぼくは推察している。加害女子は「ぼく」と称していたらしいから「レズだったのかも」というペン森現役女子の新説は捨てがたい。「だって高1は15歳だよ」「ありえますよ」。15歳にそういう情念の世界がありうるのかと考えこんだ。

 捜査が進むとある程度真相がわかるだろうが、なにしろ少年法で保護されている年齢でもあるから、世間注視のなかで警察も腫れ物に触るような取り調べしかできないかもしれない。加害女子は1人住まいだった。母親の死亡とその後の父親の再婚はどのような影響をもたらしたのだろうか。家庭に居づらいから1人暮らしをしていたのだろうか、もしかしたら家庭から追い出されたのかもわからない。1人暮らしはだれの意思だったのか。

 「ひとを殺してみたかった」と加害女子は供述していると伝えられる。東大出の母親を亡くしたあとの父親の早い再婚には気乗りしなかったらしいが、きのう16歳になったばかりの年ごろの娘だ。これから家庭裁判所に送致され精神鑑定が行われるだろう。




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趣味はペン森、ペン森いのち
東京もきょうは梅雨明けするだろう。木々の緑はいよいよ濃く、すでに蝉も鳴いている。子どもが多いと思ったら、もう夏休みにはいっていたのだ。8月中旬になると、マスコミ秋採用の試験が重なる。世間がお盆休みをとっているであろう8月11日から15日まで、
ペン森は19期生秋組の直前作文特訓である。そのあと、ぼくも夏休みをもらおうかと考えている。孫娘と旅に出る予定だったが、足の調子がいまひとつなのと資金不足で断った。

 これで年1回の旅の楽しみが消えた。そもそも今夏はほかに旅ができるのだろうかと思う。青春18きっぷでJR各駅停車でまわろうかと勇んでいたが、ひとり旅では心もとない。介護とまではいかなくても、それに近い付き添いが必要になっている。でないと階段をひとりでは下りられない。転んだらまず骨折だろうから、ペン森も閉鎖せざるをえなくなる。それだけが心配だ。20周年記念パーティを目前にして骨折閉鎖では切なすぎる。

 だからといって、旅には出たい。趣味のないぼくの唯一の趣味が旅だからである。旅に出なくてもいまや休日は歩いて1日1回片道10分足らずの買い物に出向くくらいでほとんどひきこもり状態というありさまなのだ。このままでは先行き車いすか寝たきりが待っている。家に専用のPCでもあればまた気分転換にいいのだろうが、DVD専用に使用している古いPCがあるだけ。DVDを借りに行く歩行に自信がないのでOFFのままだ。

 新聞もテレビも認知症の話題が増えたが、それだけ認知症問題が深刻になっていることの反映だろう。NHKスペシャルが20日、認知症ケアの技法「ユマニチュード」を紹介していた。これは家族間でも病院でも可能な技法で「見つめること」「話しかけること」「触れること」が中心になっている。ぼく自身は認知症にはほど遠いと思っているが、普段接して親しいペン森女子が「触れること」に力点をおいてくれれば予防効果があるのでは!

 旅に出てもやはり今夏は近場だね。近場で再訪したいところにしようかと考える。新しいとこところはいろいろと調べなきゃいけない。温泉はぬる湯なきゃ困る。風呂場の床は滑りやすくないか。風呂には手すりが何か所ついているか。要するに滑ったらペン森の運命に関わってくる。ぼくの考えの根っこにあるのはすべてペン森である。ペン森のことしか頭にない。社会を変える原動力にペン森生がなってくれると期待しているからだ。

 もしかしたら、ペン森はぼくの最大の趣味かもしれない。最近でこそ金曜日になると足も重く、左足を引きずって歩くことが多くなったが、ペン森往復が面倒だったり、苦痛に感じることはまったくない。精神衛生上はきわめて好ましい。このあいだ5・6期生女子が集まっていっしょにご飯食べたそうだし、13期女子は月1か2月に1回に集ってランチを共にしている。ペン森があって初めて実現した仲間のことを聞く幸福感は深い。

ましてやペン森生同士の結婚は涙が出るほどうれしいものだ。若者に囲まれつづけている後期高齢者は果たして何人いるのだろうか。だからぼくは認知症とは縁遠い、という気がする。とくに女子の付き添いがますます必要になるかもしれないが。




いまごろ少子化非常事態宣言
貧乏人の子だくさん、という言葉はもう死語になった。ぼくらの世代でも子どもは多かった。戦前は兵士や労働力の供給源として産めよ増やせよ、と子だくさんが奨励されたのである。貧乏でなくてもきょうだいが6人7人という家庭は珍しくもなかった。ラジオと新聞だけが情報源でテレビ、携帯、パソコンなんてなかった時代だ。貧乏人は娯楽がないので、やることがない。だからやたら子どもの数が多くなったのだ。3つ下の妻も6人。

 ぼくも6人きょうだいだが、ほんとうは9人だった。3人は幼児のころ亡くなって6人が生き残ったのである。はいった小学校は国民小学校だったが、敗戦を機に村立になった。1学年6クラスで1クラス5、60人だったように記憶している。いまは公園でもしんとしている状態が少なくないが、当時の世の中は子ども声で騒がしかった。テレビでサザエさんを見ていたら、「○○ちゃん遊ぼう」と友だちの家の前で声をかけるシーンがあった。

 そのような光景は忘却のかなたへ消えていたのでたいへん懐かしかった。第一、子どもが外で遊んでいる姿もあまり見かけなくなった。子どもは風の子ではなく、外に出ない家の子になってしまった。1人っ子や2人きょうだいはゲームやスマホに夢中らしい。外に出ると、交通事故やら誘拐やら性犯罪に巻き込まれる恐れがあって、親は心配でたまらない。世間は一見、平和安穏だが、ひとの心はそうではなくヘンな男女がばっこする時代だ。

 ペン森生から年内3件の結婚案内が来ているが、めでたい出産は1人か2人にとどまるだろう。結婚する若者も1人っ子か2人きょうだいが普通だ。女性が子どもを産む人数を数値化した合計特殊出生率は2・07ないと人口は維持できないとされるが、日本はすでに人口減社会に突入し、じり貧がはじまっている。人口減ということは労働力人口が減ってゆく、ということだ。それをカバーするのは女性、高齢者、外国人しかない。

安倍政権は女性の活用を考えているが、これには男性の協力と社会の支援体制づくりが必要だ。結婚した女性がいずれ退社するのはなぜか。それを突き詰めて対策を練って実行しなければ単なる政権のスローガンだ。支持率をあげる操作かもしれない。女性管理職を増やせ、と言っていても管理職女性が会社を辞めていくのは親の介護のためだから、介護環境を整えることが先決だ。なにも手当てせずに号令をかけるのはだれにでもできる。

15日に開かれた全国知事会議は「少子化非常事態宣言」を採択した。日本創成会議が先に人口減の要因は出産可能な若年女性の減少と若者の東京圏への流出をあげ、2040年までに全自治体の半分に当たる自治体が消滅する可能性があると警鐘を鳴らしたことに呼応したものである。いまになって非常事態と言われても遅きに失した感が強いが、この消滅ショックはマスコミ秋採用試験の筆記問題に必ず出題されるだろう。

 行く行くは日本全体が限界集落のようになるというわけだ。ぼくも残り寿命は限界に近づいているが、炎は消え尽きる寸前に一瞬燃えあがる。ぼくも燃え上がってみたい。日本も消滅直前に燃えるのだろうか。燃えるのが集団的自衛権による武力行使では困る。

 

いずれ日本も徴兵制になるか
 電車の中に「防衛省・自衛隊の説明会」の広告があった。入退場自由、履歴書不用、入場無料などとある。自衛隊は慢性的な定員割れから脱してはいない。大震災の救助活動など災害時の活躍ぶりは目立っても、その厳しい訓練に若者はおじ気を感じているのか人気は盛り上がらない。海上自衛隊の幹部候補生学校は防衛大学出と一般大学出がほぼ半々という。集団的自衛権の行使容認によって、自衛隊への入隊志望者の増減にぼくは興味津津。

 自衛隊は説明会があるくらいだから、制度的には日本はまだ志願制だが、徴兵制に移行するのではとぼくは予想している。戦争放棄の9条はそのままに憲法解釈を変更して戦争ができるようにしたのだから、自衛隊も自民党の憲法改正草案に盛られたように「国防軍」に変質してゆくかもしれない。自民党案には国防軍は「国際社会の平和と安全を確保」とか「国民の生命若しくは自由を守るための活動」とか、美辞麗句がちりばめられている。

 言葉は美しいが、政権の恣意でどうにでも都合のいいように解釈してしまうだろう。9条[戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認]① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②前項の目的を達するため、陸海空その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。9条は人類の理想だ。

 日本国憲法という理想の追求に燃えたのは敗戦直後日本にやってきた進駐軍(占領軍)の民生局である。アメリカの若者25人が新しい憲法を起草するという任務についた。期間はわずか1週間。25人のなかには憲法の専門家はいなかったから、日本の民主化を完成させるために燃えに燃えて、世界中の憲法を猛勉強して草案作りに励んだのである。別途日本側も着手していたが、明治憲法と内容は大差なく国民主権なんて発想はなかった。

 アメリカ側の日本国憲法草案は秘密裏に行われたから、草案を示された日本側は根耳に水で仰天した。日本側は上から押し付けられたと感じた。しかし半藤一利の『昭和史戦後篇』によると、アメリカ側の記録をよく読めば、「必ずしも押しつけているわけではないように思える」という。現憲法を改正したい側の理由のひとつは「これは押しつけ憲法であるから、自前のものにしなければならない」ということである。

 アメリカの若者が練った草案は、戦争はこりごり、平和がいちばんだ、その理想を盛り込もうという情熱の発露でもあった。30年くらい前にニューズウイークが日本国憲法の基をつくった当時のアメリカの若者に意気込みを聞いたルポを特集したことがあった。詳細は忘れたが、こうして日本の憲法はできたのかと感動したことは記憶している。戦争放棄と主権在民こそ敗戦後の新しい日本にもたらされた理想追求だったのである。

 天皇主権の大日本帝国憲法(明治憲法)には徴兵の義務があった。日本国憲法には①普通教育を受けさせる②勤労③納税とご存じ三大義務があるが、もし自衛隊員が戦死したら、志願する若者はいなくなる可能性がある。そこで愛国教育を強化するとともに兵役義務を追加して、徴兵制を制度化することまで、安倍政権は織り込みずみかもしれない。いま19期秋組女子2人に憲法の講義中。

憲法9条を世界遺産に申請しよう
 朝日と毎日だけ購読している身としては、ちょっと一方的な論調に親しんでいるので集団的自衛権はちょっと書きにくい。この2紙と東京新聞を加えた3紙が憲法の解釈変更と閣議決定には絶対反対の社論である。あれほど全面展開して反対論を唱えていたのに、閣議決定後の4日には潮が引いたかのような紙面になった。これから法案審議がはじまる,が,これでは日本の変わり身の早さに敗戦直後の占領軍が驚いたのと同じ変わり身のようだ。

 世界中が第二次大戦後、70年近くになってなんとなく刺激の少ない平穏な平和状態に倦んだような気配がある。ついに日本までもが、とぼくは思う。アルジェリアで日本人人質が殺された事件の際、「日本人に対する考え方はイラクに自衛隊を派遣してから変化した」とコメントした商社マンがいたが、アフガンで井戸掘りボランティアをしている医師中村哲はいう。「憲法9条は日本に暮らす人々が思っている以上に、僕たち守ってくれている」

日本民族は変化を好まないと指摘される一方で、すぐ災難を忘れる災害民族とも言われる。たぶんこの二面性は日本民族だけではなく、日本人のみんながもっていると思う。第一、ぼくも変化を好まない保守的な面もあるし、すぐ忘れる健忘性的くせも併せもつ。おそらく中国や韓国のいう歴史問題に関して日本は加害者であったことを忘れているように見えるからこじれる。大陸の被害者は忘れようとしても頭に刻み込まれている。

安倍首相は戦争を知らない世代である。平和に倦んだ世代と言えよう。若者ほど強い刺激を求めない代わり、観念が信仰的に居座って他人の言うことを聞こうとしない。自衛隊が交戦して血を流しても、本人は弾の届きようもない安全地帯にいて、ああ自分のせいで犠牲者が出た、と集団的自衛権の行使容認の強行を反省することはないろう。前線で生命の危険にさらされるのは下級の隊員たちで、幹部は後ろにいて指示命令をだすだけだ。

政治家は兵隊がどれだけ死のうと、それは人的被害として抽象的にひとくくりにされるだけだ。戦争は多くの場合、脅威を除く平和のために行われる。ブッシュパパがアメリカ軍をイラクに侵攻させたのは、イラクが大量死をもたらす化学兵器を生産して秘匿していると勝手に考えたからだ。このとき、アメリカの平和のために先制攻撃も可能というブッシュドクトリンを編み出し、日本はいち早く賛成したが、大量化学兵器は一切なかった。

憲法9条もこれまでの拡大解釈だってずいぶんおかしかった。陸海空軍その他の戦力は保持しないと銘打ちながら、陸海空の自衛隊が存在する。戦争と武力の行使は永久に放棄する、と謳いながら安倍政権は、行使容認は憲法9条と矛盾しないという無茶な閣議決定をした。国語の答案だったら零点であるが、権力者の恣意は難なく通る。権力者は怖い。ぼくの友人の1人は社長に「お言葉ですがですが・・・」と反論して一生を棒に振った。

自衛隊には仮想敵がある。以前は旧ソ連(ロシア)だった。いまは北朝鮮と中国。だから敵の上陸地点になるかもしれない南西諸島を重要視している。でも、敵は離島攻撃をしてくるだろうか。ミサイルで原発が攻撃されればひとたまりもない。「戦争でえたものは憲法だけだ」と城山三郎は言った。正しい解釈の憲法9条を世界遺産登録に申請しようよ。






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