ペン森通信
あすから孫娘とふたり旅
 あす30日と31日四国へ行き、4月1日に帰京する。2泊3日の旅。孫娘とふたりである。孫娘は大学生になっているが、旅は高1のとき秋田男鹿半島、高2で広島、高3で南三陸とペン森卒業生のいるところを巡ってきた。今回は高松と徳島を訪ねるが、秋田なまはげ、広島の平和祈念館、被災地南三陸みたいに明確なテーマはない。東京から鉄路でめぐる。祖父と旅をすることが孫娘にとってどんな記憶として残るのだろう。

 ぼくは物心ついてから親や祖父母と旅をした憶えはまったくない。小学5年からひとりで汽車に乗っていた。当時から、乗り鉄というのではなく、交通手段は鼻の突き出たバスかSLの汽車しかなかったのである。バスには切符を売るバスガールがかならず乗っていた。列車の座席は木製の背もたれが直立して、座り心地の悪いしろもの。網棚にもひとが寝そべっていて、列車の乗り降りは窓が多かった。敗戦から5年ぐらいたっていた当時だ。

 手荷物はどうしていたか、定かな記憶はない。運よく座れれば抱え込んでいたのではあるまいか。大人の中には戦時中を思わせるリュックを背負っているひともいたが、子どもが、リュックを背負っていた思い出はない。いまでこそぼくは両手が自由になるポケットの多い機能的なバッグ背負っているが、このバッグはもともとUCLAが発祥という。アメリカの教科書は分厚くて重量があるから、学生たちが背負うバッグを使いだしたらしい。

 孫娘もそうだが、キャリーバッグに物を詰めて旅をしているひとがますます目立つようになった。孫娘のキャリーバッグのためにふたり旅の行程は制限される。ぼくはローカル線を乗り継いで楽しみたいのだが、重いキャリーバッグを持って階段を上り下りして次の列車に乗り継ぐのを繰り返すのは難儀だ。ぼくも男だから孫娘がキャリーバッグを持って歩くのを見るには忍びない。ぼくが手伝うことになるが、ぼくは歩行困難者ときている。

 階段の上り下りには手すりがないと不安でしようがない。左足がつっかえるからだ。上るには手すりに頼らない場合もあるが、下りはなければ危ない。階段で足を骨折でもしたら、ペン森閉鎖の果てに外出もできずうちで寝ている以外にない。今年中に後期高齢者に突入するから、そのまま寝たきりになってしまう。そうすると旅どころではない。最近は温泉もぬる湯だけでなく露天風呂の手すりがあるかどうかもぼくには深刻な条件だ。

 孫娘はおしゃべりでないので助かる。ぼくとの間で会話は必要最小限しかしない。おかげでぼくは本が読める。このところ、人格的には嫌悪している島崎藤村の『夜明け前』と森鴎外の『舞姫・阿部一族』を再読しているから、「木曽路はすべて山の中である」の『夜明け前』でももって行こうかと思っている。高校や中学で読んだ本の内容はほとんど憶えていないから、古い本でも案外新鮮なのだ。

 孫娘が高校生のころは同室に寝たが、今回から別室だ。高松も徳島もシングルを2部屋予約した。来週から新聞春採用の筆記がはじまる。作文の添削は無用となる。いよいよぼくの旅シーズンの開幕だ。14期女子は25歳になって鮮度が落ちたと評した14期男子がいるが、後期高齢者のぼくには水もしたたる14期女子です、旅に付き合ってよ。


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新聞筆記、燃えよ若い世代
17期生の卒業式を24日午後5時から実施した。2時間貸し切り飲み放題会費3000円。最盛期には80人が出席したものだが、今期は送る側の18期在籍生はたった2人、全員でもわずか10人という惨憺たるありさまだった。18期生が少なかったのは風邪、アルバイト、無断欠席などによる。通常、ペン森では夕飯も飲みものも無料だから、就活でアルバイトもできない立場にある学生にとって3000円は痛いかも、とは思う。

 ペン森の在籍者はメディア、とくに活字メディアの人気の度合いを反映しているようで、
新聞の先行きがあやしくなった近年、志望者は減少傾向がいちじるしい。かといって採用試験のレベルが下がったかというと、気位の高い新聞はやはり難関で内定をもらうにはかなり難儀する。新聞は書いてなんぼの世界だから、当然論作文に大きな比重をかけ配点比率は高い。そこにペン森の存在理由があるのだが、卒業式の参加者がこんなだと切ない。

 春の採用試験は来週4月からはじまる。筆記試験は2日火曜日が朝日と日経、7日日曜日がNHK、共同、読売。朝日と日経が土日ではなく、ウィークデーに実施するというのは珍しい。たぶん、土日には別途社会人を対象にした採用試験をおこなうつもりだろう。この両者が新卒一括採用の日本独自の慣習を打ち破ってくれるなら、大いに歓迎したい。毎日はESの締め切りは早かったが、筆記は14日と大手のなかで1周遅れの落ち穂拾い。

 いまは春がダメでも秋に再チャレンジが可能だから、ぼくらの時代にくらべれば未来の選択の幅はだいぶ広くなっている。ぼくらのころは朝日、毎日、読売、NHKの4社が年に1回だけ秋の同じ日に筆記を実施した。失敗したらあきらめてちがう業種に就職するか、次年に期待するかしかなかった。新聞が第4の権力として力を誇示していた時代であった。
ぼくは取材相手に「新聞記者志望だったんですが落ちましてね」と何人からもいわれた。

 相手は、でもそのほうがよかったかもしれないとはいわなかったが、内心ではそう思っていただろう。昔は、エリートは炭坑に就職したものだが、戦後のエネルギー革命によって石油にとって代わられ、憂き目を味わった。石油だって、ガソリンスタンドが廃業する流れになっているし、低燃費の車や電気自動車の登場で石油から電気に移行しつつある。とりわけ活字メディアがわが世の春をうたった時代は過去に去ったと見るのが妥当だ。

 もちろん、新聞は細りながら生き長らえていくだろう。しかし、報道や言論機関としての役割は徐々に減少してゆき、そのチェック能力は低下し紙面内容の変化には、ぼくらみたいな古い人間は目を覆いたくなるかもしれない。いまの若い世代はぼくらの世代のような闘った経験がない。ぼくら世代も結局は、ひよって経済一辺倒に堕落したが、若い世代は根っこに闘魂がないから優しすぎ、大きな相手の不正腐敗と対峙できるのかと心配だ。

 きのう、2年かかって入社した某社の記者から「自分の書いた記事に対して県警本部から社に抗議文がとどき、社の幹部は取材源の実名をあかせと迫っている、どうしたもんでしょうか」と相談があった。ぼくは絶対に実名を教えるな、とアドバイスした。この若い記者が圧力に耐えてくれるよう、祈っている。


『八重の桜』はまだ咲かない
 テレビの連続ドラマを観るのは嫌だ。その場限りの見切りがよい。次回につづくのは,次週も観ることが確実であればいいのだが、そんな先のことなんかまったくわからない。ところがNHK大河ドラマ『八重の桜』だけは、一部だけ観ることが多い。ちょうど日曜日の夕飯どき、焼酎のお湯割りを飲みつつ7時のニュースから連続してチャンネルをNHKに合わせたまま『八重の桜』に突入してしまうのである。

 加えて、妻がドラマの背景を聞いてくるので、席を立てないという事情もある。背景は幕末から明治にかけての激動期であるが、妻はその方面にあまり通じてない。ヒロインの八重は会津藩のお転婆娘だが、ドラマはこの八重を中心に展開すると思いきや、時代背景のこみいった話が半分を占める。シンプルかつストレートに八重の生き方に密着した物語にすればいいのに、盛り込みすぎて欲張るから、難しいドラマになった。

 仔細は知らないが、視聴率は上がらないと思う。会津藩の藩主、松平容保(まつだいらかたもり)は徳川家に殉じようとする佐幕派で天皇のいる京都の警備・治安を守る守護職に命じられ、殺し屋集団の新選組を実行部隊として配下にもつ。会津藩は徳川幕府の崩壊によって悲劇の運命が待ち受けるのだが、『八重の桜』はこういう幕末情勢をつかず離れず追ってゆくから妻は複雑すぎて理解できない。ぼくの解説を求めてくる。

 ぼくの故郷は薩摩だが、結局は倒幕・開国派となる薩摩藩はけっこうずるく立ち回って、会津と手を結んだりして会津人の恨みは買わない。そこへいくと長州は不器用というか、融通がきかないというか、思い込みが強いというか、直線的。日本の夜明け前を推進したのが長州と薩摩を中心にした勢力であったことはまちがいのないところで、妻もこのへんの事情は知っている。だが、幕末・明治維新がもたらした怨念の深さは想像外だ。

 4期生に車好き旅好きがいた。いまは朝日日記者となっている山口県出身の男子。かれはひとりマイカーを駆って東北ドライブの旅へ出かけた。福島のスタンドで給油すると、店主らしいおやじが聞いてきた。「これからどこへ」「会津へ行こうかと」「そりゃいかん。殺されますよ、その山口ナンバーでは」「えっ、そうなんですか」「マジックペンを貸すから山口とわからないようにしなさい」。かれは殺されちゃだめだとびっくりした。

 そこで山口の口のまん中に+を書き入れて山田ナンバーと偽装した。山田ナンバーのおかげで会津を無事観光して通過できた。およそ150年たって、世代は変わっても怨念は消えていないらしい。さて、『八重の桜』の前回は池田屋事件で新選組がいよいよ表に出てきた。佐久間象山が惨殺されるシーンも描かれ、不穏に緊迫する京都だが、明治維新はもう目前である。ドラマはますます込み入ってきて、妻は不機嫌になるだろう。

 大河ドラマはおばさんにもよくわかるものでありたい。『八重の桜』の八重は一度結婚して離婚して、同志社大学の創立者、新島譲と再婚する。おばさんが好みそうな要素があるのになぜ複雑に仕立てているのだろう。シンプルかつストレートは作文の要諦でもある。

思い思われ数十年,羨ましい
 昔仕えた編集長が行方不明になった、と聞いたのは昨年10月だった。今年にはいって寒中見舞いが届いたので、なんだ本人は東京にいるじゃないかと勝手に思っていた。そのかつての編集長から突然、はがきが舞い込んだ。「小生ある事情から東京の家族とはなれ、某パートナーと鹿児島に来て半年が過ぎました」。ぼくの故郷、鹿児島にパートナーと居住していたとは、おどろいた。車いすの老人の意外な消息であった。

 だが、意外ではなく、知る人ぞ知るかれと某パートナーとの関係である。長年付き合ってきた恋人と駆け落ち同然の家出をしてのけたのである。家族をすてるほどの純愛物語だ。行方不明が話題になった際、見抜いたのは、高校時代のガールフレンドといっしょになって、ついに奥さんと離婚したべつの元編集長である。「女がからんでいれば、ことは複雑だよ」と言っていた。自身、女性問題で葛藤体験のある身だからこその推察であった。

 家出元編集長の奥さんにはぼくも家人も以前、悩まされた。深夜1時ごろうちに電話がかかってきて「主人はどこへ行っているんですか。あなたは主人の動向を私よりも知ってるはずでしょ。どこへ行っているんですか」と詰問される。どこへ行ったかは知らないが、だれのところへ行っているかは知っているが、そんなことを漏らすわけがない。いま鹿児島でパートナーとなっている、と確信できる女史のところへ行っているに決まっていた。

 家出元編集長の現役時代、よく席をはずしていた。相談ごとがあっても編集長はいない。「どこへ行った?」「外食中だろう」。彼女のところへしけこんで、愛の交歓をやっている最中だろうと、部下たちはにらんでいたのだ。それを外食と部員はいっていた。しかし、だれひとりとしてその秘密を部外へ話す部員はいなかった。編集長はクールながらざっくばらん、勘が冴えて優秀だったから、部員は敬愛の念を感じて従っていたのだ。

 テレビの昼間のニュース番組のコメンテーターを務めていたこともある。そのころは私立大学の教授になっていたと思う。ぼくは昼間からテレビを見る時間のない勤め人だったので、彼の切れ味のいいコメントを耳にしたことはない。じつは切れ味が鋭かったかどうかも分明ではない。社会部時代、2人で組んで同じ官庁を担当していたぼくは、かれの口にする感想のすべてが切れ味鋭敏なナイフのようだ、という印象が定着しているのだ。

 あいtrのパートナーのことは、顔はわかるが話したことはない。同じ社内にいたやや小太りの女史。著書もある才女だ。一見おばさん然とした彼女のどこに引かれたのかは余人の想像外だ。ぼくの見るところ、家出元編集長はぼくほどではないが、昔はかなりの好色。2人で組んだ若い時分、かれはゆうべの戦果を得意になってしゃべることもあった。いつごろかから、パートナーと付き合いはじめ、思い思われ数十年を重ねたのだろう。

 ほんとうの幸せってなんだろう。家出元編集長は81歳に至って家族と離れ、愛する恋人とやっと鹿児島に住み、いましみじみ幸せだろうと思う。かれのように1人の女性をずっと思い続けてきていっしょになった男をぼくは知らない。真実一路、じつに羨ましい。

 
 


日本はどこかで間違えた
3月15日が締め切りの確定申告をすませた。年収400万円以下は還付金がない場合、申告しなくてもいいのだが、ぼくは4,5万円戻ってくる。これがGWのころ入金され、旅の貴重な財源の一部となる。ペン森をはじめる前は1800万円の年収でけっこう高給だったが、いまは年収200万円以下のワーキングプア1100万人のなかにははいってないというものの、年金を主収入源に300万円足らずの年収だから、貧乏人ではある。

ところが、若いひとたちみたいに失業がホームレス生活に直結するなんて心配はない。ペン森維持のためにマイホームのローンの支払いを引き延ばしはしたものの、無事払い終え、土地付き一戸建ての家も自分のものだ。旅だって今春孫娘と四国へ行くが、遠距離はJR割引のジパング会員なので3割引きで乗れる。医療費にいたっては1割負担だし、都営の地下鉄や東京都内を走るバスは無料ときている。70すぎの老人は恵まれているのだ。

年金は過去に払った以上の金額をもらえるし、年金年齢に達しても払った分以下しかもらえない若いひとは気の毒だ。去年読売は作文に「世代間格差」という題を出したが、若いひとたちからみると、ぼくら逃げ切り世代を苦々しく思っているだろう。ぼくは昭和世代だが、兵士として出征したわけではない。直接的には戦争は知らない。戦後の窮乏生活はかすかに憶えているものの、川で魚を獲って自給でき、超空腹のひもじさはなかった。

過去を振り返ってもトラブルやアクシデントがあったとはいえ、こうしてぬくぬくと生活できているのだから、じつに平穏平和なものであった。高度経済成長の波に身を任せて自らは努力もせず、時代がここまで身を運んでくれたといってよい。経済が20年低迷期にあったことも関係なく、消費活動に目をぎらつかせる必要もなかったのは、すでに十分なストックがあったからだ。未来不確実な若者には悪いが、戦後すごした昭和はよかった。

本日15日付の朝日は社説で「若者の自殺」を取り上げていた。「若い世代の死因の1位が自殺ナのは先進7カ国でにほんだけだ」と嘆いているが、いまこのタイミングでどうして自殺を俎上にのせたのだろう。「就職失敗による自殺も気になる。政府統計では、10~205年前の2・6倍だ」とあるから就活時期だからか。「多様な働き方ができる社会にかえていくこと」と提言を述べているが、生きづらい社会を替えうる説得力はまるでない。

いつから日本は生きづらくなったのだろうか。昭和のころは社会全体がもっと寛容だった。明るくもあったし、ゆるくもあった。いまよりも物質的には恵まれず、精神的には豊かだったように思う。子の世代は親の世代よりも豊かになる、という暗黙の約束があった時代だった。ぼくが警察庁を担当していた当時、市民のルール違反が話題になった。法律で規制しろと担当課長に迫ったら、「こうして社会は窮屈になるんです」といわれた。

ぼくら世代は昭和元禄を経て新自由主義の競争社会に突入し、格差のなかで息をひそめる幸福な老齢に達した。だが古き良き時代よもう一度、などとは思わない。安倍政権はそうなればと考えているだろうが、戦前昭和時代の軍事帝国にまで戻るのはまっぴらだ。

復興か東京オリンピックか
大震災から2年、東京では直下型地震がいつきてもおかしくないと言われながら、安全・安心を強調する矛盾した行事が行われた。2020年の五輪開催に立候補している東京でのIOC評価委員会による現地調査に対するプレゼンテーションである。あたかも2年前が遠い昔に去ったかのような東京の振る舞いであった。現地調査の最中に東京で感じる地震があったらもてなしが無駄になると、猪瀬知事をはじめ関係者は気をもんでいただろう。

 神保町の歩道にもオリンピック招致の旗が並んでいる。「2020年オリンピック・パラリンピックを日本で!」と、東京いう表現を微妙に避けた旗だ。作成の際、「東京」と競技地域を限定するか、日本にという表現にするか、かなり迷った様子がうかがえる。東京オリンピックといった場合、東北の被災地は無視されてしまう。それでいて、2020年オリンピックは被災地支援も兼ねており無視はしてない、と強調する関係者もいる。

 実際、東京オリンピックと開催地を限定した場合の世論調査では肝心の「東京」が不評だった。被災地でも競技をやれ、という意見もあったのである。そのことを慮っての都内に飾られた招致旗なのだろう。ところが、首相官邸のフェイスブックによると、安倍首相の言葉として「東京でのオリンピック開催は私の長年の夢なんです」と。東京以外はまるで視野に入ってない。「復興五輪」はいつの間にかはっきり影を潜め、封印された。

 評価委員会は4日間の現地調査を7日に終えた。弱点だった都民の支持率が70%に上昇したそうで、すっかり東京誘致は上げ潮ムードに変わった。昨年2月にIOCに提出した一次選考むけ申請ファイルには「スポーツの持つ大きな力が、いかに困難に直面した人々を励まし、勇気づけられるか、を世界に示すことになる」と大会ビジョンをうたった(8日付毎日新聞)。大震災をかなり意識していたのだが、いまはその意識が逆に働いている。

 できるだけ、地震や津波や原発事故には触れないようにしようという意図が明らかに見える。つまり被災地は負の印象を与えるものとして厄介者扱いにされ、大震災からの復興というスローガンは消えてなくなった。石原前都知事同様、猪瀬知事も東京オリンピック誘致に夢中で、いったい都政に目配りしているのか、といいたいほどテンションが上がっている。4日間の東京視察は高評価をえた、とテレビ報道は雀躍としているがこれが怖い。

 ぼくは復興を優先すべきでオリンピックは復興がかなってからでいい、という考えだから、この流れからいくと、2020年オリンピック反対の立場をとる日本人は非国民扱いされかねない。復興はどの時点でそれを宣言するか、という難しい問題がひかえる。安倍首相が復興は国の第一の使命というなら、オリンピック誘致に傾倒するあまり、被災地や被災者のことを邪魔者扱いしてはいけない。優先順位を間違えているのではないのか。

 首相の夢がオリンピックを東京でというのも夢がない。1000年に一度の大災害に遭い、2万人近い死者行方不明者を出した民に救済の手を差し伸べ、幸せな生活に戻ってもらうのが、国民を預かる首相の一番の夢であるべきだろう。

現代に潜む武家社会の窮屈
 2011年3月11日金曜日のくだりにこう書いてある。「その時、わいは家で映画を見ていた。『切腹』という映画。 貧しい主人公の娘婿は、妻の病を治す薬のために武士の魂である刀まで売っていた。そこまでして手に入れた薬も底をつく。ある日大名の屋敷にて『切腹をしたいので庭を貸してほしい』という武士が現れ、それを嫌がった大名が金を渡して帰したという噂を聞き、薬を手に入れる手段を失った娘婿は大名の屋敷を訪ねる」

娘婿は「切腹をしたいので庭を貸していただきたい」と申し出るが、どうせ金をせびりにきたのだろうと家老は聞き入れず、庭は貸すから腹を切れ、と迫る。娘婿は一度家に帰ってまたここに必ず戻ってくると懇願するが許されず、ついに身につけていた竹光で腹を突くが、横に裂くこともかなわず、介錯も聞き入れてもらえず、舌を噛み切って自らの命を絶つ。昭和37年度、ぼくの新聞記者初年兵当時の芸術祭参加作品である。

以上、引用は松山ケンイ著の『敗者』の冒頭部分。『切腹』はカンヌ映画祭審査員特別賞を受賞した名画だが、ぼくは不覚にも観ていなかった。松山ケンイチに教えてもらって存在を認識したようなものだ。監督は小林正樹。主人公に扮した仲代達矢はまだ存命だが、大半の出演者はすでに没している。これは強烈な武家社会批判映画で、サムライ精神の虚飾やうわべの格式に刃を突き付け、同時にわが社第一の集団主義も痛烈に皮肉る。

松山の『敗者』(新潮社)は意外におもしろい。この本を編集した9期女子が持ってきてくれた。「敗者」とは大河ドラマ平清盛の視聴率が低かったことを自嘲するのではなく、清盛の人生をなぞっている。随所に知恵のあるセンテンスが散らばっていて、それがつくりものでなく、文脈の中にごく自然に出てくる。松山は大河の主役を張るほどの俳優だが、根は純粋な本音の若者なのだろう。その本音が小気味よく展開し読後感はさわやかだ。

「車から見える福島の景色に言葉が出なかった。海沿いの建物はほとんど崩れていて、がれきが山のように積まれている。震災から2カ月たった今も傷痕は生々しかった。この光景はメディアを通して見る事は出来るが、ここに流れている空気を吸う事は出来ない」。松山がボランティアに行くときの記述。そして自問する。「被災地へ行ったのは全て自分のためだったのではないか。自分はやったという結果が欲しかっただけではないか」と。

 松山ケンイチはなんとナイーブな青年なのだろうか。ぼくは大河ドラマがはじまっても松山ケンイチという役者の顔も知らなかった。いまでも、お笑い芸人と並べて、どれが松山かと聞かれても当人をさすことができるかどうか。小雪と結婚したあの男といわれても小雪自体も判別できない。年を重ねると今の若いタレントや俳優、スポーツ選手はほとんど名前と顔が一致しない。AKB48なんて大島優子以外だれもわからず見当もつかない。

 AKB48は知ってようが知ってまいが、日常生活には一切困らないが、坊主頭にはちょっと虚を突かれた。ドイツ占領下のパリでドイツ兵と親しくしていた女性を丸坊主にして市民が引きまわすロバート・キャパの写真を思い浮かべた。聞けばAKB48は恋愛禁止だと。これって人権侵害じゃないの。武家社会の不自由と窮屈な建て前は連綿と現代に潜んでいるようだ。

 







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