ペン森通信
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ぼくも反原発派です。
 鶴岡に行って来た。レンタカーで東北道、山形道と長駆してはいったのははじめて。帰りはいつもの夕日街道国道7号線を南下した。鶴岡は藤沢周平記念館を訪れたかったからだが、ペン森同好の4人といっしょに行った。『義民が駆ける』の企画展をやっていた。老中水野忠邦が庄内藩の転封を決めるが、庄内藩の農民は決死の反対に立ちあがる。10万人集会も開かれ、江戸の将軍も変わり、ついに転封策は撤回された。庶民の力は大きい。

 10万人の反対集会でぼくは金曜日の原発反対デモを連想した。デモを官邸も無視できなくなり、反対側の代表者と野田総理が話し合いの場をもったが、どうもこれはガス抜きくさい。政府は2030年に原発を「ゼロ」「15%」「20~25%」の3案を示して国民を15%案に導こうとしたが、この目論見は敗れた。どうやら「ゼロ」が圧倒的な声でもはや無視できなくなったようだ。これで脱原発の流れはきまったかのような感じだ。

 ぼくはしばらく前まで、新稼働はおこなわず、現在稼働中と定期検査の原発を徐々に廃炉にして段階的にゼロにする、という考えだった。ドイツは2022年12月31日をもって、原発を全廃するが、これに近い考えに立っていた。いまはただちにゼロである。去年、そして今夏の猛暑をしのいだ、という実績からすれば原発なしでも、生活の破綻はなかった、と声を大にしたい。ただちに原発全廃でもそんなに支障はないだろう。

 そうすれば、化石燃料の輸入分のコスト増とCO2排出によって地球環境の汚染につながるだけでなく、電気料金のアップが企業の海外移転を招く、という脅しがくるにちがいない。だがいま直ちにゼロにしたところで、原発は清く正しくはないのだ。国内50基の原発のうち稼働しているのは大飯原発の3,4号機だけだが、他の停止中の原発も人類が経験したことのない難問を抱える。使用済み核燃料、つまり核のゴミの処分問題がある。

 核のゴミは中のものが外に漏れないようにしっかり防護して地中深くに埋める方法がとられるだろうが、これは30万年後にやっと放射性物質を出さなくなるという。なんという罪深いものを現人類は後世の子孫に残すのだろうか。3年や30年や300年ではないよ、30万年だ。もうこれだけで原発の恐ろしさを感得するひとも多い。福島県の故郷を追われた原発難民十数万人のことを思うと、とても再稼働なんて言えないはずだ。

 朝日新聞の世論調査がきょうの朝刊に出ていた。最も多かった不安は「原発事故が起きたときの放射能の影響」だった。放射能は目に見えない恐怖である。何年後にその影響が体に現れるかわからない。ぼくは人間のエネルギーコントロールは化石燃料までだったと思う。原発で高レベルの放射性廃棄物が出ることははじめからわかっていた。人類の英知はこれに対処できるはずだと期待したが、原子力は人類が扱えるものではなかったのだ。

 原発問題でややはっきり見えてきたのは、経済市場主義的価値観に対する反発である。政府の討論型意見聴取会での電力会社社員の放射能による死亡なし発言がヤジに包まれたのもそれを示す。さて、ぼくは再生可能エネルギー推進の立場をとる。斎藤貴男が『東京電力研究 排除の系譜』(講談社)を出したそうだ。読まねば。


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老人はまたモテ期に突入した
自宅から駅までの途中、公園の外周路のアスファルトの路上にセミの死骸が点々と落ちている。ご存じのようにセミは幼虫時代の6,7年間地中にいる。地上にでて羽化して1週間程度しか生きていない。というのは俗説らしく、案外昆虫の中では長命という。成虫になって1週間どころか1カ月という説もある。ぼくは俗説を信じてきたから、アスファルトの上の死骸をみると、哀れをもよおし、翻ってわが身の幸せと重ねてしまう。

といって、老いさらばえたぼくが亡骸をわが身に照らして自暴自棄になったわけではない。セミが土ではなく、アスファルトの上に死体をさらし、中には踏みつけられてぐちゃぐちゃになったものも多く、もはや土に還って分解同化することはかなわないのが哀しい。日本は土葬が禁止され火葬だが、ぼくは火葬のあと骨粉か骨壺を樹木の下の土中に埋めてもらえればうれしい。むかし恵山人と号していたから、号からして樹木葬が似合う。

ぼくの死後はまさに草葉の陰だ。辞世集などを読むと、8,9割が振り返るとわが人生は夢のようだったといっている。人生の終末を迎えると長年の恨みや怨念や屈折が消え、幸福だった思い出だけが残るのであろうか。ぼくはラテン系の気質なので粘着性に乏しく、どちらかといえば気の多い、浮気性のところがある。いろんなことに熱しやすいが、熱はあまり長持ちしない。ぼくの故郷ではこのようなタイプを「やかんたぎり」といった。

やかんの水みたいにすぐ沸騰するが冷めるのも早い、という意味だ。ぼくの人生は残り少ないけど、まだ先がある。渡辺淳一はエッセーで書いている「70代、これはなってみて改めてわかることだが、すさまじい世代である。すべて下るだけ。これも無理かと、不可能なことが増えるばかり。努力しても無駄。しかし、とてつもない発想にとりつかれ、動き出すことがある。激しい恋に溺れたり」。激しい行為に熱中する70代が多い、と。

きのうペン森女子に聞いた。「浮気というのは具体的にどういうこと?」「そりゃ、やったかどうかでしょ。やれば浮気ですよ」。元医師でもある渡辺淳一によれば、60代後半から70代の前半にかけて、男性は勃起しなくなる。不能になる。自慢じゃないが、まさにぼくに当てはまる。ならばぼくにとっては、浮気はあり得ないのだ。ときには浮気してみたいと思うことがあるが、それは実体のない妄想の世界にしかすぎないのである。

すでに野獣性が喪失した男性失格者ではあっても、渡辺がいうようにとてつもない発想も発芽している。肉体的に退化したとはいえ、感情は豊かに脈打っているから、人生が短命な蝉のように感じているわけではない。もしかしたら「モテ期」にまた突入したのではと錯覚したくなるほどだ。なにも起こらないと安心してか、女子からの旅同行依頼が少なくない。はた目にも不釣り合いなかわいい女子とカップルの、浮気老人、と思われたい。

男が性機能を失うとはどういうことか、その内面を渡辺淳一は地方紙連載中の「愛 ふたたび」で書こうとしている。ぼくにはもう、官能快楽のふたたびがないのはせつないが、その代わり女子との旅ふたたびはまだある。辞世に残したい夢のような人生です。



人材の奪い合い秋の陣
 積年の疲労が蓄積されているのか、単に連続する暑熱のせいか、体がだるい。秋採用試試験は筆記が終わって、すでに面接がはじまった。この期間は模擬面接を求められるが面接官の役割をはたしてくれる卒業生は何人もいて、ぼくよりもかれらのほうが適任者である。面接を受けた記憶が生々しいし、どのような質問が来るかも予測できる立場にあるからだ。もっともどのような質問にどう答えるかは本人たちが思うほど重要ではない。

 面接は質疑応答の形式で進むから、どのように答えるかが大切だと錯覚してしまうのだろう。採用側は回答の中身はさほど気にしないものだ。あくまでも人間をみる、ということを忘れてはいけない。面接はマスコミの場合、新聞とNHKが3,4回。民放や出版社はもっと多く、8回目が最終という社もある。各段階の成績は上の段階にメモであげられるのが普通。途中でこのひとはぜひ採用すべし、というサインがあがる場合もある。

 秋の採用試験は朝日、読売、共同、NHKが実施する。8月は18,19、25,26日と後半の土日は全部筆記試験。共同は19日の日曜日に試験があったのに翌日の月曜昼すぎに筆記通過、面接日を知らせてきた。じつに素早い。はたして作文をみて判断する時間があったのだろうかと、疑問をもつ受験生もいたくらいのスピードだ。読んで判断するだけなら、評価コメントは必要としないから1人1時間10本以上は軽く処理できる。

 作文は1人で判定するのではなくたいてい、3人1組となって読み、ABCの三段階評価をする。3人がAなら問題ないが、ABBあるいはABC、ACCと分かれた場合にどうするかである。採点者同士の話し合いとなる。Aをつけた採点者が比較的発言力のあるえらい地位だったら、A評価に落ち付きやすい。そこはしっかりサラリーマン社会だ。受験生にとっては自分の作文に合う採点者にめぐり合うかどうかが、運の分かれ目。

 面接も複数の面接官がばらばらの点をつけることがある。受けるほうにとってはこれも運。面接は回が進むにつれ、面接官の地位もあがり年齢も増してくる。1時面接は仲間に迎えたいかどうかが大きなポイントになるから、個性的なおもしろいタイプが好まれやすい。ところが回数が進むにつれ、角のとれた丸いバランス型が有利となる。冒険的個性的な要素が消えてゆく。地位の高いおじさんは、冒険が嫌いな保守主義者なのだ。

 記者は接客商売でもあるから、男女とも若きにも老いにも好かれる、感じのいいタイプは絶対的に強い。ペン森にもこういうタイプが1期に1人はいて、複数社から内定をもらう。それでいて文章も巧みで頭の回転が速い、ときては入社後の可能性も楽しみ。感じのいいひとは今秋組にもいる。他社よりも早く、感じのいいあかるい可能性のあるひとを採用したいから、各社間の人材奪い合いは激しい。ペン森では朝日の人気が落ちる傾向にある。

 若いひとは近年、入社して3年以内に35%が退社する。メディアも人事計画が狂ってくるのでその点、頭が痛い。精神的にめげず、うつにもならず、辞めないひとをいかに見極めるか、に神経を使うのが面接でもある。ところが必ず、ババ抜きのババをつかむ社があるから笑えない。ぼくはだるさから解放されるため、みんなの面接期間中に温泉へ行く。

 

 

 

飛行機が飛ぶのは自然に反する
オスプレイは安全確認をしてから、というフレーズをよく耳にする。安全確認とはなんだ。オスプレイに安全なんてあるのか。オスプレイだけでなく、そもそも飛行機が中空を飛ぶ、ということ自体、引力の法則違反だ。やむなくぼくも飛行機を利用することがあるが、椅子に腰かけた状態で空中を運ばれて、ときには通路を歩いてトイレに行く様子を客観的に想像すると、おかしくなってくる。搭乗している最中に想像するとただ怖い。

 オスプレイはヘリコプターとジェット機の機能を兼ね備えている輸送機である。兵士や車両や軍事物資を運ぶ役割をになっている。日本での訓練計画は上空150メートルくらいの低空を飛行するルートを設定しているが、日本の山岳地形が訓練に適しているとの見方からであろう。日航機が群馬・上野村の山中に没したさい、場所の特定ができなかった。オスプレイの訓練はレーダーで捕捉不可能という低空空域での実施のねらいもあるだろう。

ジェット戦闘機のハリアーは、オスプレイのようなハイブリッドではなく、ジェット機の垂直離着陸機である。オスプレイも機体から下に噴出する風圧は相当なもので、樹木も折れるほどらしい。ハリアーも4つの噴出口から下部への噴出によって機体が空中に持ち上がる。これは短距離攻撃機だから、オスプレイのような長距離の航続距離はのぞめない。
ハリアーは機体も小さくごくせまい艦上、空き地から飛び立つのを得意とする。

 ぼくは飛行機をただ見るだけならきらいではない。ハリアーの離着陸も見たことがある。防衛庁を担当していたころで、米軍が日本人記者にデモンストレーションをしてくれたのだ。音は小さいなりをしている割に巨大だった。オスプレイももし普天間に配備されたら、その風圧と耳をつんざく騒音が問題となるだろう。とはいっても、ぼくは翼の両端にプロペラ状の羽根をくっつけたオスプレイの姿は不格好だから好きだ。

 だが、その機内には入りたくない。旅客機にすら搭乗したくないのだから、ましてや軍用機なんてまっぴらだ。もっとも搭乗の機会なんて、未来永劫にあるわけはないが。米軍もオスプレイの安全強調のために民間人に体験飛行をさせることはあるまい。飛行機は飛んでいるのがおかしいのであって、飛んでいるのを目にして、だれもふしぎに思わないのがふしぎだ。自然を冒涜しているのでは、とぼくは考える。過ぎたるは及ばざるが如し。

 友人の航空会社社員も飛行機嫌いだ。「あんな巨大な物体が空中に浮かんでいるのが間違っている。飛行機は必ず落ちるから、乗っちゃだめだ」。言われるまでもなく、ぼくは地べたを利用して移動する。海外は飛行機で行くのが当たり前だから、ぼくは行かない。船なら考えるが、老い先短い人生に乗船時間をとられるのがもったいない。海外に行ってもおいしい芋焼酎が飲めるわけじゃなし、清楚な女子も、うまいものも少ない。興味ないよ。

 日本政府にオススプレイを追いかえす反抗心はない。沖縄の声よりもアメリカの声の方がよく耳にはいる。沖縄の声は単なる音にすぎないようだ。安全確認ができました、ということで大飯原発再稼働と同じように安全確認の実質が不明のまま、竹島・尖閣不安を背にオスプレイの日本駐留は強行されるのではあるまいか。


『三国志』は血のりが手につく
 世間はお盆休みである。だが、ペン森は開店多忙。13日~17日、秋の採用試験に向けて作文の直前特訓をじっししているからだ。午後に三題各70分800字で書く特訓である。その場で題材を思いついてまとめようとすれば、あっという間に時間切れとなる。で、持ちネタの使いまわしということになる。みんなが書いているあいだ、ぼくは文庫本を読みながら待つ。吉川英治『三国志』。全8巻のうちの6巻にさしかかった。

 ぼくの読書時間は通常、電車と就寝時だから、遅々としている。地名、人命が複雑煩瑣で、1回読んだところをまた読んでいるボケ老人的な繰り返しをしばしばやらかす。そこでDVDと並行して読み進めようと考えた。TSUTAYAへ行ってみると4年100億円をかけ、馬10万頭が出演する中国らしい大スケールのDVD28枚入りのノーカット版を借りた。週末に最初からみはじめたが、これが長いのなんの、これも中国スケール。

 しかし外出を控えたい真夏の暇つぶしにはもってこいの『三国志』である。恥ずかしながらこの年になるまで仔細に読んだこともなければ、ましてや中国の歴史に通じているわけでもなく、ほとんど文盲同然だ。もっと理解度もあり、記憶力もいい若いころに目を通していればよかった、と悔んでももう遅い。ぼくは若い時分、記憶力が自慢で1回かけた電話番号はしばらく頭に付着していて、「歩く電話帳」と評されたものだ。

 いまだに手帳をもってないのも若いときの記憶自慢のせいだ。来週の予定なら、1日につき5件まで全部、脳に刻むのがふつうに可能だった。1週間分35件を曜日別に記憶することができた。ところが酒が入ったら、ダブルブッキングをするようになり、約束をすっぽかす事態まで生じるようになった。これは信用問題である。ではどうしたか。どうもしなかった。20年も前から、予定が減って手帳の必要を感じなくなったのである。

 この収容力の小さな頭でも十分に処理できる予定しかなくなった。机のわきの大型カレンダーにちょこっと記入するだけですべては解決する。いまでもぼくはカレンダー記入主義だ。女子とデートするとか、旅に行くとか、そういう秘密めいた愉悦は頭のなかの空き部屋に入れて隠しておく。秘密の数が少ないので、隠し部屋はつねに準備されていて、満室になることはないのだ。9月の予定でたった1部屋がふさがっているけどさ。

 『三国志』は陰謀と怨嗟と怨念の権力闘争を描いている。日本の政治報道が権力争いの政局報道に陥りやすいのも、政治そのものよりも人間の醜悪な面がもろに出るからだろう。それは人間のだれしもが内面に抱えているものでもある。政界だけでなく、社内でも出世をめぐって日常的に展開されている人事ドラマだ。権力闘争という意味では小沢一郎が世間をにぎわすのも、かれが権力闘争を仕掛けることをみんなが承知しているからだ。

ひとは殺したいほど恨みに思う人間が生涯に3人はいるという。ぼくはこれまで殺したい人間は1人もいなかった。これから出てくるのだろうか。あるいは感度が鈍いのだろうか。『三国志』はひと殺しも並みでないスケールで展開して血のりが手につくようだ。殺したい人間がいなくても、『三国志』の一読を勧めたい。

 


サッカーを語りはじめたおばさん
 ロンドン五輪ももう終盤。リハビリ治療でマッサージをうけているとき、カーテンで仕切られた隣のベッドで客のおばさんと女マッサージ師が話していた。「なでしこは惜しかったですねえ」「ずっと起きていてご覧になったのですか」「いえ、わざわざ起きたんです」「最後に1点入れてよかったですねえ」「アメリカチームは体格がいいですね」「日本人はオリンピックで見ると子どもみたい」「日本人はちっちゃいですね」

 こういっちゃなんだが、おばさんがサッカーの話で盛り上がるなんて、やはりテレビの影響はすごい。生で見たことはなく、まちがいなくテレビをみてサッカーファンになったのだ。いや、単になでしこファンなのかもしれない。なでしこの選手のなかにはついこの間まで、コンビニかスーパーのキャッシャーをしていた選手もいる。アッという間に偶像化されて本人もびっくりしていることだろう。なにしろおばさんにまで人気が浸透した。

 ぼくがサッカーを目の前で見たのは高校3年のときだった。級友にサッカー部のFWがいたからだ。試合があると必ず応援に行った。たいてい、ぼく1人がサイドラインの外に立って、声はださず、ただ馬鹿みたいに突っ立っていただけなのだが。ぼくの高校のチームはもっぱらサイド攻撃が得意で、クロスをあげる選手が土のグランドをどたどたと鈍い音をたてて走り込んでボールを蹴っていた。その重い足音がいまも耳の底に残っている。

 記者時代はのちにドイツの皇帝と呼ばれたベッケンバウアーが現役のころ、ドイツチームと日本チームとの親善試合をしたのを見た。どういうわけでか、当時の坂田道太防衛大臣といっしょだった。たぶん招待券をもらった大臣がおすそわけをしてくれたのであろう。ぼくは世界的に有名なベッケンバウアーを目にしただけで満足だった。40年近くも前の話だ。当時、サッカーのスタンドはしんとしていた。いまはどうだ、この熱狂と歓声。

 マッサージ部屋の話が筒抜けで聞こえてくる。「兄夫婦はロンドンに開会式から閉会式まで滞在して見るのよ」「開会式は見ごたえがありましたね、今回も」「兄夫婦はアテネ大会からずっとオリンピックは欠かしてないの」「それは、すごいですね」「アテネ大会には兄の子、わたしの甥っ子が選手として参加しましたから、すぐ敗退しましたけど」「・・・」「行くときは見送りも多く、それは張り切りますよ、選手は」

 おばさんは甥っ子の自慢をするのかと思いきや、見送りと敗北の落差について話しはじめた。「負けて帰国すると、だれも迎えてくれないの、見内だけね。盛大な見送りにくらべるとそりゃ、さびしいものよ、余計に気落ちするわね」。テレビや新聞は栄光の選手に光をあてるが、敗者のほうにもドラマがあることを無視する。ただ、負けた選手にもインタビューはおこなう。選手は敗因などを語る。痛々しいけれど、ここで真の人生に触れる。

 決勝で敗れたなでしこは出迎えがすごいだろう。格差社会の底辺から上り詰めたような雰囲気のなでしこチームは、よくがんばった。その点、日本人好みのチームだった。

なぜ大学生の処女が増えたか
 先週末、久しぶりに昼間の新宿を歩いた。どこから湧いてくるのか若者を中心に果てしないひとの群れである。ぼくが新宿の街ダネ担当だった時代、九州から転勤してきた先輩が言っていた。「毎日どこで祭りをやってんのだろうというぐらいの賑わいだな。あまりの雑踏に息子は駅の階段で吐いたよ」。ぼくは用があって行ったのだが、この連中はどのような用向きででてきたのだろうか、と思った。ただぶらぶらしているんじゃあるまいか。

 ぼくの用事というのもじつにくだらないことで、日活ロマンポルノのDVDを新宿TSUTAYAに借りに行っただけのことだ。それは園子温監督の『性戯の達人 女体壺さぐり』という懐かしの成人映画。日活ロマンポルノは71年から2000年ごろまでつづいた成人映画だが、作品的に凝る必要もなく、短期間に安価にできたので、監督の登竜門でもあった。いまをときめく園子温監督が手がけたロマンポルノだから興味があった。

 新宿TSUTAYAは数カ月前、この映画を園子温監督の掘り出し物として特別扱いしてPRしていた。園子温の存在はほとんど知らなかったが『恋の罪』を絶賛する10期女子がいたから、とりあえず有名な『愛のむきだし』を観てみた。それは去年か今年初めだったが、どんな映画だったか、もう9割9分忘れている。どぎつい映画だったような、その程度の印象。しかし『女体壺さぐり』は観たいし借りてみようと思ってきたのである。

 ところがこれもじっくりどころか早回しで消費した。もしかして演技にうるさい園子温本人も恥じているのでは、と感じさせるほど不作。嬌声性交は過大、それがいかにも作り物めいてリアル感に乏しい。まあ、ポルノ映画にリアル感を求めるのも場違いだろうが、ぼくはホテルに備わっているAVのほうにひかれる。温泉ホテル支配人に「どうしてこの種の映画が見られるテレビになってるの?」と尋ねたら、「新婚さんに必要だから」だと。

 新婚さんも視覚的な刺激物があってこそ、燃えるらしい。新婚だから若いんだろうに、よその力を借りなければだめなのか、情けない。日本性教育協会の発表(4日)によると、男子ばかりか女子も草食化傾向がいちじるしい、という。全国7700人の中高大生を対象にした調査によると、性交体験ありは男子大学生54%、女子大学生47%と下落に転じた。性情報氾濫のなかで05年より男子7ポイント、女子14ポイントも減っている。

 逆からみれば童貞率、処女率が高くなっている、ということだ。この事態をどうみればいいのか、草食化の加速以外にもさまざまな解釈が成り立つ。男女の出会いの機会が少なくなった、という現象も大きいだろう。うがった見方をすれば、生身の異性を相手にするのが怖いのだ。ぼくは案外、少子化のせいで親の子離れが進まず、親が子を引きつけて、口うるさく干渉あるいは嫉妬するから親が怖くて大学生が恋愛をしなくなった、とみる。

 じゃ、この軟弱な若者群を7人の子持ちでも満足せず、コスプレ不倫がばれた橋下維新はどうみるか聞いてみたい。清楚好きのぼくは処女増加大歓迎だが、それがどうした、といわれれば返事に困る。 

 

就職しても渇望しろ!
ロンドン五輪は閉幕しても審判問題が尾を引くね。ぼくはテレビ中継をあまり見ないが、たまたま柔道、海老沼の試合はみていた。旗判定でいったん青3本があがったが、ジュリーというなぞの審判委員がクレームをつけたら、青3本が白3本にひっくり返った。テレビは今回からビデオによる確認法を取り入れた、といっていたが、ジュリーを本部という表現もあって、いったいどんな判定の仕組みになっているのかさっぱりわからない。

 そもそも海老沼の試合で最初、青3本というのが誤審くさい。白の海老沼が優勢のように素人目にも映った。海老原もその判定に困惑して泣き笑いの表情で立ち尽くしていた。丸顔の韓国コーチは満面の笑顔を見せて喜んでいる。主審副審3人の審判は畳のへりに並んで中腰で立っていたが、むかし先生に叱られている光景を思い出しやるせなかった。所定の位置に戻った審判3人は一転して白旗3本をあげ、じつにみっともなかった。

 柔道は日本の武道だから、どこかに求道的な要素を残しているが、ロンドン五輪をみているかぎり、求道精神はまるでない。制限時間がせまると小走りに相手に飛びかかり、にわとりのけんかを思わせ、下品だ。よりスポーツ化したということだろうが、その代わりルールは悪くない。消極姿勢には指導がくる。帯が緩んで何回も時間稼ぎに締め直すのも指導。危険な技は違反。ルールは明確だが、審判の見る目や技量が全然伴ってない。

 女子バドミントンでは女子ダブルスで失格が4ペアもでた。韓国2ペア、中国、インドネシア各1ペアとアジア勢。いずれも準々決勝への進出をきめていたので、組み合わせが有利になるよう無気力試合をしたと判定された。女子サッカーなでしこの佐々木監督も南アフリカ戦の後半、引き分けに持ち込むよう支持をだした、と言っていた。思い通りドローになったが、これは組み合わせというより遠距離移動を考慮してのことらしい。

 ぼくはスポーツにはとんと縁がないから知る由もないが、陸上競技やマラソンで駆け引き云々のはなしを解説者が言うと、なるほどと感心する前に驚いてしまう。直接的には足音とか呼吸音、間接的には観客のざわめきなどが情報になって、自分の調子を変えていくこともあるのだろう。他人のことにちまちまと神経を使わず、真剣に力いっぱい走れよ、とぼくは強調したい。ぼくなんかが強調しても遠くに蠅が一匹飛んでいるようなものだが。

 五輪期間中は新聞もあまり読まない。とくに社会面の美談づくしにはうんざりする。見出しをざっと読み流してそれで終わり。でも、2日毎日朝刊の最終ページのフェンシング「大田雄貴の悔い」は読ませた。「身分得て渇望薄れ」という見出しが効いている。北京五輪では「ニ―ト剣士」と自嘲していたが、森永製菓の社員となって「サラリーマン剣士」の身分になった。ハングリー精神が水っぽくなった。若者よ「身分得て渇望薄れ」を恐れろ!

 「水泳選手は男にもわき毛がない」とかみさんが騒いでいた。気持ち悪い、男っぽくないというのである。水泳選手は水の抵抗を少なくするため、胸毛も陰毛も剃る。極限まで抵抗をなくすのである。水着を脱ぐと男はかえって抵抗が増し、審判がいなくてももちろん違反失格です。

 

 



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