ペン森通信
清潔は現代病だ
きょう火曜日はいつもより1時間以上早く、9時40分にはペン森に着いた。生ゴミなどの燃えるゴミをゴミ収集所に出しておくのを昨夜忘れて帰宅したから、収拾車が来る前にゴミ出しをしようと思って早出したのである。ところが収集所にはもうゴミはない。今度の生ゴミ収集日は金曜日になる。きのうの段階で先週からのゴミは鼻がひん曲がるくらいの悪臭を放っていた。このままあと3日間もたすのか、と気落ちして2階にあがった。

すると、どうだ、生ゴミのはいったペン森のゴミ袋はきれいに消えていた。だれかが出してくれていた!なんとありがたい。ペン森は作文を書いたあと、みんなで飲食をするのがしきたりだが、ちゃんとシェフが料理を振る舞い、酒を毎晩のむ。魚料理が多い分、生ゴミも魚の頭部や骨や内臓が多い。当然、この時期になると腐臭だけでなく、小蠅の発生に気を使わねばならない。ゴミを詰めた袋には殺虫剤を噴霧して密閉して出す。

ことしは小蠅の発生をどうしても防ぎたいと決めているが、出入り口のドアを開けたときに蠅や蚊が入室してくる。さらにトイレの窓を開けていると、そこからも入ってくる。ほかの窓にはすべて網戸が嵌め、それなりの対策はしてあるのだが、寒くも暑くもない良好なこの季節はぼくの鼻炎がとめどないのと同じで、生ゴミが出るかぎり小蠅はやはりどこからか発生してくる。流しの三角コーナーに一晩生ゴミを放置しているともう駄目だ。

なにしろ狭い部屋なので蠅1匹が飛びまわり、勝手にあちこちに止まるたびに気にさわる。新聞紙を丸めて叩き落とそうとしても敵は敏捷だ。打撃がストライクになることは少ない。逃しているうちに、ちいさな飛翔体はどこかに姿が消えてしまい、またどこからかやってくる。じつにイライラが昂じる。アフリカやアジアのある国では蠅がたかって黒く変色した食物の蠅を追い払って平気で食べている。ぼくら文明人は1匹でも嫌だ。

人間の環境への慣れというのは恐ろしいもので、戦後まもなくのころは店屋や家庭に粘着性の蠅取り紙がぶら下がっていた。その器に入れば抜け出せない芳香性の蠅取りもあった。それだけ蠅がいたということだ。昭和30年代の初めには、トイレは東京でも水洗は少なかった。いたるところにまだ戦後が残っていた。現代の清潔が病気みたいになった現代にくらべて全体が不潔だった。不潔が当たり前で、それが免疫になっていたのである。

不潔な時代をすごしたぼくは、初老の男にしてはけっこう綺麗好きだが、これはかみさんの影響が大きいと思う。かみさんは病的なくらい綺麗好きなのだ。電車の床に荷物を床に下ろそうものなら、そんな汚い所にと、まことに口うるさい。荷物はリュックであろうと買い物の包み紙や段ボールであろうと、わが家の床に置きそうなものはみんな同じ扱いである。こうして鍛えられたぼくは、生ゴミ反応がひと一倍過剰かもしれない。

近ごろはカエルの鳴き声やツバメの飛び交う風景も見かけなくなった。蠅を駆除するにしたがい有益な小動物も駆逐してしまったようだ。身のまわりの小動物は人間のいない限界村落の果ての廃村でしか見られなくなるのだろうか。





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自立する男の70代
医師免許を持つ作家の渡辺淳一が週刊新潮の連載エッセーに高齢者の元気対策を書いている。「高齢者が元気になるには、明るく前向きに生きていく生き方が重要」と。要するにぼくがかねて実践していることが強調してある。「とくに70歳をこえて明るく前向きに生きるには恋をすることである。1人か2人ときには数人と、恋をする」。ここまではいい。「相手の女性は60代でも70代でも」ときた。ひとごとだと思って無責任に。いやだよ。

 70すぎのぼくは60代70代のシルバー女性はまったく好みじゃない。長生きで名を知られた泉竹千代さんは110歳だかの誕生祝いの席で「どんな女性が好きですか」と質問された。答えは「年上の女性がいい」と。老人ホームでは男の女をめぐる争い、女の男争いが盛んらしい。歳を重ねても異性は興味の対象。ペン森は若い男女の合コンの場のような塾だから、つぎつぎに新カップルが誕生してもよさそうだが、それは表向きにはない。

 表向きはそうでも、若い男女のことだから、裏はどういう展開になっているか見えない。裏向きのデキた話もちらほらと聞こえてくるが、本人たちが証言したのではないから、ぼくはひそかに信じるだけである。まあ、旧世代のぼくが考えるほど当人たちにとっては大したことはないのだろう。セックスも若い時期の通過儀礼といった程度かもしれない。古い教育を受けた旧式の人間にとってはセックスを一種の消費と考えるには抵抗がある。

 ペン森もけっこう下ネタで盛り上がる。最近では女子の下ネタ参加率も高くなってきたので、これは表向きも裏向きもない。ただし、そのテの話題にそっぽを向くメンバーがいれば下ネタはできない。そっぽを向くイスラム信仰者みたいな、きまじめ人間もいるのだ。しかし、やはり女子のいない男子ばかりの夜間に下ネタは一層活発になる。男子のなかにはそういう話題に夢中になるスケベな自分を女子に見せたくない者もいるからである。

 渡辺淳一先生のおすすめだが,だいたい60代70代女性と恋愛関係になったところで、その先はひるむのがふつうだろう。マニアックな人種ならともかく、ぼくみたいなノーマルな男はまるで反応しない。ぼくは女子大の先生みたいに20代女子に囲まれている恵まれた立場だから、60代70代はどちらかといえば嫌悪の対象。ところがです、女子大には、見るだけで口元もほころぶような女子はまずいません。男の目がないからだろうね。

 ぼくはお嬢さま女子大といわれる大学で講師をしていたのだが、美人度はペン森のほうが高かった。そのペン森にしても、ぼくの女子に対する好みは激しい。敬遠する美人もいる。楚々とした佳人系にはたちまちとろんとなる。そういう女子はいまどきいないから、気立てのいい美人で我慢しなければ。贅沢なものです。お気に入りには本をあげて内面の充実を支援したり、旅友になってもらったりと、はた目にも変わった好色系じじいだ。

でも、じじいだから20代女子に警戒されない。50代は当然、60代70代でも男によっては警戒される。渡辺淳一先生の卓見にしたがわなくても、ぼくは高齢者をめぐる閉塞感をものともせず自立している。やんぬるかな、戦闘能力はゼロだけど。

 

 






スカイツリーって電波塔なの!?
テレビは東京スカイツリ―で大騒ぎだ。それを見ているぼくは朝からら不機嫌である。スカイツリ―は千葉からの帰り、総武線の窓越しに見たが、なんだ鉄骨の背が高いだけで美的センスゼロではないか、と腹立たしくなった。津波に根こそぎやられて骨組みのみがさらされている風景と重なり、物悲しくもなった。空撮をしているカメラマンによると上空から見れば新宿の超高層ビルが墓標に見え、スカイツリ―は卒塔婆にみえるそうだ。

 うちのかみさんは、スカイツリ―は観光のためにできたの?とぼくに聞く。シャッター通りの地元商店街の街起こしだよ、あっという間にみな飽きるよ、一時の興奮だろうよ、と答える。アンテナじゃなかったの?とかみさんは首をひねる。ああ、東京タワーに代わる新電波塔だって、最初は盛んに喧伝してた、だけどうちのテレビは東京タワーからの電波で支障なく映ってるじゃない、電波塔というのもあやしい、なにかの陰謀だよ、きっと。

 たしかに地上波デジタル放送はスカイツリ―と関係あるように考えている人が多い。最近は観光の観点が強調され、おかげでスカイツリ―の足元には、大地震が来たらひとたまりもなさそうな古色蒼然たる昭和が命脈を保っていることがわかった。だからといって、昭和育ちのぼくは古きを訪ねて懐古趣味にひたる気はまったくしない。だが、スカイツリ―のほんとのねらいはどうも観光客誘致の地域おこしがホンネだったのだろう。

 ぼくもスカイツリ―の工事模様と並行してせきたてられたのに気が急いて、地上波薄型テレビを購入したが、前のアナログテレビもまだよく映っていたのである。なんだか一杯喰わされた感じがして、家電メーカーの赤字にもざまあみやがれ、という気持ちにさえなる。新電波塔の建設だと錯覚し、みな一斉にテレビに買い替えたのだから、その後テレビが売れなくなるのは当然だ。韓国や中国の追い上げがすごいと嘆く前に、自業自得だよ。

 ところでぼくは大の飛行機嫌いだ。若いころぼくの乗った取材中のセスナ機が高圧線に引っ掛かりそうになって命拾いした体験よりも、旅客機で椅子にすわって中空を運ばれていく姿を想像するだけでゾッとする。飛行機嫌いが昂じてついに高所恐怖症になった。だから超高層マンションなんてよく入居するひとがいるもんだ、とふしぎでたまらない。タワーの展望台にお金を払って上るひとの気がしれない。とんでもないことです。

 聞くところによると、スカイツリ―の展望台への切符は2000~3500円するそうだ。ぼくはそれだけあげるから展望台に上ってくれといわれても、10倍くれるんだったら手を打ってもいい、と応じたい。きょうは雨模様で視界は最悪だが、それでも展望台に上ったひとがいるだろう。少しも気の毒とは思わないね。ぼくのスカイツリ―嫌悪はどうやら高所恐怖症と、一斉に同じ方向に向かう無抵抗な人々に対する反発心のせいだ。


20代女子はぼくのライフライン
きのうは5冊の古本を仕入れた。小松左京のSF巨編『日本沈没』(上下)、名手三浦哲郎の短編集『わくらば』,山崎朋子の大宅壮一賞ノンフィクション『サンダカン八番娼館』、JRの前史を知るための原田勝正『日本の国鉄』。しめて計500円。これは安い買い物だろう。明治時代北海道の開拓を強いられた囚人の辛苦の記録、吉村昭『赤い人』を読みさしているが、以後なにから手をつけるか、うきうき目移りする。

恥ずかしながら『日本沈没』は昔読了したが、筋はよく憶えてない。『サンダカン』にいたっては、この著名ノンフィクションを読んでもいないのだ。わが本棚のどこかに単行本が埋もれているはずだが、整理が悪いので見つけだす気も起こらない。同じ本を買っても100円だから、すこしも惜しくない。ぼくは土日の家庭用買い物のついでによく100円ショップに寄る。100円ショップもコンビニと同じく、いまやライフラインだ。

大震災の被災地にいち早くコンビニが仮設ながら店を開いたのも、住民やボランティアにとって身近になくてはならない存在だからだろう。ぼくは南三陸で屋外のトイレにはいって、コンビニのありがたさを知った。ただし、普段の生活でコンビニを利用することはまずない。便利な分、値段が割高だからである。入店したとたんに、あのおでんの匂いが耐えられないといって、ついに行かなくなった女子学生を知っている。

その女子学生にとってもぼくにとっても、コンビニはライフラインを形成するものではない。このような存在はもはや少数派だろう。若者が道案内をするとき、途中のコンビニを目印にあげる場合が多い。ぼくら老人は過去の職業体験や育った環境から銀行を目印にあげる、とか理髪店、パーマ屋、クリーニング店、薬局、医院、ラーメン屋、飲み屋、雑貨店、公園、学校、お寺、駐車場、自販機、建物の特徴を目印にとかじつに多種多様。

100円ショップはありがたい。日用雑貨や台所用品はたいていそろっている。雨宮処凛がなにかに書いていたが、100円ショップのおかげでやっと食いつないでいるひともいるらしい。たしかにパンもインスタント食品も100円ショップで間に合う。ぼくは酒のつまみをよく買っている。食器やトイレ洗剤もそろうからありがたい。100円ショップは貧困日本を表すひとつの産物といえないこともないのだ。

格差社会というより階級社会に近い様相をていしているのがいまの日本。所得格差ははげしい。ぼくは年収300万円にも満たないが、200万以下がごろごろしている現状では底辺でのたうっているわけではない。大卒の内定率が93%と昨年より改善されたというが、3年以内の離職率は35%にのぼる。この離職率の高さこそ大問題だ。離職した若者たちはどこへ行っているのだろうか。親のパラサイトもいれば自殺予備軍もいるだろう。

年収300万足らずでも、ぼくには本と旅と若い女子というライフラインがある。本は古本、旅は従来線のほうがたのしい。女子は古いのはおかん。20代後半や30代が嫌いなわけではないが、やはり20代前半は鮮度がみずみずしい。いつも新鮮な20代に接しているとぼくのライフラインには初夏のようにいきいきと血が通う。

足と手と生と死と旅と人生
 先週から月水金の午前、調布の整形外科に通っている。先週は杖も買った。転ばぬ先の杖である。左足の歩行がやや不如意で、弾力がなく靴の底が路面を擦る。ちょっとした段差にもつまずきそうになる。脳内でちいさな血栓が生じているようなのだ。血の流れがよくない。もともと血のめぐりはいいほうではないが、ますます悪くなった。3月に左手のしびれを感じたが、今度は上腕部に痛みがあって、それもマッサージしてもらっている。

 10年前に脳梗塞をやってから、体が硬直していることは痛感していた。先々月CT検査をした結果、ちいさな梗塞が起こっていることが判明した。このあいだ電車のなかでおばさんが話していたが、小さな梗塞はだれにでも発生しているのだそうだ。この際、おばさんの話を信じて安心することにしよう。左手のしびれと痛みはそれとは関係ないだろうが左足は間違いなく、小さな梗塞が犯人だ。舌が回らないという現象も梗塞のせいです。

 どのように舌が回らないかというと、酔っぱらったときとほとんど同じ状態になる。発音が明晰さを欠く。夜はいつも酔っているので、学生には判別がつかないのでは。とくにこのところ、芋焼酎のお湯割りを専門に飲んでいるので、酔いが早くよけいにけじめがつかないだろう。ぼくは高校生のころから焼酎になじんでいるが、お湯割りとはいえ日本酒よりも効く。体の硬直に反して部位的にはコンニャク度が増してきた、残念ながら。

 ちょっと話がそれるが、精力方面に関して焼酎は気分が高揚するわりに肉体の軟弱度はいちじるしいと思う。気分だけ発奮する。焼酎生活をしている南九州の男たちが草食系だとは聞いたことがないから、これはぼくだけの現象かもしれない。まあ、ぼくの場合は年齢も関係するだろうがね。蘇生は半分あきらめた。16期生が、1時間前に飲んでくださいと秘薬を差し出して同情してくれたが、いまだにリュックで出番なく眠っている。

 GWをすぎて、今年もぼくにとっての鼻炎の季節がやってきた。水洟とくしゃみがでてしようがない。マスクとポケットテッシュ―を忘れた日には悲劇だ。ホームに降りて買わねば保てない。この鼻炎もぼくの持病である。老人の会合では病気自慢が相場だが、鼻炎は老人特有のものではないから自慢にもならない。もうひとつ、これは老人特有だが、涙もろくなった。けさも『南三陸日記』(朝日新聞出版)を読んで車内で涙が止まらなかった。

 『南三陸日記』の筆者の後任に12期生が就任した。この日記は多くの人々に焦点をあてているが、中身の背後にはおびただしい死がある。GWに新旅友と長野上田市の無言館へ行ったが、展示された絵はすべて太平洋戦争で亡くなった若者が描いたものだ。自然災害と人為的な死とは異なるが、無言館の絵の奥にも理不尽な死を見た。7月、孫娘にペン森生が加わって南三陸ツアーを計画している。来年は孫娘を無言館へ連れてゆく予定。

 整形外科のリハビリの効果は上がっているようで、足も杖は必要としないかもしれない。腕の痛みはひいた。この分なら遠方への旅も苦にならないだろう。足と手を復元させて、ローカル線に揺られて何泊もの旅をすること、それがぼくの人生だ。

 




木嶋佳苗裁判で傍聴記が描く女性記者
17期の女子弟子に数冊ずつノンフィクションをあげて研鑚を積むように頼んでいる。きのうは開高健の『ズバリ東京』『日本人の遊び場』などをあげたが、用意していた北原みのりの木嶋佳苗100日裁判傍聴記『毒婦』が抜けていた。北原みのりは女性のセックスグッズショップを経営しているコラムニストで『週刊朝日』にコラムを連載している。ぼくはそのエロぶりの愛読者である。木嶋裁判傍聴記も週朝に連載してきたものだ。

『毒婦』は徹底して女の目線で書かれていて、ノンフィクション雑誌『g2』に佐野眞一が発表している正統派全傍聴記よりもあけすけで思わず身を乗り出す。けっこう有名になった佳苗の証言の再録。それを聞いた法廷の休憩中の北原みのりの描写がおもしろい。
「男性たちには褒められました。具体的には、テクニックというよりは、本来持っている機能が女性より高いということで、褒めて下さる男性が多かったです」

「休憩中の傍聴席は軽いパニックに陥っていた。男性記者が『すげーすげー』と騒いでいる。いつもは“佳苗の女としての生き難さ”みたいなことを語り合う女性記者が、『みみず千匹ってこと?』『かずのこ天井?!』『私、褒められたことない!』とセックストークを始めてしまっている」。女性記者のこの種のトークに耳をそばだてる手並みはまさに女ならでは、である。男性がそばにいたら、女性記者はそんな話はするまい。するってか!

佳苗は太っていてブスであるらしい。ただ声だけが鈴を鳴らしたような美声という。佐野眞一も「3人を殺したとは思えないきれいな声」と表現している。何人殺そうが声質とは関係ないと思うのだが、美声であることは傍聴したペン森卒業生記者の全員が一致していた。佳苗は殺人でこそ3件で起訴されたが、詐欺その他7件の計10件で起訴されている。練炭による一酸化炭素中毒殺人である。が、審理には深刻さはあまりなかったらしい。

それはひとえに佳苗が無表情にあっけらかんと証言し、衣装をとっかえひっかえして法廷に現れたからである。傍聴席のほうが調子がおかしくなった。北原は書く。「佳苗が男たちのことをさんざん語った日、隣に座っていた女性記者(美人)が何か苛立っていた。『佳苗、私よりずっとセックスしてますよ。だいたい私なんか、今まで1度しかプロポーズされたことないっていうの!佳苗はいったい何回プロポーズされてるんですか!』

美人女性記者のヒステリー的な嘆きはなお続く。「いったい、なんであんなブスが!ブスなのに!どうして!どうしてだと思いますか!」。北原は本のなかで解説する。「生々しく悔しがり、嫉妬し、怒る、感情的で面倒くさい美人より、自分を全て受容する料理上手で感情を見せない不美人のほうが、男たちは夢を見やすい」。たしかにそうだと賛意を表する一方、やはりブスより美人のほうがぼくはいい。選択はもはや不可能でだが美人大好き。

検察によると佳苗は男性10人から計1億円以上を騙しとっている。最高齢の安藤健三さんは殺された09年5月当時、80歳だった。07年8月に死亡したFさんは70歳。高齢者が名器をえさにしてか、一気に食いついた。えっ、70・80で現役!と驚きながらも、ぼくはなんとも切なく、身につまされる。男性機能は、期待をかけて再生努力中だけど現役復帰は無理かなあ。


 

坂本龍一の父親は伝説の編集者
映画『ラストエンペラー』で大逆事件の甘粕を演じた坂本龍一が俳優ではなく、世界的なミュージシャンであることを知っているひとは多いだろう。坂本はこの映画で音楽を担当し、アカデミー音楽賞に輝いた。この偉大なミュージシャンの父親を知っているひとはよほどの文学通、出版通だ。父親の一亀は河出書房の伝説的な編集者である。GWに開高健の『人とこの世界』を読み返していたら、佐野眞一が解説で一亀のことに触れていた。

佐野によると、開高のノンフィクション『ずばり東京』『ベトナム戦記』『お―パ!』は『人とこの世界』が描きだした深々とした世界には及ばないそうだ。ぼくは『ずばり東京』以外も読んだが、あまりに昔のことなので『オ―パ!』の写真をかすかにおぼえているだけで、仔細はまるで記憶にない。73歳ともなると、過去の精神や知見が凝縮されていそうなものだが、ぼくは開高については「編集者マグナカルタ」が最も印象的だ。

それでも『人とこの世界』は以前にもこのブログで取り上げたが、作家、画家、詩人と個性秀でた人物をまな板にのせた切った張ったのノンフィクションなので愛着がある。開高のあの大音声が聞こえてくる錯覚さえ感じる。『人とこの世界』は一亀の薫陶を受けた編集者が担当した。坂本一亀は「毎晩誰かと飲め、そのための費用は一切編集部が持つ」と言っていたらしい。一亀は文芸の社会化、すなわちノンフィクションに熱心だった。

いまぼくは高山文彦の人物ルポ『エレクトラ 中上健次の生涯』を読みはじめたが、冒頭に、書かれた原稿を前に「この作品は発表できない」と拒絶する編集者と巨漢中上との対峙場面がある。編集者は坂本一亀の弟子筋にあたる『文藝』部員。中上健次は非差別部落に私生児として生まれ、類まれな才能を発揮して夭折する。東大文学部大学院の中上の『岬』を題材にした入試論文の添削を頼まれたが手も足も出なかったことを思い出した。

どうもぼくは純文学には弱い。恥ずかしながら底に流れる文意を読みとれない。だから若い感受性が書いた『岬』論文の添削ができない。純文学を読めない本好きなのだ。もっぱら娯楽としての小説は大藪春彦の単純なストーリーにかぎると考えているほどである。なにを読んでもセックスとバイオレンスを繰り返すその単純さ。大藪は作品のなかでいったい何人殺したか、ということを調べた者好きもいたくらいの殺戮シーンが多い。

大藪とてその才能を発見して、名をなさしめたのは江戸川乱歩だ。未来への芽や可能性を見つけるのがマスコミ作文の採点者の役割だが、さて純文学に対して無能なぼくのような採点者もいるにちがいない。そういう無能に当たって筆記落ちした悲劇もあっただろう。逆に荒削りの未完成ながらもきらりと光る作文に目をとめた採点者もいただろう。坂本一亀のような手練れの人物は、きらり作文は見逃さない。面接者になっても才能を見抜く。

どこかに坂本一亀はいないものか。ぼくは坂本一亀にあこがれるが、いかんせんこの年齢では手遅れだ。元々少なかった感性のみずみずしさがより干からびて、精神の固形化がはなはだしい。若者から感性や感受性の注入をしてもらえる立場であるのが、他の老人にないうるおいです。

すべてを捨てる覚悟はあるか
 垣根涼介の『借金取りの王子』を再読し終えた。読んだひとも多いだろうと思うが、これは「君たちに明日はない」シリーズの2である。少なくとも石田衣良の『シュ―カツ!』よりもリアリティーに富んでいる。3の『張り込み姫』もふくめて面接の技法がこと細かに表現され、一種の心理小説集といってもいい。主人公は慶応出の30代半ばのリストラ対象者の面接官。企業から人事整理、つまりリストラを依頼される会社の中堅社員だ。

 新潮社文庫になっているが2の『張り込み姫』の最後の話はまさに明らかに新潮社が舞台になっている。写真週刊誌『フォーカス』廃刊時の余剰人員のリストラがモデルである。取り上げた業界はデパート、生命保険会社、車のディーラー、温泉旅館と多岐にわたり、業界別にひとつずつの短編として構成され、主人公とその年上の恋人、主人公のアシスタントは全編を通じて変わらない。各業界の内実話は学生にとって格好の業界研究かも。

 このシリーズは全編に通底するメッセージは、働くこと、仕事することの意味を自分に問うてみたら、ということに尽きる、と思う。『借金取りの王子』のなかにこんなくだりがある。

「昔、聞いたことがある。たしかイギリスかどこかに、将来を嘱望されている非常に優秀な大学医がいた。あるとき彼は、北アフリカのとある港町を訪れた。船からその町を見た瞬間、すべてを捨ててその町に住む決心をした。実際にそこで、しがない検疫官として暮らし始めた。安定した今の生活と,薔薇色になるだろう未来も捨ててね」
「……」
「十数年後、友達が彼のところを訪ねた。とても貧しい暮らしだったらしい。で、友達は聞いた。すべてを捨てた挙句がこんな暮らしで満足なのかって。彼は笑って答えた。満足だよって。この暮らしに、一度も後悔を感じたことはないって」
 
 折しもメディアの春採用が終わりつつある。学生は例年になく安定志向のようだ。メディア自体が不安定な職種となったいま、巨大メディアといえども、必ずしも未来が約束されているわけではない。17年前のペン森開設時、ちょうど携帯電話が登場して、ぼくはびっくりしたものだ。インターネットの見学に行って、米雑誌『プレイボーイ』にアクセスを試みた。通じるまで30分かかった。この変化の裏で既存メディアは衰退した。

 だが、新聞もテレビもすべてが消滅することはあるまい。社会に必要な存在だからだ。問題はその存在理由を認めるに足る報道ができるかどうか、の覚悟にかかっている。志望者はそこまで考えねば、将来の自分の存在理由が覚束ない。さらに年月を重ねれば、メディア業界の様相はさらに激変することが必至だ。それでもなお、自分は既存メディアを活用してやりたいことがあり、それを抑えることができない、という若者は目指すべきだ。
 
すべてを捨ててとは言わない。はいったら、家庭を捨てるケースが多いのだから。仕事ではなく、酒ですべてを失うひともいるけどね。
 



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