ペン森通信
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モラルを守る息苦しさ
 朝、といってももう9時半だが、出勤途中の公園の外周路で4,5年前はさぞかし美少女であっただろうと想像させる美女に出会っていた。毎朝、それがひそかなワクワクだった。彼女は、選挙の投票所で見かけたことがあるので、近所の女性にはちがいなかった。朝のこの時間に帰るとは、学生ではなさそうだし夜勤明けの看護婦かな、女優かな、と推測したが、ただ推測するだけだった。いつのまにか、ぱたりと姿を見せなくなった。

 投票所で家内が遠くから笑いかけていたことがある。「近所のお嬢さん?」と聞こうとしたが、「どうして?」と問い返されると窮するので、黙っていた。なにもやましいところはないのに、隠しごとをかかえたような意識になっている。しかし、ぼくの心のなかがなんの汚れもない純粋無垢かというと、そうとは言い切れない。彼女に出会わなくなってから、ときめきもなく朝の公園の道にこぼれる小さな楽しみも消えてしまった。

 同じ町内に90歳を超す老夫婦が住んでいた。じいさんは昔風にいうと、ハイカラそのもの。バイオリンのケースをかかえて外出していた。その後ろ姿をばあさんが見送るのではなく、距離をとって尾行していた。ときには電柱のかげでじっと見ていたり、待ち伏せしたりしている。90をすぎても、嫉妬の炎が胸に青く燃えているのであろうか。昔、じいさんは女で不始末を犯し、ばあさんにはわだかまりと不信が残っていたのであろうか。

 じいさんが亡くなったら、ばあさんは張り合いをなくしたのか、すぐ後を追って死んでしまった。老夫婦に過去、なにがあったか知るよしもなかったが、長い人生のあいだには夫婦も互いに都合の悪い隠しごとの三つや五つはあるだろう。隠しごとは男と女とどっちが多いか、それは男に決まっている。男は浮気体質があるからね。ぼくが朝の美女との出会いを喜んでいたのも浮気の血が騒いだからだ。だから家内にも素知らぬふりをする。

未練にしろ、嫉妬にしろ、ぼくは男のほうが多量だと思っている。別れ話で未練たらたら刃傷沙汰に及ぶのもたいていは男のほうだ。嫉妬に狂うのも男のほうだと作家の阿刀田高は指摘していた。嫉妬という漢字は両方とも女偏だが、これは女性差別かもしれない。嫉妬が女の特質かというと、ぼくの近所にいたばあさんは例外だろう。一夫多妻の古代、男は女の嫉妬に苦しんだそうだが、一夫一婦制では妻がやきもちを焼く相手はいない。

 当然、ぼくも隠しごとという秘めごとはある。世間的には突飛なことではなく、実害も伴わない。それでも明かしたくはない。隠すことによって、終末も遠くない人生に味と綾とを加味して、生き方にいきいきとした興奮をもたらしてくれる。ぼくは公的な存在ではないからささやかな秘密が暴露される心配はないが、いまの世の中は総嫉妬時代ともいうべき息苦しい空気が漂い、窮屈きわまりない。モラルを求めたがるメディアのせいだ。

「強大な国家権力に立ち向かう際、モラルを気にしては相手側に取り込まれてしまう」という意味のことを小田実かだれかが言っていたというのをなにかで読んだ。ぼくは、法は守るが、モラリストではない。モラルにこだわるな、こだわれば人間がちまちまするぞ、という内心の叫びを聞いて、そうだ、と答えながら酒を飲んでいる。



 

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カダフィの最期から見えるもの
リビアのカダフィ大佐死亡の真相はまだわからないが、おそらくカダフィ派という民兵の憎悪によって銃殺された。権力者の末路は、権力を強く発揮して独裁支配した分だけ、反発も大きい。捕えられて左顔面が血だらけになったカダフィ最期の映像は世界中に流されただろうが、世界中に瞬時に伝達するネット情報とケータイの撮影の威力には驚くばかりだ。ぼくも最近、Facebookをはじめたが、このブログよりもはるかに反応が多い。

リビア情勢を伝えるテレビを見ていると、カダフィの最後はチャウシェスクを思い出させる、とキャスターがコメントする。このルーマニア独裁者は1989年に貧困にあえいだ民衆の蜂起によって追いつめられ逮捕される。人民裁判で夫婦に全財産没収、死刑が言い渡され、即銃殺された。銃殺死体も克明にビデオに収録され、全世界のテレビで放映された。衝撃的なこの映像はテレビ時代の処刑だった。キャスターは憶えているのだ。

ぼくら老人はもっと古い。第二次大戦時のイタリアのフアシスト、ムッソリーニの死体を民衆が逆さ吊りしたシーンも連想する。ムッソリーニもまた怒った民衆によって逃げ場がなくなり、銃殺されたあと、愛人とともに遺体が吊るされたのである。この場面はニュース映画で目にした。戦後しばらく、映画の本編の前にニュース映画が上映されていたのである。冒頭に社旗をはためかした朝日や毎日の外車社有車の映像が流れていた。

映画館のニュース映像は新聞社製作だったのだ。伝書鳩も写っていた。鳩の帰巣本能を利用して写真原稿などを運んでいた時代に比べると、瞬時に世界の「いま」が映し出される現代は、やはりすごい。ぼくのFBにもエジプトやシンガポールからほとんどリアルタイムで知人が反応してくる。情報の伝達手段はかくも変質し進化した。もはや活字の時代ではないと改めてつくづく考える。活字が主役だった時代はとっくに終焉した。

「アラブの春」はもちろん、ヨーロッパもアメリカもインターネットが大衆を動員して貧困のひろがりに抗議している。北朝鮮や中国に反政府デモが波及してもおかしくないが、政府はそれが怖いから、ネット規制をしている。しかし、この情報のグローバル化加速時代に必ず水漏れがあるにちがいない。中国の天安門事件はアメリカとFAXで結ばれて連絡し合った結果、若者の熱気がいや増したという報道が当時あった。

FAXはなんだかまどろっこしい。最初に燃えたチュニジアはFBによって点火し拡大した。ネットは即効性がある。ところが、アメリカやヨーロッパの若者の勢いに比べて、日本の若者は腰が重い。反原発デモに参加したペン森生の目の前で警察に検挙されたひとがいたそうだが、日本では市民運動にさえ警官が周りを取り囲んで厳しく対処する。この独裁後進国のような警察の姿勢に日本の若者は縮こまって動けないのだろうか。

社会運動を卒論のテーマにしているペン森生から、「今後日本で大きなデモが起こる可能性はあると思いますか」と聞かれた。即座に「ない」と答えた。「ただし、女性の反原発デモはあるかもしれない」。火種はある。原発、年金、TPP、格差、若者や子どもの将来、国家財政、地方分権、地震・津波対策、増税。でもこれらを熱っぽく語るよりもAKB48やSKE48に熱中する昨今の若者。さて、ぼくはまたFBを覗いてみるか。


行って見て感じて考えろ
年年歳歳ペン森はまた新しい仲間を迎える季節になった。17期生がぼちぼち入塾してくる。武運つたなく16期から17期に移行するひともいる。いずれにしても来年のメディア採用試験に向けてペン森で論作文を書く。いや、論文は書かない。極端に単純化すれば「これは○○である」というのが論文、「私は○○と思う」というのが作文である。みんなに自分の考えや意見を示してもらいたいから、作文を書いてもらう。

 論文を書いちゃマスコミには受からない。論理的に一貫性のある知性あふれる論考が展開できれば別だが。中大で担当している講座で「生きる」という題をだしたら、出来が悪かった。生きることの意味を抽象的に解説したり、祖父や祖母が寝たきりになったいきさつを書いたり、死生観を述べたり、全体に暗くじめじめしていた。具体性に乏しいこういう文章は着想の貧困さが問題であって、添削してもほとんど上達の期待はもてない。

 それらの文章は全部返却したので手元にはない。2本だけ鮮明な印象の具体的な内容のものがあった。沖縄の戦争孤児を訪ねて話を聞いた、という作文。米軍の攻撃で追いつめられ親兄弟をふくむグループが爆弾を囲んで集団自決を図る。いちばん外側にいて孤児になった7歳の少年だけが生き残り、親兄弟7人が死ぬ。これを知った女子学生は孤児として生きるとはどういうことだろうと、それを聞きに老人となった戦争孤児を訪ねる。

 ぼくはその行動力、発想力、知りたいという欲望、感傷に流れない生々しい記述、事実を直視する目、に感心せざるをえなかった。こういう若者が身近に存在すると考えるだけで、こっちにも勇気が湧いてくる。もう1本は「亡くなった人の文章が好きだ」という書き出しではじまった作文。それによって私は生きる力をもらう、と。ぼくは川端康成が最高の文章と感服したマラソン選手円谷幸吉の遺書を読みなさい、とアドバイスしておいた。

 総じて読むに値する作文は題による。中大で「忘れられない一言」という出題で書いてもらったら、予想どおり上出来だった。一般論、抽象論の論文的な内容に逃げ込めない題だからだ。自分が体験した一次情報を具体的に書く以外にないからである。印象的な作文は、自分だけが知っている一次情報、ネタ(題材)がおもしろい、微細な事実の描写、筋道にずれがない。この4条件によって成立するといってよい。

 井上ひさしは『作文教室』で強調している。「作文の秘訣は一言でいえば、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということだけ」。自分にしか書けないことというのは自分だけが知っている一次情報のことだ。報道されつくした二次的な情報によりかかって表現するひとがいるが、どこかで読んだような、観たような意外性も鮮度もない文章は、しょせんは借りもので独自性に欠けるからおよそ説得力に乏しい。

 書けるだけの体験がなかったら、自分で体験してこい、とぼくはいっている。そこでペン森にも中大にもネタの現場のリストを参考までに配った。ぼくは老人だから感覚的に古い現場になりがちだ。女工哀史の少女たちが休憩した野麦峠の宿、長野・上田の無言館、新潟・旧山古志村の日本一長い手掘りトンネルなどだ。それぞれに歴史と人間ドラマが息づいているから、行って見て感じて考えてこい、とペン森17期生にもいうつもりだ。


『ケインとアベル』はお勧め
 16日日曜日の毎日新聞読書欄に作家の山本一力がジェフリー・アーチャ―の3冊を推薦していた。おや、ぼくもそうだったと膝を打ったのが『ケインとアベル』(永井淳訳/新潮文庫/上下)である。「今日までに、わたしは数え切れない人々に本書を薦めた。一食ぬいても読んでみて、と」。ぼくは一食ぬいても、とは言わなかったが、だれかれとなく「まあ、読んでみて」と勧めた。山本一力同様、感謝されたものである。

 ひとに勧めて感謝された本といえば、最近では百田尚樹の『永遠のゼロ』(講談社文庫)がある。これは15期生と16期生が夢中になって読んで泣いた。ぼく自身、亡くなった読書家の俳優、児玉清が座談会かなにかで取り上げていたのがきっかけで読みはじめうるうる状態で読了した。16期女子の父親が上京して娘の部屋で一泊し、机の上に『永遠のゼロだけを置いて帰ったという話を聴いて、なんと素晴らしい父親だろうと感じ入った。

 南米移民に関心をもっている11期生女子に感化されて、ぼくも移民という棄民政策に興味をもった時期があった。そのころ、われわれは国に騙され棄てられたと国家賠償を求めて高い航空機代を払って日本にやってきた南米移民のグループがあった。国に騙され棄てられた、気宇壮大国家への復讐小説が垣根涼介『ワイルド・ソウル』(幻冬舎文庫・新潮文庫)。夢を求めて行ったブラジルで辛苦、貧窮し獣のような生活を強いられたのである。

 原発で故郷を棄てざるをえなかった福島棄民の子孫が、やがて国家と東京電力に復讐する小説が発表されるかも、と期待したい。『ワイルド・ソウル』は血なまぐさい惨劇の復讐でない点が物足りないし、そこがまた痛快だ。南米移民はブラジルだけでなくアルゼンチン、ウルグアイ、エクアドル、コロンビア、チリ、パラグアイ、ベネズエラ、ペルー、ボリビアの各国にも散った。多くは極度の貧苦からの脱出を図っていたのである。

 移民の日本脱出の様子を詳述描写したのが第1回芥川受賞作品の石川達三『蒼氓』(そうぼう)である。いまでは石川達三は読むひとも少ないが、まぎれもない社会派作家だった。『僕たちの失敗』『青春の蹉跌』『四十八歳の抵抗』と題のつけ方もうまい。不愉快な感じを与えながら最後まで読ませる。そのときどきの時代を切り取っている時代感覚と、独特の倫理観が現代にそぐわないと感じられて敬遠されているが、読む価値はある。

南米への移民は戦後もあった。ぼくが取材した青年は地下鉄の運転士だった。「地下ばかりの仕事がいやになった。明るい太陽の下で働きたい」と。これも一種の夢追い脱出にはちがいなかった。もはや顔も背格好も忘れ果てたが、国家への恨み骨髄の過去の移民にくらべて、徐々に自己責任に変わってきたようだ。だが、国家の移民政策によって過酷な生活の末に死んでいった多くのひとたちがいたことを、忘れてはいけない。

 さて、ジェフリー・アーチャ―。山本一力も推薦している処女作『百万ドルをとり返せ!』は、株で大損をした借金返済のためにベストセラーねらいで書いた。ねらいどおり大売れに売れ、借金を返してなおお金は余った。『ケインとアベル』は3作目。映画化もされたのでDVDを観たひとがいるかもしれない。小説のほうも掛け値なしにおもしろい。三食ぬいてでもぜひご一読されたし。いまここで内容は言うまい。
 

 

小海線ハイブリッド車両に乗る
あしたとあさっての土日、JR中央線の小淵沢乗り換えの小海線で遊んでくる。この線を走っている世界初のハイブリッド車両に乗りたいと思っていた。ほぼ小海線に沿っている国道141号は軽井沢をぬけて草津温泉へ行くとき、マイカーで何回も走ったが、小海線を利用したことはなかった。草津には前に勤めていた会社のリゾートマンションがあり、OBとして頻繁に使っていたのである。野辺山のコテージで合宿をしたこともあった。

 駅舎も清里駅や野辺山駅の外見は立ち寄っておなじみである。野辺山駅はJR最高地点1345メートルに建つ。小海線は「八ヶ岳高原線」という愛称で呼ばれ、いくら五能線を楽しんだと自慢しても、鉄道ファンにとって一度も乗ってなければ恥ずかしいローカル線だ。ぼくも小海線知らずの乗り鉄であった。窓外の景色もすばらしいと思われるが、なんといってもJRで日本一標高の高い路線を走る高原線だ。景色がすばらしいだろう。

 JRの高所駅上位10駅のうち、9駅が小海線にある。ぼくはなかでも八千穂駅が好きで、駅わきのレストランで食事をし、駅真向かいの「奥村土牛」記念美術館を覗くのを楽しみにしている。駅前に広い駐車場があって、安心して時間がつぶせる。奥村土牛(おくむらとぎゅう)は文化勲章を受章した日本画壇の最高峰に位置した大御所だった。ぼくはこの画家の自伝『牛のあゆみ』(中公文庫)が気にいって愛読した。これはいい本です。

 土牛は旧八千穂村に戦後4年間居住していたことから、素描を200余点寄贈した。そのうち約45点が美術館に展示されている。富士山、八ヶ岳、高原風景、田園風景などの素朴なスケッチが昭和を感じさせてどこか懐かしい。土牛という名前は寒山詩の一節「土牛石田を耕す」からとったという。小林古径に弟子入りしてセザンヌの影響を受け、『鳴門』が最高傑作とされる。素描は精密な線の鋭い印象と同時に親しみやすさがただよう。

 世界で初めてのハイブリッド車両は「キハE200形気動車」。ディーゼルエンジンとリチウムイオン蓄電池とを組み合わせ、発車時は蓄電池で加速時はディーゼルを使う。小海線は標高1000メートルの路線で急勾配もある。高原の森林に棲むキシャヤスデが這い出してきて、線路にあふれることがある。ヤスデは太ったムカデのような節足動物で見るも気色悪い不快な虫である。この不快虫はしばしば車両を止める。

 ヤスデの大群が線路にまであふれ出てくると、車両の車輪につぶされ異様な匂いを放ちながら体液で線路上をぬるぬるさせる。すると車輪が空回りして車両が立往生してしまうのである。ヤスデで車両が止まるというのも高原列車ならではの名物だ。このアクシデントはヤスデが大量発生したときに起こる。大群発生は8年ごととされ、最近では08年がそうだったらしい。8年経つにはまだ間があるが、紅葉にはあまり間がない。

ハイブリッド車両は静かに何事もなく快走し、まさか「牛のあゆみ」のようなノロノロはないだろう。でもなにかせかされるようなこの時代、「牛のあゆみ」は大切です。



僕が被災地へ行かなかったわけ
 文藝春秋11月号に「100歳まで元気な人の秘密」という大型企画が載っている。若いひとはあまり関心がないだろうし、ぼくも100歳までまだ27年もあるので、遠い遠い先だなと思う程度である。このあいだ、NHKだったか、テレビで100歳になった日野原重明医師に密着して、その日常をこまかに追ったドキュメンタリーを放送していた。100歳の現役の話す口調、歩き方、背格好、食べ物などを目にできたのが珍しかった。

 つい昨夜のことだが焼酎を飲んでいたら、度忘れがひどかった。ししゃもを焼いたのをつまみにしようと思ったのだが、そのししゃもが口をついて出てこない。焼酎にかぎらず酒が入ると、むかしから度忘れがひどかった。パーティーにいっしょに連れだって参加した友人を別の友人に紹介しようとしたところ、くだんの友人の名前がでてこない。「これもおれの友だち」なんてごまかした。すると本人が自己紹介していた。

 ぼくの度忘れは歳のせいではなく、酒のせいである。いやそうとも言えないか。ペン森に電話がかかってきて「いまだれがいますか」と聞いてくる。いまここにいる受講生の名前がとっさにでてこないことがこのところたびたびあった。「おい、そんなこといきなり聞くなよ」と言いたくなる。突然の機敏な反応はたしかに衰えてきた。もしかしたら、認知症のごく初期の症状が現れてきたのかもしれないと冷静に自己分析をする。

 ついに大震災の現場に気になりつつも行かなかったが、ぼくの深部筋という筋肉が弱いことがもっとも大きな理由だ。これは階段を上がるときに重要な働きをする筋肉で外からはわかりにくい内部にある。この筋肉は年齢とともに衰え、転倒や尿失禁の原因になるとされる。ぼくは脳梗塞を患って以後、左足がすこし擦り気味になった。階段を下りる際、段のへりに左足のかかとが当たることが多い。転倒防止のためいつも手すりをつかむ。

 東北の現場で転倒なんて、絶対避けねばならない。加えて、朝と夕方は頻尿の傾向がある。朝ときどき小便をするのを忘れて、電車に乗ることがある。それに気づくとにわかに尿意をもよおしてきて、それどころではなくなる。読んでいる本の字が頭に入らない。気分の問題が大きいだろうが、まさしく切迫尿である。ましてや深部筋が劣化してコントロールが効かない、垂れ流しか、みっともないなという不安がつきまとう。

 切迫感に押されて途中下車し、いそいそと駅の便器の前に立っても、小便が一向に出ないときもある。他の便器には男たちが入れ替わり立ち替わりしているのに、こっちはじっと立ったままだ。だれも注目してはいないだろうが、気になる。小便が出ても、牛のよだれみたいでキレが悪い。こっちはどう考えても、加齢のせいである。みんな黙っているけどね。そうでなきゃ、老人用尿漏れ防止パンツの広告があんなに出るわけがない。

 ぼくはまだ普通のボクサ―パンツを愛用している。もっとも尿漏れ防止パンツでも穿きなれていたら、転ばないように細心の注意を払い、被災地へ行ったかもしれない。100歳にうち8割9割は寝たきりという。ぼくは老人になったことは認めるが、寝たきりはご免だ。100歳も遠いが、すべてにおける現役も遠くなるばかりである。モテ期もはるかな過去に遠のいたなあ。モテ期よもういちど、と叫ぶもむなしい漏れション期。

 

 

 

軍歌をいのちとした時代
ほとんど使われなくなった言葉は「死語」。では歌われなくなった歌は「死歌」と言うか、言わないね。「軍歌がうたえる」とESの特技欄に記入した女子がいた。たしかにいまどきの女子で軍歌が歌えるというのは珍しい。カラオケで軍歌を声高らかに吟ずるひともいないだろう。ぼくはパチンコをやらないのでいまの事情は詳しくないが、以前パチンコの店内は景気のいい「軍歌マーチ」を盛大に流していた。以下、自己主張がない軍歌の羅列。

 ところがぼくは案外、軍歌を知っている。右翼の街宣車が騒々しくがなりたてる三上卓作詞・作曲『昭和維新の歌』の1番はそらんじている。「泪羅(べきら)の淵に波騒ぎ/巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ/混濁の世に我れ立てば/義憤に燃えて血潮湧く」。若者の憂国慨嘆の歌である。「5・15事件」「2・26事件」に連座した急進的な青年将校が歌い継いだと言われる。2番の一節「国を憂うる誠なし」は3・11後の政治そのままだ。

 この『昭和維新の歌』は正式には『青年日本の歌』というが、ぼくが防衛庁担当記者だったとき、この歌を直立不動で歌うNHK記者がいた。NHK記者が崇拝した作詞・作曲の三上卓は海軍軍人で、「5・15事件」(1932年)で首相官邸に乱入し、「話せばわかる」と説得しようとした犬養毅首相の頭部を拳銃で撃ち殺害に加担する。その4年後1936年に起こったクーデター事件が2・26事件。陸軍の皇道派の青年将校が決起した。

 三上の作詞を読めば、当時の不穏な世情が伝わってくるが、いまどき政治がどうあろうと、義憤に燃えて血潮湧く、若者はいないだろう。太平洋戦争で血潮湧く役割を果たしたのは軍歌もそうだが、新聞のそうだった。右翼街宣車で耳にした『空の勇士』は「恩賜の煙草をいただいて/あすは死ぬぞと決めた夜は/曠野の風もなまぐさく/ぐっと睨んだ敵空に/星が瞬く二つ三つ」という歌詞。これは読売新聞の公募歌であった。

 ご存じ「勝ってくるぞ勇ましく/ちかって故郷を出たからは/手柄たてずに死なりょうか/進軍ラッパ聴くたびに/まぶたに浮かぶ旗の波」というのは毎日新聞の懸賞当選の『露営の歌』。毎日は海軍省後援で、「海の記念日」の制定に際し募集した『太平洋行進曲』もある。昭和14年、この歌の発表によって日中戦争に倦んでいた国民は太平洋に目を向けはじめ、中国からアメリカを意識する流れとなる。朝日も『新しい海軍の歌』をつくった。

戦争体験者はもうみな高齢だが、現在でも戦友会は開かれているだろうか。開かれているとすれば、必ず軍歌が歌われるはずだ。「貴様と俺とは同期の桜/同じ兵学校の庭に咲く/咲いた花なら散るのは覚悟/みごと散りましょ国のため」の『同期の桜』は定番歌にちがいない。それは靖国神社境内に戦友会が植樹したおびただしい桜の木を目にすればわかる。飛行隊なら『加藤隼戦闘隊』や『荒鷲の歌』。歩兵なら切々とした『愛馬進軍歌』。

軍歌は戦意高揚が主目的だったが、自然発生的な軍隊ソングもある。生死を共にした『戦友の遺骨を抱いて』、地獄の初年兵哀歌『可愛いスウチャン』はのちの『ネリカン・ブルース』、氷川きよしの『きよしのズンドコ節』の元唄は『海軍小唄』である。『歩兵の本領』はメーデーの歌の元唄となった。軍歌は濃密な一時期を共有した仲間の人生歌でもある。(長田暁二編『日本軍歌名曲百選』/1971年・野ばら社)をかなり参考にしました。

温泉はぬるいのにかぎる
 わざわざ温泉に行って、寒い季節にかかわらずシャワーだけ浴びることがよくある。だからぼくの場合、温泉に行ってもあまり意味がない、ように見えるが実際は温泉好きだ。宿に着いてから熱いことがわかることが多いので、入浴は敬遠してしまいがちである。むかし、マキで五右衛門風呂を焚いていた田舎では、熱くするのが客に対するサービスと思う家がかなりあった。熱めの源泉をかけ流しにする名湯が少なくないから困る。

 青森のその名も温湯温泉は、逆に熱湯温泉と改名したほうがよさそうだった。東北は熱い湯が多いというのがぼくの印象。混浴と千人風呂で有名な酸ケ湯は酸性が強く、皮膚の弱いぼくは10日間ほど皮膚がかゆかった。東北はいまでもけっこう混浴が目立つが、入ってくるのははるか彼方へ羞恥心を置き去りにしてきたばあさんばかりだから、期待も心配も不要である。酸ケ湯は乳白色の湯だった。熱かったかどうかは記憶にない。

 25年前の酸ケ湯が熱い湯苦手のトラウマになっているのかもしれない。10日間、痛がゆかったから、温度もそれなりに高かったのではないか。かゆさが高温に結びついて、熱い湯の苦手意識が生まれたのだろう。だから熱い湯好き江戸っ子東京の銭湯なんて入る気がしない。50度とやたら高い温度に設定したところもあるから、40度以下を好むぼくなんかたまったもんじゃない。41、2度でも音をあげる軟弱じじいだからさ。

 長野の野沢温泉に入ったとき、湯舟からこぼれてくるタイルの床の湯ですら足の裏が熱くてひょいひょいと足を上げて歩かねばならなかった。湯船に水の蛇口をひねってじゃぶじゃぶ流し入れたら、目をつぶって肩までつかっていたじいさんが目を開けてじっとにらんできた。結局右手の先をつけただけであえなく退散せざるをえなかった。バスつきの部屋ではなかったので、シャワーも浴びずじまいの憂き目に遭ったのだった。

 ぬる湯温泉めぐりというツアーをひとりないし同好のふたりでやってみたい。今度の連休にも実行したいが、震災以降家にこもっていたひとたちも冬眠から覚めたように活発に外出するようになったので、宿の確保はもうできないかもしれない。最終的にめざす温泉は伊豆の長岡に近い畑毛温泉である。泉質表示によると38・5度というからぼくにはいい湯加減だ。ぬる湯は湯につかりながら一杯飲めるし、最高だろうな、と夢もふくらむ。

 そろそろ錦秋の東日本になるが、紅葉の秋には若芽が萌えたつ季節ほどの関心はない。ぼくは旬が遠い過去となった落葉の季節に片足を突っ込んでから、その傾向が強くなってきた。若葉青葉のなかで露天風呂につかっていると、なんだか自分にもまだ未来が洋々と広がっているような錯覚に陥る。紅葉のなかの露天風呂は茶褐色の朽ち果てた枯葉がはらはらと舞って、枯葉が老境の自分と重なる。思えばよく生きてきたもんだ、と切ない。

 ほとんど趣味のないぼくは、旅以外の楽しみは少ない。女子は趣味ではなく、ただ好きなだけだ。かなりえり好みが激しいので、嫌いな女子も数多い。読書も傾向が変わってきた。吉村昭、藤沢周平はずっと変わらない。山形・鶴岡へ藤沢周平記念館を見に行くのも楽しみだ。鶴岡近辺にぬる湯温泉はないだろうか。

 

 




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