ペン森通信
下り坂を上手に下れば幸福
 きのうNHKは民主党の党首選びの模様を昼のニュース飛ばして最後までずっと中継していた。2位野田佳彦と1位海江田万里との一騎打ちとなった決選投票の開票途中、野田逆転の結果が発表される寸前、臨時ニュースで野田の当選を伝えた。壇上で数える票を望遠鏡で覗いて独自に確認していたにちがいない。数秒後には同じ画面で万人を前に結果が出るのだから、1秒を争っても意味のないばかばかしい自己満足の速報主義。

 とんでもない恥をかいたのは、きのう発売の週刊現代だった。野田は「早々に脱落した」と決めつけ、「政治生命をなくした野田佳彦」と見出しを立てて、記事を書いている。「今回の民主党代表選で、もっとも哀愁をさそったのは、野田佳彦財務大臣だった」。不人気は見るも無残で、支持はまったく広がらず、勝手に自滅した、と罵詈雑言を浴びせている。ひどい恣意的な人格攻撃。新聞はこんな記事は書かない。週刊誌は信用できないやね。

 代表候補者で恥をかいたのは海江田万里だった。小沢一郎が後ろで糸を引いているのがあまりにも見え見え。三党合意の見直しなんて、小沢の意を汲んでの発言だったろう。ぼくは海江田とはかれの独身当時から知り合いだが、かれは優しい男である。優しいから小沢の言いなりになるおそれがあった。そうなると参議院で野党は対決姿勢を強めて国会はまた暗礁に乗り上げ、法案は1本も成立しないで、海江田の号泣が見られたにちがいない。

 海江田が小沢の言いなりとすれば、野田は財務省の言いなり、という説がもっぱらだ。とすれば、野田政治は財務省主導ということになる。以前、経済部の大蔵担当記者から聞いた話だが「あいつら(大蔵官僚)は増税のことしか考えてない」。所得税、法人税、消費税と税金にはいろいろあるが、ぼくらに直接ひびくのは所得税と消費税だ。消費税はものを買わなきゃ払わずにすむが、ぼくは酒税も人一倍払っている。所得税増税はいやだね。

 野田は分厚い中間層の存在が日本の活力源だった、と力説する。ぼくは年収300万円すれすれの年金生活者で結婚式招待の多いご祝儀貧乏だが、自覚は中間層である。消費は酒と旅と本が大半だ。実体は貧乏でもその意識に乏しいのは、ペン森で若い男女に囲まれ好き勝手にストレス無縁な充実生活をしている、ローンの支払いが終わった一戸建てをもっている、自宅にいるときは10畳間の書斎ですごす時間が多い…。女子と旅もする。満足。

 マイホームもストックに入るかもしれないが、年寄りだから衣服、靴、家具はもはや買う必要はないし、電気製品も当面そろっている。必要なものがあるという暮らし向きはすなわち中間層だが、全体の経済活動には貢献しない。消極的中間層だ。野田は中間層をふくらませて日本に活力を取り戻したい、という政策を打ち出したいらしい。ぼくは消費の活発な積極的中間層よりも、消費に熱心でない消極的中間層が近年多くなったと思う。

 経済成長よもう一度、と語る向きがまだ少なくない。だが日本は上り坂を上り切って、いま下り坂を下っている。夢よもう一度なんて願っても、老人には青年時代は戻らない。贅沢でも貧窮でもないほどほどの中間生活ができればそれでいい。精神的に豊かな新たな中間層が生まれてくれば、日本は上手に下り坂を下っているといえるだろう。つじ立ち野田総理の祖父母は貧しかったというが、日本は高みを望まなくても十分豊かになった。
 


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記憶づくりの旅
 なんということだ、孫娘と仙台・石巻の被災地を行くふたり旅は猛反発をくらって、行き先変更やむなしとなった。松本→飛騨高山→金沢に変えた。いずれもぼくにとっては数回行っているなじみの観光地である。高山はほぼ2年おきに訪れていて、車を利用しないのは今回がはじめてだ。マイカーを活用していたころは、1日で金沢往復や富山の魚津往復をしたこともあった。高山は松本から上高地のわきを通り、平湯温泉を抜けて行くのが常。

 松本は若い記者時代、新宿から夜汽車に乗って早朝に着いたことが何回かあった。新宿で飲んで飲み足りないとき、夜汽車に酒を持ち込んで飲みつづけていたのである。乗客には山登りの男たちが多かったように思う。松本に着いたら、朝の早い駅の食堂で朝食をとり、外に出て街を散歩して、地元グループのラジオ体操にまざって、体にしみついた酒の匂いを消そうと努めた。そして上り電車に乗って、昼すぎには何食わぬ顔で仕事に就いた。

 まことにいい加減な昭和を経験したから、ぼくはいまでもいい加減だ。いい加減な陽気な男は平成のいまはほとんど見かけなくなった。時代とともに世相も変わり、人も変わって、ぼくは歳もとってゆく。そもそも、被災地ふたり旅ができなくなったのはぼくが老人になり、いざという場面でぼくが孫娘を護れない恐れがある、と家族が考えているからだ。たしかに1日で金沢往復は疲れてしまい、もう不可能だろう。居眠り運転がこわい。

 で、月曜22日に出発して24日に帰着予定。松本でイタリアンを食べ、高山でラーメンと牛肉を食し、金沢で典雅な加賀料理を堪能するつもりだ。飲む、食う。楽しみはこれしかない。高山ラーメンは細麺しょうゆ味、昔のチャルメララーメンに似ているが、ぼくはあまりうまいとは思わなかった。それでもうどんそばよりもいいだろう。うまいと思わなかったのは、細麺は好きだが出汁の記憶がなく、頭に付着してないからだ。

 まあ老人のぼくはともかく、ぼくより50年も60年も長く生きる可能性のある孫娘の忘れ得ぬ旅の思い出になればいい。ぼくの経験では、だれと行ってなにを食べたかが旅の記憶を形成する大きな要素である。ひとり旅のローカル線乗り継ぎは、その点まったく味気ない。わびしいだけのホームの立ち食いそばの比較をしても詮ない。さて、ぼくはあす20日から28日まで休む。この休みは孫娘の思い出づくりの旅のために有効に使いたい。

 


 

高3の孫娘とふたり旅
 今週は金曜日まで、秋採用挑戦組に対する直前特訓である。毎日、14:00から70分に1本ずつ17:30まで3本の論作文を書いてもらう。この特訓が終わると20日が読売とNHKの筆記、28日が共同と朝日の筆記だ。共同と朝日まではちょっと間が空くので、2週間連続で共同・朝日の前々日まで実施しようかと思ったが、すると去年のようにぼくの夏休みがなくなる。実施しなくても学生の高揚感や意欲は持続していると信じたい。

 論作文はいまさら新ネタで本番に臨むのも不安だから、持ちネタをいかに流用できるかが勝負の分かれ目となることが多い。もちろん、その場で見事に操る機敏にして器用なひともいないわけではない。その場で即時対応のタイプがいい記者になる傾向が強いが、それはたぶん対応力という天分があるからだろう。昔はみんな、本番に新ネタを書く、というのが普通だった。ぼくも用意はしなかった。作文の練習をするという準備はしたけど。

 この直前講習が終わると、ぼくは念願の夏休みに入る。いっしょにどこか行きたいと熱望している高3女子が待っている。年に1回ふたり旅をする孫娘である。祖父と旅をする高3女子の組み合わせは、たいてい耳にしたことがない、とペン森ではひやかされている。あまりない珍しいケースなのだろうが、ぼくは娘が大学生のころからふたりで旅をしていたし、違和感はない。娘によると、友人たちは父親との旅に驚いていたそうだ。

 で、どこへ行くか、である。北陸・山陰、しまなみ海道から四国へ、長野信濃大町からアルペンルートで富山へ、岐阜高山、信州の温泉、北海道の道東、東北被災地といろいろプランがうかんだ。今回はレンタカーを活用しないという方針をまず決めた。車は小回りがきいて時間の節約にもなるが、いかんせん目的地以外には目が行き届かず、素通りすることが多い。運転していると、とくに路傍の大事なものを見過ごしてしまいがちである。

 そこで今回は列車の旅に徹しようと考えた。孫娘は年ごろなので、荷物がかさむ。リュックは嫌いで背負わず、いつもキャリーバッグを引いている。せわしないローカル列車乗り継ぎは、階段を上り下りすることも重なるので、非力なぼくがキャリーバッグを抱えるハメに陥り、よたよたすることもあった。ましてや、節電の夏につき、駅構内のエスカレーターは動いていない場合が多いから余計に大変である。

 だから今回にかぎって、新幹線や在来特急などの優等列車も利用するつもり。数あるプランのなかから残ったのが東北であった。ぼくはリアス式海岸にいつか行こうとずっと楽しみにしていた。先延ばしにしているうちに大震災に襲われた。列車も線路も駅もひどい状態になったが、仙台からJR仙石線で石巻まで行けるし、バスも通っている。南リアス式海岸には足を入れることが可能と思う。松島で遊覧船に乗ると、時間の余裕がなくなるが。

孫娘は写真サークルに入っている。当然写真をとる。ぼくは撮影場所と被写体を指示することになるが、孫娘がどのような写真を撮りたいのかは知らない。去年、広島と京都をめぐったときは、社会性のあるものには大して興味を示していなかった気がする。ぼくは社会性に偏っているので、南リアス式海岸で長いあいだ経験したデスク気分をとりもどしてやたら注文を出すかもしれない。それがすぎると、ぼくはただ小うるさいじじいにすぎない。

 

初体験の話を聞いて
 週刊ポストの夏季合併号は袋とじどころか、ページとページを切れ目なく閉じて袋にし、その密閉された袋の中に浮世絵の春画小冊子を入れている。いつもは買わない週刊ポストだが、春画にひかれてぼくはつい買ってしまった。週刊ポストに配属された15期生女子に「買ったよ」と言ったらすぐ意味が通じたらしくニヤリと笑った。ライバルの週刊現代が原発とエロで好調なものだから、ポストもエロに手を出したのだろう。

 この手のエロには「江戸の芸術」とか、もっともらしい建前で装飾するのが普通だが、エロはエロである。近ごろの週刊誌はずいぶんあけすけになったものだ、と感心する。週刊誌があけすけになったのではなく、世間一般がこの種のセックスものに寛容になってきたのかもしれない。そういえば、AVが5、6本余ったので、とペン森に持ち込んだ10期女子もいた。父親にもあげたら喜んで観賞している、とあっけらかんとしたものだった。

 ストリップショーの始まりとされる「額縁ショ―」が登場したのは戦後まもない1947年。額縁の中に上半身裸の美女がただ立っているだけのショ―だった。動けば風俗法にひっかかるので、美女は身動きひとつしなかったのである。あれからヘア解禁となり、浮世絵の春画集も堂々と書店に並び、女子が平気で下ネタを口にする時代となった。「きのうアオカンしました」と報告してきた15期女子もいた。アオカンとは屋外セックスだ。

 日本の女子は羞恥心のかたまりだとぼくは思ってきたが、どうやらそれは勝手な思い込みだったらしい。処女喪失の最近の体験を「聞いてください」と迫って話した女子が2人いた。「そんなことまで話すの変よ」とあきれていた女子もいたから、やはり節度をもった女子は、希少価値という気もする。それにしても、最近まで処女だったという肉体成熟の奥手ぶりはちぐはぐである。ペン森は童貞処女率が意外に高いからおもしろい。

 もしかしたら、現代の学生はまじめな奥手派と開放的な早熟組の2極に分かれているのだろうか。ペン森はそうだ。ぼくは男だから、童貞が性のことばかり考えて悶々と悶え、オナニーしていることだけは想像がつく。処女に性の悩みがあるかどうか、これは皆目わからない。週刊ポストで思い出したが、70超の老人に童貞喪失と処女喪失の体験談を2号にわたって特集していた。童貞にしろ処女にしろ、初体験は人生の大ドラマである。

 ところが70超のぼくは、初体験の大ドラマをまったく憶えていない。若い当時はいまほど性に興味をもっていなかったのだろうか。そんなことはないはずだが、記憶の底をほじってもなにも出てこない。最近、機能を失ってから関心が高まってきたのは、消えゆくものへの哀惜の情があるからかもしれない。森繁久弥は黒柳徹子に会うたびに「1回どう?」ときいていたらしい。ぼくこのセリフを使ってみたかったが、使わないまま終わった。

 まさかぼくは教え子のペン森女子にはそんなセリフは吐けない。魅力あふれる女子がいないわけではないが、さすがに言わない。倫理的な問題ではなく、軽く「いいですよ」と返してくる女子がいたら、卒業した身としてはギブアップだ。とまあ、年寄りは夢想を楽しむわけ。夢想も妄想もなんら実質を伴わないというか、肉体に実質的な実力がないのが切ないのお。

城山三郎を真似よう
ひとに本を勧めるのは、きらいではない。今日8日の毎日夕刊特集「この夏に会いたい」で城山三郎を取り上げていた。城山本は初期のまだ愛知学芸大学助教授だったころ直木賞を受賞した『総会屋錦城』をはじめ、足尾鉱山事件の田中正造の伝記『辛酸』、定年を迎えたサラリーマンの空虚な生活を描いた『毎日が日曜日』などに若いぼくは夢中になったものだ。晩年のエッセーもふくめて城山作品には教わるところが多い。

 もし、『辛酸』を読んでなかったら、10、11生数人とともに足尾鉱山の赤茶けた山で植林活動に参加することもなかったろう。それをきっかけにべつの10、11期生と旧谷中村の跡を訪ねる気にもならなかっただろう。旧谷中村の役場があった場所は渡良瀬川遊水池の広場になっていて、当時をしのばせるものはまずない。田中正造の生家がすぐ近くの道際にあるが、いまや旧谷中村が強制廃村になったことも田中正造も忘れられた。

 公害の原点ともいうべき足尾鉱毒事件を知っている若者はほとんどいない現状だから、ぼくが旧谷中村に作文のネタ場として案内したところでなにかがひらめいた受講生も皆無であった。藤岡町の歴史民俗資料館に行き、わざわざ非番の学芸員を呼び寄せてもらったことがあったが、この学芸員が田中正造にあまり好意的でなく、「田中は栃木の県会議長をやっていたとき、鉱毒批判のそぶりもみせなかった」とけなし、興がそがれた。

 衆議院議員をしていた田中正造は村に住み込み抵抗運動をはじめる。渡良瀬川上流の鉱毒流出によって稲作が重大な被害を受け、村民の運動も苛烈さを増す。田中正造は明治天皇に直訴するが、旧谷中村は強制破壊される。1944(明治44)年、旧谷中村民は北海道常呂郡サロマベツ原野へ移住する。サロマベツに子孫を訪ねて行った受講生はいなかったが、ESの本欄に荒畑寒村の『谷中村滅亡史』を書いた者がいたのはうれしかった。

 荒畑寒村は20歳にして名著『谷中村滅亡史』を著すが、その20歳の著作というところに現代の若者はどのような反応を示すのだろうか。若者どころか、ESに記入してもメディアの面接官は素通りしたという。教養低下が情けない。城山三郎は現代男子への風刺だろうが、私欲のない男っぷりのいい男性を好んで書くが、『鼠』では戦前の財閥、鈴木商店の風采のあがらぬネズミのように走り回る番頭、金子直吉の生涯を描く。

神戸の鈴木商店は大正時代のコメ騒動の際、焼き打ちに遭う。焼き打ちは大阪朝日新聞が執拗に攻撃した報道によって生じた風評被害だったということと、大番頭金子直吉の物語とが『鼠』の骨格をなす。こうして天下の悪役に仕立てられた鈴木商店は朝日のえじきとされ、結果として社会から葬り去られてしまう。つまりは悪役に仕立てたのも新聞なら、刈り取ったのも新聞だった。公器のマッチポンプ体質は当時からあったのだ。

『鼠』は城山三郎が新聞記者的な手法、足で書いたドキュメンタリーノベルである。ひとつずつ疑問の薄皮を剥ぐように調べて歩く。ぼくが受講生をネタ仕込みの旅に連れていくのも、現場へ行って自分の目でみて、耳できいて、肌で空気を感じて、考えるというドキュメンタリーの鉄則を知ってもらうためである。この考える=思考するという内面的な耕作作業が作文の個性と独自性をもたらす。城山ドキュメンタリーを読んで真似しようぜ。


22世紀はないかもしれない
土曜日と日曜日、ぼくは近くのスーパー「西友」や一駅向こうの多摩センターに足を伸ばして「イトーヨーカドー」や「三越」で買い出しをする。肉が必ずリストに入っているが、牛肉の産地が最近、気になりだした。つい数週間まえまでアメリカ産やオーストラリア産は除けていたが、このところ国内産のほうにチェックの目が働く。原発による放射能汚染牛かもしれない、という不安をぬぐいされないからである。

 もちろん、汚染牛が販売されているおそれはないだろうが、この国はチェックが厳しいようでどこか抜けている。心配は払拭できない。「なにを信じていいかわからない」という声をよく聞くが、それはそうだろう。「大人が食べても影響はない」という専門家もいれば、「口に入れてはいけない」という専門家もいる。仮にがんが発生するとしても30年も40年も先だ。発言に責任をもて、と迫っても専門家は痛くもかゆくもない。

 懸念は牛肉だけではない。秋の収穫も心配だ。米にはすでに影響が現れている。7月の末にコメどころの新潟、福島を襲った集中豪雨によって余計に打撃をうけた。週刊新潮(夏季特大号)によると、2010年産米の業者間取引価格が上昇している。「今年の新米に放射能の影響が出たら、去年の米は貴重品になる。少々高くても買っておこうということで、取引価格が高くなっている」と業界の談話を紹介している。

 去年の米が高値で取引されている一方、米穀店主によれば今年の米もすでに高値で取引がはじまっている。「沖縄産ひとめぼれが1俵1万6700円、宮崎産コシヒカリが1俵1万7500円だった。去年とくらべて、沖縄米は2000円、宮崎米は5000円も高くなっている」。農水省は「取引価格が上がっているのは一部業者の話」と打ち消しているが、おそらくそれは風評被害が主食にまで広がるのを気にしての発言にちがいない。

 ぼくは昔、有機農業市町村連絡協議会の役職についていた。その関係で現在も、有機米の茨城コシヒカリを農家から直接送ってもらっている。秋に茨城米が出荷禁止にでもなったらおおごとだ。東北の被災地はくだものの産地でもある。ぼくは東北在住のペン森卒業生に招待されて福島で楽しく遊んだ。GWの時期だったので、観光農園はイチゴ狩りのシーズンだった。観光農園は放射能汚染がないように祈っているだろう。


秋はブドウやリンゴやナシ狩りの季節だ。被災3県だけでなく、放射能の拡散に気をもむ農園主の心境は思うだに気の毒だ。くだものの他に福島にはキノコ狩りもある。キノコや落花生、サツマイモの収穫時期でもある。子どもたちは嬉々として手を泥だらけにしながらサツマイモをとる。屋外での活動量が減った子どもたちの将来の健康への影響も不安である。福島原発の被害をこうむった恐れのある母親はいたたまれないだろう。
 
この子どもたちの何代も何代も先になっても、プルトニウム239は半減期を迎えない。半減するのに2万4000年かかる。東電が福島第一原発の敷地内で発見したウラン238は半減期45億年。地球の誕生とほぼ同じ期間である。プルトニウムもウランも日本がエネルギー政策の柱にしている核燃料サイクルで使われる。なんと恐ろしいものに手を染めたのだろうか。22世紀はないのでは、というペン森生がいるが、そうかもしれない。
 

 

若者が熱病にかかっていたころ
今後、日本に大きなデモは起こるか、というテーマで卒論を書いている受講生がいて、昨夜はデモ話題ですこし盛り上がった。起こらない、というのがぼくの意見。デモを誘発する貧困がない、若者が怒らなくなった、興味関心が拡散する社会、無思想などがその理由である。他の受講生にも起こる、と予言する者はいなかった。原発問題が引き金になるかなと内心、ぼくは期待しているが、怒りは矮小化されて日本中が燃えたぎらない。

 日本中が怒ったのが1960年の第一次安保闘争であった。チュニジア、エジプト、リビアの反政府デモの蜂起をみて、「岸を!倒せ!」のシュピレフコールが耳によみがえった年配者はかなりいただろう。ぼくがそうだった。昭和には熱すぎるくらい熱い季節があった。エネルギー革命が引き起こした60年の総資本対総労働の激突、日大や明大や東大や中大の全共闘学生が学費値上げや旧来の管理体制に反発して沸騰した70年闘争の日々。

 60年安保では6月15日、明大、東大、中大の全学連部隊が国会に突入をはかる。明大と中大の学生が門の破壊と構内の警察輸送車を引き出す隙に、東大生が構内になだれ込む。東大生はずるかったが、元気があった。火がつけられた輸送車のなかには、投石をうけ、罵声をあびている機動隊員の食料や財布が入っていた。憤怒が青い焔となっていた機動隊は警棒を振りかざし学生に襲いかかる。国会構内で東大生、樺美智子が死んだ。

 【『女子学生の死』は、日本国中に大きな衝撃を与えました。この事件に、多くの国民は、『国の将来を憂えた女子学生が自己を犠牲にした』という悲劇を見たのです。翌日、全国の大学で授業が放棄され、抗議集会が開かれました。いても立ってもいられなくなった学生たちが、全国から夜汽車を乗り継いで東京に向かいました」】(池上彰の『そうだったのか!日本現代史/集英社文庫』)。夜汽車を乗り継いできた若者の怒声は、いまや昔だ。

 樺美智子が亡くなった60年6月15日は雨だった。デモの隊列を組んでいるあいだ、雨に打たれると興奮が増し高揚した。あの闘争の本質はA級戦犯なのに総理大臣に上りつめた岸が、日本をアメリカのポチにした岸嫌悪だった。機動隊が興奮したのは雨のせいではなく、学生への憎しみだったと思う。当時大学進学率は10%に満たない。高卒VS大学生という怨嗟の構図もあったのである。60年安保は憎悪をはらんだ平和闘争だった。

 70年闘争になると機動隊の装備も整えられ、楯で防護するようになる。機動隊は最前線の学生の足の甲に楯をぶつけた。警備側にいた佐々淳行は、東工大の管直人はいつも被害を受けない4列目にいたから、4列目の男と皮肉る。69年の東大安田講堂攻防戦で逮捕された学生は633人だが、東大生は少なく、明大、中大、日大、法大と他大学生が大半を占めた。安田講堂はこのあと、全国に飛び火して165大学が紛争の舞台となった。

 70年には赤軍派による「よど号」ハイジャック事件もあった。連合赤軍による「あさま山荘事件」は72年だった。すでに警察は三派全学連などの反日共系全学連を「過激派」と命名していた。「警察権力があまりに抑え込もうとすると学生は暴力化しますよ」と警察庁担当のぼくは警備局長に言った。しかし、連合赤軍は暴力も暴力、リンチ殺人だった。内ゲバ死者100人。70年の後半は凄惨な血の抗争に流れた。学生は大やけどして、いまになるも立ちあがれない。
 



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