ペン森通信
インターネット暴動時代
 ペン森卒業生が某紙のカイロ特派員として、昨年秋に赴任した。同じくペン森生だった細君も幼子をつれて、暮れにあとを追った。はじめは、エジプトはあまりにも遠く、カイロ市内は空気が汚い、と渋っているような気配だったが、政情も安定して治安がいいということと、日本人社会の結束がすばらしく安心できる、ということで夫に従った。ところがエジプト全土で怒りの反政府デモが沸騰しはじめ、とんでもない事態となった。デモが激しくなればなるほど、夫は忙しくなり、妻は身をすくめて待つ以外にない。
 
 エジプトの反政府デモは、インターネットでその代表的な花の名をとって「ジャスミン革命」と命名されたチュニジアから飛び火した。チュニジアもエジプトもぼくに言わせれば「ネット暴動」である。いまや大衆を動かすのは既存メディアの新聞でも、テレビでもなく、インターネットだ。古典的なマスコミ理論に「マスコミの二段の流れ」というのがある。送り手からの情報を一段目のオピニオンリーダーがいったん受け止め、オピニオンリーダーを介して、下段の二段目にひかえる大衆に伝わる、というものだ。

 情報の意味を咀嚼して大衆を引っ張るオピニオンリーダーには大学教授、テレビの解説者、新聞の論説委員、インテリあるいは父親なども含まれるだろう。だが、彼らには昔日の権威はない。大して尊敬もされない。もはや新聞も権威ではなくなった。新聞は大衆の手の届かない上空で気取っているようなところがある。テレビは情報というより巨大な娯楽装置に堕ちた。二段の流れの一段目を中抜きして、送り手から世界の大衆に直結するのがネットである。権力者も編集の手が加わらないこのネットを利用しはじめた。

 インターネットの情報発信もぼくのこのブログのような旧式の「ブログ」、簡便な「ツイッタ―」、交流サイト「フェースブック」と多様化して進化している。今回はチュニジアもエジプトも「ツイッタ―」が活用されたらしいが、インターネットは点や線ではなく面に情報が降り注ぐ。その分、乾燥期の野火のようにあっという間に広がっていく。エジプトでは26日「ツイッタ―」が当局によって遮断されたらしい。「フェースブック」も接続が難しくなっているという。反政府デモはイエメンにも連鎖した。

 エジプト、チュニジア、イエメンのいずれも長期独裁政権がつづいてきた国である。ぼくはここ数年海外旅行にまったく関心がなく、世界遺産の国チュニジアにもピラミッドのエジプトにも行ったことはない。エジプトはアメリカの言いなりの国だから、中東政策に悩むアメリカは困惑しているだろう。もっと他人事じゃないと見守っているのは共産党一党支配の中国と北朝鮮かもしれない。両国とも言論統制が厳しく、都合の悪い外部情報の流入を規制しているが、いずれネットが大衆に忍びこんで民主化運動に火がつくだろう。

 インターネットは留まるところを知らず浸透してゆく。急速度で進展してゆくネット社会にぼくはどうもなじめない。PCを自在に操れないどころか、ケータイも通話のみの利用しかできない旧世代だからだ。悪口を言いながら、思考の日用品、新聞から離れられない。これから既存メディアはどうあるべきかをマジで考えてしまう。既存メディアの編集・校正機能、取材力、慎重な報道姿勢、解説機能、弱者支援などにネットは及ばないのではないか。新聞でがんばるカイロ特派員、ネットに負けるな、正確な報道を頼む。





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「もういいかーい」の声が聞こえる
  ちいさな川の両岸が遊歩道になっていて、左に歩くと45分で①多摩センター、右に歩くと40分で②聖蹟桜ヶ丘。もうひとつ、うちから緩い坂道をのぼって、途中の市立競技場を抜けて、さらに小高い丘を越えていくと50分で③若葉台。この3コースがぼくの休日の散歩道である。午前は近くのスーパーで必要な食材や洗剤などの日用品を買ってくる。散歩の出発は午後3時半ごろ。3時半というのは干したふとんを取り入れたあとである。散歩から帰ると少し休んで風呂に入る。といっても冬でもシャワーを浴びるだけだが。

 行き先はそのときの体調や気分による。最近は①の多摩センターか、③の若葉台が多い。多摩センターは三越の地下食品売り場と大規模100円ショップを覗くのがた楽しみ。子どもたちが遊ぶ広場を通りかかるのも嬉しい。この間は「もういいか―い」という声が聞こえてきた。屋外で遊ぶ子どもたちの、かくれんぼの声を耳にするのはなん十年ぶりだろうか。少子高齢化どころか、無子高齢化とさえいわれる昨今、外で子どもを見かける機会は本当にすくなくなった。昔は子どもがうようよいたのに、と時代の退化をつくづく思う。

 23日の日曜日、散歩を取りやめ会合に出席して、造園家・涌井史郎の講演を聴いた。演題は「環境革命の時代に!命と暮らしを育む森からのメッセージ」。涌井はTBSの『サンデーモーニング』に出演しているので、ご存じのかたも多いだろう。産業革命から約300年、いまは環境革命の時代となった、という内容。日本の山林地は国土の67%だが、この資産価値はおよそ75兆円もある。だが日本人はこの恩恵を活用していない。里山というそれ自体が循環する山里も廃れ、日本の山は朽ちてゆくばかり、という話。

 講演の内容にヒントをえて、限界集落は里山そのものだから、自然資源になりうるのではないかと考えた。そこに子どもたちの学校をつくる。長期休暇だけでもいい、少年少女たちが限界集落という自然の中で生活して、人間も自然の一部であることを実感してもらう。ぼくは国有林の中で生まれ、父親は林業を営んでいた。山村の野山や清流が遊び場だったから、余計に自然回帰が強いのかもしれない。いまはすっかり、都会の至便さに慣れ親しんで虫も嫌いになったが、元をただせば、山猿みたいな少年だったのである。

 東京に長く住んできたぼくは、いつの間にか野性が消えてひ弱な大人になったものだ。ぼくたちの世代は兄弟の数が5人、6人というのは珍しくない。ぼくも6人だし、妻も6人である。親世代は子づくり子育てに懸命だったのだ。ところがいまはどうだ。厚労省研究班による16歳~49歳の男女3000人の調査によると、セックスに「関心がない・嫌悪している」女子は48%、10代女子に限ると59%に達する。10代男子も36%が「関心がない・嫌悪している」。これじゃ将来ほんとに無子社会になってしまうぞ。

 男子たるもの、若いときはもうそのことで頭は満杯になっていたものだが、どんどん草食化してゆく。野性を取り戻し、エネルギーに満ちた本能を呼び起こさねばねばならない。そのための舞台として全国に7887か所もある限界集落を再利用する手だてを考えればいい。すると、限界集落も社会の再生産の資源になる。集落のあちこちから「もういいか―い」「まぁだだよ」という透き通った子どもたちの声がひびき、ひっそりと暮らしていた高齢者が、笑顔で戸を開けて聞き入るような日本にできないものか。

 

 

 




朝日「教科書」、読売「事典」、毎日「物語」
 池上彰がテレビ出演から身を引くという。取材、執筆のために充電するらしい。NHK出身のこの元社会部記者が昨年、大もてだったのは、大衆が学ぶことに餓えていたことの証明だが、裏からみれば教養とか時事問題とか実社会の基礎学習から大衆が遠のいていた、ということだろう。テレビに登場してきた池上という視聴率男が接着剤の役割を担い、大衆を学びの場に改めて呼び戻した。本来、池上の役割は新聞が担ってきたものだが、記者出身のぼくですら新聞はむずかしい。新聞がむずかしいから池上現象が生まれたのだ。

 新聞をむずかしいと感じるのは読者の側の「学と知」のレベルが低下しているという事情もあるだろう。たとえばわがペン森の学生に「論作文のネタ場として新潟県の出雲崎もある。出雲崎は黒人歌手ジェロのデビュー演歌『海雪』の舞台だが、良寛の生地でもある。良寛記念館もあるよ」と話したら、学生が言った。「良寛ってだれですか」「えっ、良寛さんを知らないの?」「聞いたことがありません」。たまたまそこにいただれも良寛を知らなかった。このような教養程度では新聞はむずかしいだけでなくおもしろくもないだろう。

 全国紙のなかでむずかしくておもしろくないのは、朝日だ。朝日の読者は「学と知」の偏差値が最も高い、と思う。インテリ新聞である。なんとなく「教科書」みたいな印象がある。小説も教科書に掲載されると、とたんに退屈なものになるが、朝日はそのような性質をもっている。だが、そのブランド力によって、日本を代表する報道・言論紙の地位は揺るがないだろう。読売は情報量が多く、庶民的だ。紙名は江戸時代のかわら版を読んで売ったことからきているが、いってみれば「事典」である。ぼくの古巣、毎日は「物語」だね。

 ぼくは冷静ぶった新聞よりも遠慮のない週刊誌のほうが血沸き肉躍る。たとえばぼくは、与謝野馨大臣はもっと批判されてしかるべきと考えているが、政党政治の根幹に触れるこの自民党出の大臣に新聞は批判の刃を向けない。与謝野大臣は自民党から東京1区で立候補して長年のライバル民主党、海江田万里に敗れて落選し、比例で復活した。比例ということは自民党の議席をもらったということだ。しかも、民主党鳩山前代表を「平成の脱税王」とまでけなし、政権批判の急先鋒だったのに、民主党内閣の増税路線の要員としておさまった。なんという定見のない老人だろうか。こういう政治家を信用できるかい。
 
 池上彰は、オールラウンドの言葉づかいも人柄も優しい解説者であって、週刊新潮のような毒針は潜ませていないように見える。皮肉屋かもしれないが、いやみはまったくない。安心して見ていられる。やはり人格円満な稀有な記者といっていいだろう。ハラハラドキドキするところがない分、ぼくは物足りないけど。NHKのしっぽを引きずっているから、政治家の個人攻撃もしない。与謝野の政治姿勢について「これじゃ、選挙は意味ないと思いませんか」「いい質問ですねえ」。池上に与謝野馨の入閣を語らせてみたい。
 
 日本の新聞は大正時代、朝日が政府の圧力に負けて以来、不偏不党を標榜するが、微妙な色分けはできている。大胆に個別の主張や政党に対する明確な支持を表明してもいいのじゃないか。すると案外、平易な表現でおもしろくなって池上につけいる隙を与えなかったかもしれない。それがネット社会における新聞のあり方ともいえる。
 

 

 

 


コメを買うコメづくり農家
 もう何人にも話していることだが、タイトルでいえば『無人駅に人がいたころ』というルポを書く人はいないだろうか。人が乗り降りしたから駅はできた。合理化の波と少子高齢化や核家族化による地域や家族の分解と車社会の出現が同時に複合進行して、列車は1両か2両のワンマンとなり、駅は無人となった。ぼくが小学生のころ混雑して窓から出入りし、荷物専用の網棚に人が寝ていた九州の日豊本線も無人駅がふえたことだろう。

 中学時代、鹿児島市内に転居したが、鹿児島から大学のある東京まで始発特急の席とりに家族は徹夜して並んだものだった。航路が発達してなかった時代である。ぼくは、席とりは一回で懲りて鈍行乗り継ぎをはじめた。人生は各駅乗り継ぎというより、故郷を捨て急行でここまできて逃げ切り態勢にはいっている感じがする。生き方にどこか後ろめたさが付きまとって離れないのは、故郷を背にしたせいかもしれない。

 ぼくが物心ついてわずか60余年、かくも日本は分解し変貌した。成長神話も20年前に消滅して、若い世代は不況のなかで成長した。親よりも子の世代が豊かになれるという暗黙の約束や理解や意識はもうとっくになくなった。それは日本だけでなく世界の先進国に共通に見られる現象らしい。フランスの歴史人口学・家族人類学者のエマニエル・トッドは指摘する「西欧の民主主義は停滞し、世界の模範例ではなくなった。アメリカの地位も低下しつつある。中国の成長が世界のモデルになったら・・・」(毎日新聞1月13日)

 ぼくはこっちの方面も弱いのだが、論壇には、資本主義や民主主義や自由貿易の限界説も散見されるようになった、という。しかし、根が狩猟民族の欧米と農耕定着民族とをそのような主義や制度の鋳型にはめるのは土台無理な話である。日本は明治以来、欧米の鋳型に窮屈にも体を合わせようとしてきた。その中で独自の生き残り算段もして、理想的な平等分配の民主社会主義国家となった。農耕民族の知恵が働いていたわけである。

 91年ソ連邦が崩壊した際、ゴルバチョフは「これで社会主義は終わりましたね」と言われた。「いや、まだ日本が残っている」と答えた。日本人の7割8割が中間層意識をもっていた。自民党による平等分配のおかげである。平和で豊かな夢のような時代に、ぼくら高齢世代は壮年期をすごして逃げ切ろうとしている。民主主義は現役横世代の連絡調整には機能するが、未来世代という縦の世代には責任をはたそうとしない欠点がある。

 平等な分配は農耕社会を穏健に保つための仕組みだったと思う。ところが、いまの日本には、同世代間の格差が顕著である。ご存じのように大学生の内定率もきわめて悪化している。階層社会化どころか、あるいはすでに階級社会にまで進んでいる。やはり、信奉してきた制度が限界に近づいているのかもしてない。だから先述のトッドさんは中国の急成長を心配する。日本は、政治は一党独裁で経済は自由競争・資本主義になる恐れはないか。

 『限界集落』(曽根英二/日本経済新聞社)という本がある。著者は山陽放送のアナウンサーから記者に転じた人。3年かけて集落に密着し取材を重ねた。老夫婦が米づくりを断念する。「もう自分らでは作りません。人に作ってもらいます。米? 買いますよ」。コメづくり農家もコメを買わねばならない日本。限界集落は全国7878カ所。うち423カ所が10年以内に消滅する。ここには無人駅と同種の切なさがある。

長いメールを書くとき
 「自称読書家はメールが長い」。角川文庫のしおりに言う。買ったばかりの重松清『哀愁的東京』のページに挟んであった。ぼくは自ら読書家と称したことはないが、本は好きだ。しかし、むずかしい本は避ける。書斎の書架には6000冊くらい蔵書が収まっているが、藤原書店、岩波書店、みすず書房発行のものはごく少ない。硬い内容は読みとおす知力がない。若いころは硬派本も読んだが、脳が硬くなるにつれ、哲学や宗教や思想や古典や歴史ものは吸収しなくなった。吸収したとしてもすぐ中身が消えてしまう。

 書斎の座卓にはだいぶ前に購入した『政権』(日本経済新聞社)がある。これは結構分厚いから、寝床や電車で読むには適してない。書斎は10畳なので椅子机も構えているが、その机の上にはシュテファン・ツヴァイクの未完の評伝大作『バルザック』(早川書房)が数年来、置いたままになっている。大量のページで字がびっしりと重いので、ツヴァイクの『ジョゼフ・フーシェ』に学生時代夢中になった身にしては、『バルザック』はちょっと手をつけただけであきらめた。残念ながら、消化できそうもない。

 バルザックと書いたら中国の文革映画『小さな中国のお針子』を突然、連想した。文化大革命が暴風となって吹き荒れた時代、2人の若者が山村に下放される。2人は同じく下放された先着のインテリが秘密裏に持ち込んでいたバルザックの小説を盗み、こっそり読んで西欧の文化に触れる。1人がその小説を、教育を受けてないかわいいお針子に読んで聞かせる。そのうち、読んで聞かせていた若者とお針子はやはり、デキてしまう。自立心が芽生えたお針子は村を出る。自然風景がこよなくきれいな、シンプルな物語の映画。

 中国映画といえば、ぜひ観たいと思って果たせないでいるのが『血祭りの朝』である。ぼくが好きなコロンビアのノーベル賞作家、ガルシア・マルケス『予告された殺人の記録』を映画化したものだ。新聞記者マルケスの精緻な、おどろおどろしい饒舌表現がたまらない。カポーティーの『冷血』よりも傑作だと思う。結婚初夜、新婦が処女でなかったため新郎は新婦の相手を探り出して殺害を企む。村人の全員がそのことを知るが殺される予定の本人だけが知らない。この因習物語の中国映画DVDはどこにあるのだろうか。

 ぼくは中国映画DVDをけっこう楽しんでいる。『山の郵便配達』『あの子を探して』『活きる』『紅いコーリャン』『初恋の来た道』『長江哀歌』。みんなすばらしい。女子大で授業をもっていたころ、ビデオをよく教材に使ったが、『あの子を探して』『活きる』『紅いコーリャン』の国際映画祭受賞チャン・イーモウ監督作品は家族にも勧めた。イーモウ監督は北京五輪開会式の総指揮をとった巨匠。中国の黒沢明である。圧倒的な映像美のイーモウ映画をぜひご覧あれ。どこかおおらかなのは、広大な国土の反映かな。

 メールのことを書く予定だったこのブログだが、頭が中国映画に飛び火してとんでもないことになった。ごめんよ、かんべんよ。ぼくのメールはそっけないくらい短い。ときどき長いメールになる場合があるが、それは特別に長文が必要と感じた相手に限られる。あるいは感情が昂じているときや情熱が昂じる相手に宛てるとき。そして、このブログのように最初、予想もしなかった方向へ突っ走ったとき。

 

 


『私たちの時代』に生きる指針
 なんでもない、どこにでもある高校生部活の風景なのだが、感情が胸からあふれて、のど元にせりあがってくる。そのような感じにさせたのが、フジテレビのドキュメンタリー『私たちの時代』であった。といって、12月30日の正午から2時間半にわたって放映されたその番組を直接、観たわけではない。30日は数年前に死んだ飼い猫を府中・慈恵院の共同墓地に入れているので、その日も墓参りに行っていた。

 16期生に番組の収録を依頼していたところ、先週金曜日、収録ビデオを差し出してくれた。このドキュメンタリーが放映されることは12月10日の毎日夕刊で知った。プロデユーサーはこれまで幾多の賞をとり、フジテレビでその名前を知らないひとはいない、といわれるが、顔を知っている社員は少ない、らしい。今回の取材対象になったのは奥能登にある石川県立門前高校の女子ソフトボール部。インターハイの常連校だ。

 プロデユーサーは現地に3年間定住して、女子ソフトボール部員を観察しつづけた。監督はかつて全日本選手だった門前高校出身の定年近い独身女教師、この監督は22歳で赴任するが、その1期生の部員だった司書の先生がずっとコーチとしてついてきた。監督は自宅を部員に解放し、20人が規律正しい共同生活を送る。物語はいま東京の国立大学生となったマネージャーのナレーションで、装飾を排し淡々とひたむきに進んでいく。

 折しも07年3月25日、部員が金沢に遠征中、予想もしない能登半島地震が起こり部員の大半が被災者となる。番組は被害に遭った親や倒壊した家屋の表情や細部をただスケッチするように映し出す。バック音楽もピアノとバイオリンの単独演奏を主体にシンプルだが、そのシンプルさが映像の人間を際だたせる。道祖神の石像が少子高齢の過疎を象徴したり、選手の祈りを代弁したり、日本海の打ち寄せる波ともども効果的に挿入される。

 仰げば尊しわが師の恩。ぼくの涙腺を刺激する卒業式の歌がながれて、卒業生代表が答辞を読む。「日本中が大きく揺れ動いています。なにを信じ頼りにすればいいのか、生きる指針が定まりません」。この答辞が現在の高校生の、大人や政治に対する叫ぶような告発であった。さらにドキュメンタリー『私たちの時代』のメッセージだった。答辞はつづける。「本当に大切なものはなにか、それは真実とはなにか、向き合い・・・」。

 真実とはなにか、それと向き合うことをしているのだろうか、とわが身に問いかけ、ふと中原中也の「汚れちまった悲しみに」という詩を思い浮かべた。この詩の最後の詩文は「なすところもなく日は暮れる」。あのソフトボールの健やかに強い女子高校生にくらべて、ぼくは汚れちまった思い出だけがよみがえる。こうしてなすところもなく日が暮れる、のだろうか。そうはいかない。72歳にして新たに挑戦する生きる指針を見つけた。

 それはなにか、明かすわけにはいかない。ぼくはペン森生に現場主義と住み込み取材を提唱している。ドキュメンタリー『私たちの時代』はまさに住み込み取材の成果だ。若者よ、なすところもなく日が暮れる、ような人生を送るなよ。生きる指針を定めてくれ。

 

これからのジャーナリストの責務
  財政危機や年金などの将来不安から、「世代間格差」とか「ジェネーレーションギャップ」といった言葉が目立ってくるようになる、と思う。あるいは高齢世代を「逃げ切り世代」と呼ぶようになるはずだ。政治は自民党から民主党に実権が変わって、国民の期待はふくれあがったが、変わるどころか、ますます悪くなった気配があり、期待は急速にしぼんで失望に転じた。暗雲がますます増してきた。4月の統一地方選で民主党は惨敗するにちがいないが、それは国民が民主党に見切りをつけたことになるだろう。

 鳩山、菅とつづいた首相はまれにみる劣悪なリーダーだが、政治記者は口をそろえて鳩山のほうが、理念があってまだましだった、という。民主党に政権を渡したのは国民だから、首相をだれにするか決めるのも間接的には民意の反映だ。文句は自分につばするようなものだ、という理屈はわからないでもないが、しかし理屈抜きにひどい首相だ。菅首相は自分の組閣を「奇兵隊内閣」と称したが、長州奇兵隊を立ち上げた高杉晋作気どりだったのだろう。奇兵隊は下級武士や一般人の混成部隊だったが、討幕に力を発揮する。

 このところ菅首相は奇兵隊という言葉を使わない。支持率は下がるばかりで自らの内閣は幕末の徳川幕府みたいに衰弱しているのに、わが身に歯向かう兵団を標榜することの矛盾に遅まきながら気づいた。で、「有言実行内閣」と言い換えたものの、なにも実行しないのだから、そんな空疎なスローガンはだれも信用しないし、口にもしない。「逃げ切り世代」としては、こんな日本にした責任上、若い者を置き去りにはできない。若い世代はどう転んでも、つぎの時代の主役を張らねばならない宿命なのだ。奮起を願う。

 鈍感な若者も、そろそろわれわれは割に合わない境遇に押し込められている、と勘づき民主党を倒すのでは、とぼくは期待する。その怒りは60年闘争や70年闘争のような集団パワーに転化しないものか。働く世代は社会保障の仕送り世代である。12年後には経済的に、2人で高齢者1人の面倒をみなければならない。この不公平に若者が耐えられるだろうか。若い世代が倒幕を成し遂げた長州や薩摩の志士にならねば日本の再起はない。当面、河村名古屋市長、橋下大阪府知事をリーダーとして担ぐ手もある。

 河村リーダーなら、国会議員や国家公務員の減員と減給にはすぐ手をつけ、経費削減に鋭いメスをいれてくれそうだ。国会議員が文句をつけたらたちまち衆議院解散を解散して衆議院議員を入れ替える。国家公務員削減に関してはみんなの党と連立を組んで、みんなの渡辺代表に思う存分腕をふるってもらう。リーダーは革命行動家・高杉晋作と革命思想家・吉田松陰の立場で第二の木戸、西郷、大久保を育成する。知名リーダーのもとを離れた若者は、明治政府をになった英傑のように自らリーダーとして改革の先頭に立つ。

 橋下リーダーはもちろん、地方が活力を取り戻すべく陣頭指揮をとってもらう。地方が元気になれば日本全体が活況を呈するだろう。そんな大それたことができるだろうか、と思う若者は将来の自分の生活、自分の子の幸福実現の可能性を図るだけでいい。それがまとまれば大きな力になる。不特定多数のばらばらな幸福追求を系統だったひとつの意志にまとめるのが、これからのジャーナリストの責務である。


 

腰コンニャク体験をした
 新年おめでとう。年賀状が300枚くらいきたが、たいていは決まって、「お酒はほどほどに」とか「お酒を飲みすぎないように」とか、ありがたい注意が書いてあった。ぼくはそんなに酒飲みなのだろうかと、自分ではあまり自覚がなく他人から警告されるたびに、いぶかしんでしまうが、飲酒歴55年だから、それなりに歴史を経たベテランではあるだろう。だがね、路上で酔いつぶれたことはないし、記憶を失ったこともあまりない。比較的おとなしめの、いい酒飲みだ。これは自慢していい。

 そりゃあね、何回もおなじ話をくりかえしたり、自慢ばなしに夢中になったり、愚痴をるる述べたり、からんだり、短気になったり、助平になったり、と一般的な酔っ払いの癖はぼくにも備わっている。でもね、もうそこにいるだけで人が寄りつかないということはない。寄りついてきて女子がぼくの手を握るくらい警戒されてないということはあるが。年賀状に「もう少し女子に対して活発になってください」という誘惑アドバイスが女子からあったけど、ぼくにも女子の好みがある、だれでも見境なくというわけにはいかんのだ。

 最近、「先生はベトコンですね」といった学生がいた。「ん?なんだそりゃ」「だって、ベテランのコンニャクなんでしょ!」。なるほど、悔しいが言い得て妙ではある。だけど、事実ではないところがある。ベテランかどうかは自分でもわからないのだ。去年からかもしれないし、5年前かもしれない。活発な実地体験に基づいていないから、事実は不明であって、試してみたら案外、はがねのように強烈強靭かもしれん。そりゃないか。身のほど知らぬ願望か妄想だね、酔ってもないのにさ。

 去年の暮れ、じつは激しいコンニャク体験をした。左ひじと左肩、右かかとの擦過傷、左後頭部の打撲が証拠である。いまはほとんど治っているが、まだ痕跡はある。腰がまったくコンニャク状態になって風呂を出たとたん、倒れて10分間くらい起き上がろうと悪戦苦闘したのである。合宿の最中だった。前の合宿グループが焼酎の「大魔王」の1升ビンを半分以上飲み残していた。これ幸いとそれを焼酎8、水2の割合の水割りにして飲みはじめた。すいすいと喉を通って胃の腑に落ちる感覚がなんともいえない。

 かなりの分量を体に入れて、独立した小屋の風呂へ行った。かけ流しの温泉である。ぼく好みのぬる湯。気持ちよく2,30分は浸かっていたような気がする。アルコールが体内くまなく巡りに巡って、衣服をまとって外へ出た。寒気きびしい真夜中、大きな石の台の上にくず折れた。脇に木の枝が張り出していて、それを支え腕だけで体を持ち上げようとするが、腰から下がコンニャクになって踏んばりがきかず、非力な腕では体ごと持ち上がらない。ようやく支柱の丸太を両手で抱えて自らを助け起こした。

 別棟の専用部屋に引き揚げるさい、階段下でまたまたへなへなと崩れた。焼酎は腰にくるというが、たしかに強く腰にきた。翌日午後、風呂にはいるとやたら体のあちこちがひりひりする。そこで傷ができていることがわかった。酒はほどほどだが、それはぼくの場合、焼酎に限定されるね。

 

 



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