ペン森通信
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日本農業は中国・米に出張ろうぜ
  前々回のこのブログで落ち目の菅首相は延命策としてTPPに参加すべし、と書いた。小沢グループは反対しているが、そんな反対勢力に惑わされることなく、日本再生には参加するのが最も効果的と主張すればいい。これは鎖国状態から開国するようなもので、赤字大国の日本がよみがえるかもしれないチャンスなのだ。それどころか、現世代の未来世代に対する責任でもある。900兆円の財政赤字は、未来世代に課せられる税金をあてにしている。その負担を少しでも軽減してあげるのは当たり前のことだろう。現世代は未来世代に対してあまりにも無責任ではあるまいか。

  TPPは輸入品に対する税金、すなわち関税をなくして自由に貿易しましょう、という国際取り決め。2006年、シンガポール、ニュージーランド、チリ、ブルネイの4カ国ではじまり、アメリカとオーストラリアも参加の意向で、これにペルー、ベトナム、マレーシアも加わって、9カ国で来年11月の合意を目指す。菅内閣は参加の腹づもりだったが、民主党内に農業団体とその票がほしい反対派が「TPPを慎重に考える会」を発足させている。そもそも農水省はTPPに参加したら、食料自給率は40%から13%にまで下落すると脅す始末だ。菅内閣はたちまち煮え切らない態度となった。

  日本はコメ神話の国である。90年代のガットのウルグアイラウンドでコメの輸入を認めたのだが、この関税は778%と高率。共産党もコメは一粒たりとも輸入させないと叫んでいた。高率の関税という高すぎる壁を設ける代わりに、味噌やせんべいの原料や飼料となるミニマムアクセス(MA)米の輸入が義務づけられた。カビ発生が露見して大騒ぎしたあのコメである。ウルグアイラウンドの際、米作農家に保護対策費として投入された税金は6兆100億円。ところがその税金の7割は公共事業などに消えた。農家ではなくむしろ、建設業に金は回ったのである。

かつて自民党の農林族だった経産省の松下忠洋副大臣(国民新党)は先日、朝日新聞の「私の視点」で「農業所得も減ったし自給率も下がった。何のための6兆円だったのか。集落営農の推進や後継者育成策に回すべきだった」と嘆いている。TPPには税金の使途についてウルグアイラウンドの愚を繰りかえしてはならないと強く訴え、安全で高品質な農産物の競争力を高め、市場自由化に打ってでるべきだ」と主張している。民主党は農家への戸別所得保障を打ち出している。これは米価下落を税金で補てんする仕組みだが、ではだれがだれに補助金を支払うのだろうか。うっかりすると中間搾取で消えてしまう。

 税金は農業の次世代育成に使うべき、と旧世代のぼくは思う。農産物が魅力ある輸出産業へ転換すれば、若い世代も就農するだろう。農業はいつまでも補助金に頼っていてはじり貧になるばかりだ。税金の分配を待つのではなく、安全高品質と高い技術という好条件がそろっているのだから、それをひっさげて外国の土地で農産物をつくってみようという意欲があってもいい。税金という戸別所得補償はお断り、分配は不要という強い農業になるには、後継世代が頑張って農産物5000億円の輸出を6兆円くらいにすることだ。日本の輸入農産物に見合う額である。TPPにはアメリカも中国も参加に意欲的。広大な土地に出張って行って日本農業を定着させようじゃないの。TPPはチャンスだ、見逃すな。





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一生ものの奥只見ドライブコース
 最寄り駅のホーム売店で毎週月1冊火2冊木2冊と週刊誌を週合計5誌買う。売店のおばさんとも顔なじみになった。ぼくは朝9時45分の電車に乗るが、ごくたまに遅れる。するとおばさんが「きょうは遅いですね」と声をかけてくる。月曜発売の週刊現代は中高年のSEX特集で部数を伸ばし、ときどき売り切れになるが、おばさんが取り置いてくれる。なぜ週刊誌を買うかというと、週刊誌は新聞よりもおもしろいからである。たとえば東海林さだおの連載漫画は、毎日新聞のアサッテ君よりも週刊文春のタンマ君のほうが楽しい。東海林も新聞という堅苦しい自己規制から解放され自由になるのだろう。

 週刊文春は売上ナンバーワンの週刊誌だから、ぼくは便乗して買うのではない。エロコラム欄「淑女の雑誌から」を読むために毎週手にするわけでもない。「今週のお泊り」というホテル・旅館ガイドが気になるからだ。今週は新潟県・栃尾又温泉「宝巌堂」を「山あいの秘湯の宿で骨休め」と肩見出しをつけて紹介している。栃尾又温泉に足を入れたことはないが、とても懐かしくなり、思わずしばし旅の思い出にひたった。日本で2番目に貯水量の多い人造湖の奥只見湖へ行ったときに、栃尾又温泉の案内看板を目にしたことを思い出したからである。奥只見湖へは都合5回行っている。

 関越道小出インターから3回、福島・桧枝岐(ひのえまた)から2回である。奥只見湖ダムは織田裕二主演の映画『ホワイトアウト』の舞台となったところだが、実際のロケは黒部ダムで行われた。近くの山岳に国の天然記念物イヌワシの生息地があったから、なにかと騒々しいロケ隊にはご遠慮願った。奥只見湖には観光用の遊覧船も周遊しているが、俗っぽい歌謡曲が大音量で流れるわけでもなく静かな遊覧船だ。福島・桧枝岐は尾瀬への福島側の入り口で定番の作文ネタ場だからぼくは、桧枝岐だけならペン森生を連れて5,6回は訪れている。最初に同行したのは5期生だったので、もう10年も前だ。

 桧枝岐は200世帯余に630人余が住む山に囲まれた小さな村。高冷地のため福島で唯一米作ができない。といって貧窮の過疎地ではない。各戸に温泉が引いてあり、民宿が建ち並び、温泉客や登山客、尾瀬に入る観光客で潤っている。合併も受け入れなかった。ぼくは温泉と住民が役者を務める村民歌舞伎を見るのを目的に行った。尾瀬の入り口御池から尾瀬歩きをしたこともあるが、御池を通りすぎて山腹の絶景一本道をドライブしていくと、ただ1軒あるレストラン風茶屋で腹ごしらえをして、一気に奥只見湖の出っ張りになる銀山湖に至る。釣り好きの開高健がこよなく愛し、イワナの保護活動をした湖として知られる。

 小出インターから奥只見へ行く県道を初体験したときは驚いた。ダム建設の資材運搬用道路はシルバーラインと名付けられ、1回は通りたい道として挙げるドライバーが多いトンネル道である。19のトンネルがつながった全長22キロの長く荒々しい山岳をうがった道。その終着の広い窪地が駐車場、土産もの屋の鼻先の水槽に巨大なイワナが泳いでいる。一帯は名だたる豪雪地帯。冬季は道路も閉鎖される。夏場に桧枝岐の村民歌舞伎を見て、山岳道路の開放的な絶景にうなりながら、銀山平から一転して閉鎖的なシルバーラインのトンネルに入って奥只見ダムに感嘆して再度トンネルを抜けて小出にでるドライブを勧めたい。一生もののドライブになるよ。ダム工事では117人が犠牲になった。奥只見に行くのは供養でもある。








どうしようもない菅首相の生きる道
 菅内閣はいつまでもつのだろうか。長くはなさそうだ。毎日新聞が20,21日に実施した世論調査によると内閣支持率は26%と政権発足後、急落した。朝日新聞は11月13,14日に実施したが支持率は27%とほぼ同様の結果。支持が急落したということは、不支持率が急上昇したということだ。もはや末期的。世間は頼むから辞めてくれ!と悲鳴をあげている。だが、菅首相は辞めないよ。政治記者にいわせれば「支持率1%でも辞めないね。総理の椅子にいかに長く座っているだけが関心事の男だ」。

 管直人ほど野党時代の「使用前」と総理になってからの「使用後」がくっきり表れた人間も珍しい。だから信用できない。民主党の公約政策もくっきりと逆行迷走している。国家戦略局実現せず、子ども手当は中学卒業まで半額支給、八ツ場ダム中止撤回、企業・団体献金は復活の方向、公務員2割削減進捗なし、高速無料化危うし、地方主権進まず、農家に対する戸別無償制度は変更、政治主導はいずこへ。いや、まったく自民党もひどかったが、民主党はなんのために実現しないマニフェストを振りかざしていたのだろう。

 いまや唯一のパフォーマンス「仕分け」も法的な強制力を伴わず、効力がないことがはっきりした。菅首相も普天間で立ち往生するだろうが、これだけ支持率が下がれば解散する勇気はあるまい。石にかじりついてもがんばると言ってもさすがに立ち枯れだろう。では、つぎはだれか。タリバンの岡田幹事長か、官僚の覚えめでたい野田財務相か、打ち上げ花火の前原外務相か、モナと路上キスの細野か、参院選でミソをつけた枝野か。都知事候補をだれにするかとのからみもあって、後継選出は難渋するにちがいない。

 菅首相にとって、1回思いつきで言って党内の猛反発をくらって、先送りしているTPPへの参加が命脈を保つ方法だ。首相自身が言っているように、これは「第3の開国」にふさわしい方策である。TPP参加国同士では関税を廃して、貿易を自由化しようという国際的な動きだが、日本では農業関係者が「農業が壊滅してしまう」と絶対反対を叫んでいる。反対の後ろには農協と農水省がいて、危機をあおっているにちがいない。しかし、農業は金銭的に手厚い保護を受けていても衰退の一途をたどるばかりだ。

 農業人口は現在260万人。5年前にくらべて75万人減である。平均年齢はいま65・8歳と高齢農業だから、若い担い手の登場が切望される。TPPこそ日本農業にとってまたとない再生のチャンスだとぼくは思う。農業は長いあいだ自民党の票田だった。保護政策で守られているうち、自ら打ってでる活力と気力がスポイルされてきた。農業従事者はおおむね保守的で、変化を好まない。農産物の輸出は5000億円というが、安全高品質という評価をえている日本農業をどうして海外展開しようと考えないのだろうか。

 それでも一部の農業者は果敢に、国内での効率農業や輸出や海外進出に取り組み、活路を見出そうとしている。このひとたちが教えてくれるのは、日本人が失ってきた高い技術力による自信と改革へのめげない意欲である。菅首相は日本の農産物の国際競争力を高めるために知恵を動員してもらいたい。それが首相自身の生き延びる道でもある。

 





達観すれば道が開ける
  内田百の『東京焼盡』という日記は昭和19、20年の東京空襲を凝視している。古い旺文社文庫に収められている。いまから66年前の昭和19年11月20日にはこう記してある。「11月20日月曜日。午過省線電車にて出社す。散髪。夕省線電車にて帰る。お酒が一週間途切れて昨夜は寝つかれず、夜中六回も小便に起きた。今日は美濃が三合持って来たので難有い」。百先生は明治22(1889)年生まれだから55歳のときの記述である。内田百はぼくが親しくした作家中村武志が師事していたので、弟子中村武志さんにならって先生と呼ばせてもらう。

 米軍B29戦略爆撃機による東京大空襲は19年11月24日、110機の来襲が初であったが、敵機の来襲を知らせる空襲警報がはじめて鳴らされたのは19年11月1日。20日の百日記は、まだどこかのんびりした気配が感じられる。省線電車というのはいまのJRの戦前の呼び名、戦後は分割されて民間企業になるまで国電と言った。国有鉄道の国電から国鉄改革によって民間のJRになった。国電はラッシュのひどさから「酷電」と悪口をいわれた。民間になったJR東日本は新愛称を公募して「E電」と呼ぼうとしたが、その後「E電」なんてだれも口にせず、あえなく消滅した。

 『東京焼盡』を読むと、百先生は愛すべき酒飲みであることが伝わってくる。19日1週間も飲んでなければ、そりゃ寝つけないだろう。その人柄のせいか、酒たばこが配給制度の下でも土産や差し入れで麦酒やお酒や葡萄酒が手に入るが、たちまち飲み尽くしてしまう。ぼくが19日の記述で最も同情を禁じえなかったのは、酒が切れたことではなく、小便だ。ぼくは55歳のときは、飲んでも飲まなくても朝まで小便に起きることはなかった、と記憶する。ところが70歳近くなってから、頻尿になった。不思議に飲まない日のほうが頻繁だ。6回ということはないが、2、3回は覚悟しなければならない。

 だから合宿へ行っても、ぼくは個室にしてもらっている。尿意を覚えて目覚め、寝ぼけて若者を踏んづけたあげくに別の若者の上に転倒したら、深夜の大騒動が持ち上がる。高齢になると排泄のコントロールがきかなくなると聞いていたが、たしかにぼくにもその兆候がある。百先生は55歳にして1夜6回である。絶倫の6回ならうらやましいが、小便6回では、先生はまだ若いのだし気の毒にすぎる。警戒警報で睡眠はしばしば寸断されるが、小便のことは空襲下の生死のはざま、それどころではなくなるのか書いてない。

 20年3月10日の東京大空襲は「眠ったかと思ふと十時三十分忽ち警戒警報なり・・・」と前夜9日夜の記録からはじまる。東京大空襲で使われた爆弾は焼夷弾。これは燃えやすくする薬剤が入っており、明らかに日本の木造家屋を焼き払うための爆弾だ。B29が325機東京上空に飛来して、279機が荒川、足立、葛飾、江戸川の下町を中心に38万1300発1783トンの焼夷弾を無差別投下した。折しも北西の季節風が吹き荒れて猛火は広がり、民間人を中心に死者行方不明者10万人という惨劇になった。原爆同様、許すべからざる戦争犯罪である。以後の空襲で百先生も焼け出されるが、「出なほし遣りなほし」と達観する。達観すれば新しい道が開ける。これが百先生の人生訓。深い。深すぎる。

現場へ行って考えて自分を掘れ
 このブログを読んでいるという大学2年のHくんが体験入塾に訪れた。通信社を軸にしたジャーナリストをめざすらしい。「大学2年でここに通うのは早すぎるんじゃないの。3年生になってから来ては」とぼくは告げた。「その間、ネタ探しをしたら」と席にいた3年のOくんが「ぼくは1年生のときに先生と知り合った。やはり2年になって、通いたいと言ったら、同じように早すぎると指摘され、まずネタを仕込め、とアドバイスされた」と助け舟を出してくれた。

 最初は、なにがマスコミ採用試験の作文に使えるネタかわからないだろう。そこでぼくは、2,3の例を示しておいた。東京なら府中にある慈恵院。ここは日本でも古いペットのお寺でりっぱな犬猫の墓が並んでいる。ペットの犬猫を供養する霊園がネタではなく、霊園の一角に棚状の列になって整理されている水子地蔵にまつわる話がネタである。水子地蔵は、胎児を悼む地蔵菩薩だが、戦後、ベビーブームの最中の1949年、出産制限のため中絶が経済を理由にすれば可能になってからとくに増えた。

 慈恵院には水子地蔵が無数にある、だけではなんのネタにもならない。水子地蔵を基にして考える、とネタつまり題材になりうるということである。日本ではほぼ自由に中絶ができる、これが少子化の一因ではあるまいか、と推察してみる。では出生数と中絶数の関係は? 結婚数と出生数の因果関係は? 景気と中絶の関係は? 日本は2005年から人口減社会に転じたが、人口と中絶の関係は? など考えれば連鎖的に発展していくだろう。卒論の資料集めと称して、人口問題研究所あたりの広報にでも聞けばいい。

 長野県上田市の無言館はペン森生の定番ネタ場だが、ぼくが最初に行ったときは本館の信濃デッサン館しかなかった。すっかり有名になり、いまでは観光バスの駐車場までできている。入場者の「すすり泣きの声が聞こえる美術館」という以前のイメージとはほど遠くなったが、戦地で亡くなった画学生の霊がさまようような気配は残っている。「若者・戦争・故郷・愛」といったやや複雑なテーマが浮かぶ遺作美術館だ。ここは出口で入場料を払う仕組みだが、入場料はいくらと決まっているわけではない。

 新潟県の旧山古志村も定番のひとつ。全村が中越地震で避難したが、ここは錦鯉の産地で棚田の最も上の水田の利用法として鯉を飼育したのがはじまりといわれる。闘牛も盛んで円形のスタジアムも常設されている。だが、山古志でネタになるのは、中山隧道という約900メートルの手掘りトンネル。以前、妊婦や病人が出ると豪雪地帯の峠を越えなければ病院にいけなかった。峠で亡くなってしまう悲劇も珍しくなかったという。 

 そこで村人はトンネルを自分たちの手で掘ろうと昭和8年、ツルハシで掘りはじめる。10年たって324メートル進んだところで戦争。中断するが昭和22年、戦争から男たちが帰ってきて工事再開。急ピッチで工事は進捗して24年5月に開通する。執念のトンネルである。山古志村は長岡市と合併したが、旧村民に山古志魂は生きている。この中山隧道を歩いて通ると、人間の力というものなど考えることも多い。Hくん、ぜひ行って隧道の坑内を歩いて考えてみてくれ。考えて考えて自分を掘るほどいい作文が書けるよ。




尖閣ビデオの保安官は陽明学派?
尖閣ビデオで政界とメディアは大騒ぎだ。菅内閣の株はいっそう下落し、世の中の大方は政府の対応に腹を立て、はじめから一般公開していたらなんの問題も起こらなかったはず、どこが秘密なんだ、と投稿した第五管区の保安官にむしろ拍手を送っている。保安官は43歳。満年齢の現代と数えの昔とでは正確には違うが、陽明学派の巨塊で大塩平八郎の乱を起こした大阪町奉行の与力、大塩平八郎も43歳だった。保安官の投稿を義挙だと英雄視する向きのなかには、保安官と同じ取り締まり側に属していた大塩平八郎を連想したひとがいたかもしれない。

 保安官には読売テレビの記者が2時間接して取材していた。「私がこういう行為に及ばなければ、闇から闇に葬られて跡形もなくなってしまう」と動機を述べている。保安官は国民のだれがビデオを見る権利がある、という思考に支えられ、やむにやまれず投稿したらしい、とその取材報道では読みとれる。大塩平八郎の乱は天保8年という幕末だが、当時、関西地方は凶作に見舞われ、飢餓が続出していた。幕府はなすすべを知らず、さらに大塩の嘆願にも聞く耳をもたず、ついに大塩は私財を売って金に換え、それを窮民に与えた。

 だが、それだけではまかない切れず、大塩はたまりかねて自分を雇っている幕府に対し武装蜂起する。この大塩の行動は陽明学という「特殊思想によって理解するしかない」と司馬遼太郎は、乃木希典の人生を追求した『殉死』(文春文庫)のなかで言っている。乃木は、日露戦争でその無能ぶりを天下にさらし、無数の兵隊を死に追いやった犯罪的将軍だが、そのことの責任は問われず、明治天皇に殉じて切腹したことでむしろ英雄視されてきた。リーダーに無能な人間をいただくと、その下にいる人間は極度の不幸を背負う運命になるという例である。

 菅首相は首相になりたかっただけのひとだし、その無能ぶりによって中国、ロシアにつけこまれた。領土問題はナショナリズムを刺激する。60年安保後、これほど憂国の情が横溢したことはなかった、と思う。43歳の保安官が陽明学を学んでいたかどうかは知らない。乃木希典もまた陽明学徒であり、長州にあって吉田松陰の叔父、松下村塾の開祖玉木文之進の住み込み弟子となる。乃木は、陽明学の流れをくむのは「大石内蔵助、吉田松陰、西郷隆盛がいる」と副官に語ったと『殉死』にはある。尖閣ビデオの保安官がこの流れの延長線上にあるなら、ぼくはかれを賛美する。

 陽明学は行動を伴う自己犠牲の救済思想であるから、保安官が菅内閣から情報窮民の国民を救いたい、という思いに駆られてネット公開に踏み切ったのなら、話はわかる。そこまで国民の知る権利を熟考したとは考えにくいが、世の中に尖閣ビデオ問題に関して情報飢餓感が蔓延しているこことはまちがいない。その背後にあるのは下り坂日本の先行き不安であり、無能な政治に対するもどかしさであろう。日本にこのようなやるせなさが滞留している以上、ネットに直接訴える行為はまだつづくだろう。告発者が真の陽明学徒であれば世の中動くだろうに、陽明学ももう消滅しているか、残念。



72歳は青春の延長です
 本日、11月5日はぼくの72回目の誕生日である。来し方行く末を考えるいい機会ではあるが、来し方は、まだ湯気がたっているくらいほやほやの、ついきのう思い出したことを記しておきたい。2・3・4・5期生と最長期間の4年間ペン森に通い、地元地方紙に入ったやつが結婚をひかえての報告に上京してきたのがきっかけ。結婚式は来年2月に岡山で挙げるという。岡山へ行くその2月が、行く末というわけ。遠い過去や先行き短い未来のことよりも、きのうきょうに関心が向く。まだ脳は退化してないのだ。

 最長在塾のかれはいったん就職して、『踊る大捜査線』の湾岸署署長に扮している人気俳優、高知大学出身の北村総一郎の付き人となる。この付き人は運転ができなかったので、テレビ局に行くとき北村がステアリングをにぎり、助手席に座っていた。これではどっちが主人かわからない。本人は、記者になりたいという夢断ちがたく、相談した北村に後押しされてほぼ半年後、ペン森に舞い戻ってきた。かれと税務署長をしていたという父親とぼくと3人で食事をしたこともあるが、なにを話したかはまるで記憶にない。

 かれは早稲田大教育学部の出身だが、すこぶる出来が悪く、2期生3期生4期生が次々に朝日や毎日や日経や読売やNHKや共同や講談社やマガジンハウスや電通などに内定していく歓喜のなかで、淋しく取り残されたままだった。酒を飲んで荒れることもあった。5期生になったとき、正月休みで広島に帰省するというから「なにを利用して帰るんだ?」と聞いてみた。「新幹線か飛行機ですね」「ばかかお前は、若いのにもったいない、路線バスを乗り継いで日本の内臓を見てこい、もう一生こんないいチャンスはないぞ」「はい、そうします」
 
 かれが帰省の途上にあるとき、ぼくは千葉の勝浦に行っていた。同じ5期生の美人すぎる女の子を伴っていた。この女子は1期上の彼氏がいたが、ぼくはかまわずネタ仕込みに連れだした。記者は朝が弱いからその弱点をついて、日本三大朝市を観察しようと飛騨高山、能登の輪島、そして最後に勝浦を訪れたのだった。勝浦駅のホームから彼女にケータイでかれの様子を探ってもらった。3日目なのにまだ愛知県だった。彼女は、2月TBSに4月には輪島の朝市を作文に書いてNHKにも内定した。かれは4年かかって、ようやく地元紙をゲットした。

 行く末は来年2月。かれの結婚式に出席する前後にひとり旅をもくろんでいる。春採用のESで忙しいかもしれないが、優秀なOBOGに手助けをお願いして、旅に出る。本日はペン森生が集まるらしいが、ケーキだけで結構、誕生祝いはそのための休日をプレゼントしてほしい。ではどこへ行くか。四国か山陰だ。新緑のころ、かれと新妻といっしょにしまなみ海道を四国までドライブする約束が、きのうできた。四国は会いたい女子がいるが、ひとり旅は山陰が先かな。四国はその女子とも面識のある高3の孫娘と春休みに、列車でめぐる楽しみもある。激しいトキメキ、72歳は青春の延長にすぎないのだよ。

若者の酒は停滞か進歩か退歩か
10月31日、1泊2日で伊豆のコテージへ行き合宿をした。総勢15人だから、例年よりも少ない人数。今回は10分刻みのスケジュールがっちりの勉強合宿ではなく、16期生という新人を迎えての15期生との飲み会であった。ペン森生には以前から飲ん兵衛が多いが、15期はとくに盛大なような気がする。案の定、大半は朝7時まで飲みつづけたらしい。ぼくは早々と自分のコテージに引き上げたので、そんなには飲んでないつもりだったが、朝食は水1杯が精いっぱいだった。やはりかなり入っていたみたい。

 若者の飲み方で気になるのは、まず飯を食ってからビールを飲む、というわれわれ飯が先の年配とは逆の順番だ。酒は食前酒、食中酒、食後酒と区別されるが、若者にとって酒はすべて食後酒のようだ。ぼくは学生のころから、夜の飲酒のために昼飯はなににすべきかまで考えたものだ。食前酒はアルコール度数の少ないシャンパンやビールが代表的。あす3日もペン森OGの結婚披露宴に出席するが、乾杯に使われるのは、まだ食事前だから当然、食前酒のシャンパンでということになる。いきなり強いウィスキーということはないのだ。  

 食中酒は肴をつまみながら飲む日本酒、焼酎、ワインだが、肴をつまむといえば聞こえはいいが、ぼくはおかずを肴にする。塩辛やカラスミなどの珍味でちびちびやるのは苦手でコップ酒だ。休みの土日は必ず買い物に行くが、今晩は飲むまいと決めたら、どんなに安くてもおかずとして刺身を買うことはない。日本酒には刺身がいちばんというのが、ぼくの好みであり、たったひとりの飲酒文化である。焼酎は食中だけでなく、食後に飲んでも抵抗はない。食中にビールを飲むのはおかずが揚げ物の場合にかぎる。

 食前酒のワインとビールは、食中でも許容できるが、日本酒と同じく食後はだめ。その点、焼酎は食後でもOKだ。お湯や水で薄めなければ25度というアルコール度数の高さも、胃に食べたものが入っているので、受け入れ安くなっている。ぼくはだいぶ前にパリで某準大手出版社の社長御曹司の家に3、4日、厄介になったことがあるが夕食のあと、部屋を変えて食後酒をのみましょう、といわれて面食らった。ものを食べてから飲む、なんてハイソな生活とは無縁だったからね。ブランデーをしずしずと舌で転がして味わった。

 そこへいくと若者はよくいえばこだわりがない。悪くいえば、味覚音痴、飲食文化の伝統というものを無視している。胃液の分泌を高め消化を増進するために食前酒はあるのだから、せめてビールは食後に飲まないようにしようよ。といって、ウィスキーやブランデーを食後に供するつもりはない。井上靖さんはブランデーを2晩に1本空けていたが、どういう飲み方をしていたのだろう。『真田軍記』を再読していて、ふと気になった。食中、食後、寝酒でブランデーのお湯割りを楽しんでいたのでは、あるまいか。

 近ごろは若者を中心に昔懐かしいハイボールブームらしい。若者の飲食は停滞か進歩か退歩か、悩ましい。
 
 



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