ペン森通信
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旧コマキストの三浦『忍ぶ川』
 最近、ペン森でブームになっているAKB48も美人はいないが、かわいいとミーハーのぼくも感じる。だけど名前はだれひとり知らない。芸能雑誌や『フライデー』をペン森に持ち込んできてくれても、ぼくはなんの刺激も受けないが、若い受講生はよだれを垂たして読んでいる。ぼくにもそんな夢中の時代があった。中高年や初老男性が若いころ、吉永小百合の「サユリスト」と栗原小巻の「コマキスト」と人気は二分されていた。ぼくは俳優座の栗原小巻を楽屋に訪ねたことがある。小巻フェチの「コマキスト」だったのである。

 作家の三浦哲郎が亡くなったときいて、まず思い浮かべたのは栗原小巻だった。三浦の自伝的な純愛小説『忍ぶ川』は熊井啓監督で映画化される。ヒロインの新妻役に小巻が起用され、その裸体もいとわぬ絶世の美女の体当たり演技がだいぶ評判になった。夫役の加藤剛と北東北の夫の実家で迎えた初夜のこまやかな描写は官能的なエロチシズムを超えて、初々しく清々しく、むしろ気品があった。小巻も加藤も舞台の演技で認められた俳優だから、抑制された演出演技が低俗なエロを消していた。

 ぼくはこの映画を女子大の授業で上演して、教材に使ったことがある。感想文を書いてもらったところ、「外は雪景色というしんしんと冷気につつまれた家屋の中での、長々しい官能シーンがかえって痛々しかった」という感想文が記憶に残っている。たしかに部屋の中はかなり底冷えがしていたはずだから、上半身の2人の裸身はやや不自然ではあった。感想文の主は冷気を敏感に感じる冷え症なのかも、と妙に現実的なことを考えたものだった。それにしても「痛々しい」という表現はその通りだと感心した思いもあった。

 ぼくは映画『忍ぶ川』というか、栗原小巻の演技の感想を原作者の三浦哲郎に書いて送った。すると、三浦から返事があった。「初めてお会いして、小巻さんは気立てのいいすばらしい女性だと思いました」というような当たり障りのない内容だったと憶えている。三浦哲郎の死亡と栗原小巻は、映画『忍ぶ川』でぼくのなかで直結していたのである。だが、小巻だけでなくぼくにとって開高健、井伏鱒二とも三浦はつながる。開高にきいた。「日本でこれは!という作品はなんですか」「『○○』という三浦哲郎の短編だね」

 『○○』がなんという短編だったか、思い出せない。三浦は短編の名手といわれるが、ぼくは、慈愛にあふれ味わい深い母親ものしか読んでない。長編なら『白夜を旅する人々』をあげる。これは北東北の風土を背景に長兄が失踪、姉2人が自殺するという血脈を背負った自身の体験をつづった哀切きわまる小説。三浦は1949年次兄の失踪により入学した早稲田大学を退学して、中学教師をしながら小説を書き、53年に早稲田に再入学した。

そして井伏鱒二に目をかけられ、ぼくがその文学に惚れぬいている井伏に師事する。しかし三浦の文体は師井伏の、とぼけていながら底が鋭利な調子と異なり、あたたかく温順達意の叙述が心地よい。

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PC新調、まもなく来年挑戦組を迎える
 ペン森にPCは3台あるが、2台が同時に不調となった。3台とも7~10年使用の中古である。ハードの経年劣化が原因らしい。で、13期生の手だれに緊急出動を願い、秋葉原に行き、新デスクPCを6万450円で購入した。古いPCのハードディスクから新品に全データを移し替えようとしたが、アドレスやメール受送信などの個人データだけを吸い上げることができない。ぼくはケータイにはほとんどアドレスは登録してないし、あまり使わないので、いまペン森生をはじめ大事なひとたちと通信ができない状態。でもブログは書けるから、書く。

 それでもペン森卒業生の期別MLとブログとWordの「マイドキュメント」は無事復旧できた。MLで9月26日に15周年パーティを開くむね知らせたので、この返信をアドレス登録に役立てるつもりだったが、返信があったのは結婚してシンガポールに住んでいる11期女子1人だけ。ぼくに対する無反応は不徳のいたすところで、やはりこたえる。さて、蓄積された「マイドキュメント」を拾い読みしていたら、今春大手マスコミ3社から内定をもらった14期女子の作文で目がとまった。以下にその作文の前半部分を。

 円谷幸吉というといマラソンランナーがいたことを私は知らなかった。今年にはいって沢木耕太郎の『敗れざる者たち』を叔父に勧められて読んでいたら、なんとも奇妙な遺書が目についた。「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。干し柿、餅も美味しゅうございました・・・」
円谷は私と同じ、福島県出身であった。須賀川市の実家に「忍耐」という文字を刻んだ碑があると『敗れざる者たち』に書いてある。GWに帰省したとき、私は家族にそのことを話し、碑を見に行こうと両親をさそった。父の運転で会津若松のわが家から、猪苗代湖を右手に見ながら須賀川に向かった。

 車中、郷土の英雄野口英世はお母さんがえらかったという話題で盛りあがった。すると母は、円谷選手のお母さんはどういう人だったのだろう、と問いかけ、美味しゅうございましたの遺書を声をだしてよんでくれと沢木本持参の私に注文した。「・・・俊雄兄、姉上さま、おすし美味しゅうございました・・・」。兄弟や縁者の名前が切れ目なくつづき、○○美味しゅうございました、と食べ物が列挙される。読んでいる私は胸が詰まり、母も助手席で肩を震わせていた。

 円谷幸吉は東京オリンピックで2番目にスタジアム入りしたが、抜かれて3位となった。自殺した際のその遺書は川端康成が絶賛した。この作文の筆者は、碑にこだわっていて、円谷の碑「忍耐」を見つけた。碑には本人の業績だけでなく、歴史を反映した人生ドラマが刻まれていることが多い。筆者はだれも気づかない碑を作文ネタの軸にして、その碑を通してひとや歴史や人々のなりわいを見ようと試みていた。PCを新調したペン森にはまもなく来年の採用試験に臨む精神な新人が入塾してくる。気分一新、軸をもて、と言おう。

AKB48ブームのペン森で妄想した
 大学時代のゼミ教授の奥さんが「(夫は)あなたたちに次に会える日をそれはそれは楽しみにしているんですよ」と笑いながらもらしたことがある。教授の心境がこのところ、よくわかる。この心理は孫に対するのとも違う。肉親愛よりも恋愛感情に近い。あのぶすっとした教授のぼくたち教え子への思いは、それほど深かったのかと考えた。ペン森は400人くらいの卒業生を出しているが、ぼくの卒業生に対する感情はゼミ教授とほとんど変わらないところもある。一部の卒業生に対してぼくの思いは深い。

 とりわけ女子については、男子にくらべてぼくの感情が複雑である。通行人みたいなただの女子、親しい女子は肉親化するか恋人化するか、3分割されるような感じがする。大半は肉親化するが、少数は恋人化してくる。この「化」というところが微妙で、相手が20代、ぼくが71歳と年齢差がありすぎるので、恋人関係というにははばかられる。恋愛関係にあるとはとてもいえず、たとえば旅をしても外見上、恋人同士の仲に見られることはない。とはいうものの、ぼくの内面ではひそかに相手は恋人なのである。

 このあいだ月1回の通院時、血液検査の結果を診た主治医が「腎臓が劣化している」と告げ、「寿命までは生存できるでしょう」と言い足した。男性の平均寿命はほぼ80歳だから、あと8年ちょっとは生存できるらしい。徘徊2年寝たきり5年はごめん被りたいし、生きているあいだは元気でいたいから、医学的に老人の元気の元だと証明されていることを実行するのが手早い。すなわち異性への関心を絶やさないこと、である。これならべつに医薬品や健康食品に依存することなく、ただちに可能だ。

 ただ、異性として関心のある恋人化女子があまりに少なく、限定されているのが問題。ましてや、遠方で勤務していて、年2,3回しか会えない子もいる。しかもカレシができて、いつこの老人が相手にされなくなるかわからない。すると失恋的な手痛い打撃を受けてしまい、元気の元どころではなくなる。かえって寿命が縮む。ぼくはすでに男性機能は終了しているから、プラトニックな関係しか成立しないのだが、ただ遠くから相手を思うだけで長生きできるのだろうか。異性に関心の「関心」の意味がいまひとつつかめない。

 好きな女子を思うということは、ぼくの場合、妄想になってしまう。妄想なら春夏秋冬季節を問わず、朝昼晩時間を問わず、楽しんでいる。というわけで、これまでとなんら変わらない。卒業生の来訪がいちじるしい折、生存という言葉を聞いて、車いすの老教授の長寿を連想し、併せてペン森はいまAKB48ブームときているから、女子方面に関する興味が喚起され、自己分析を試みてみたわけ。AKBガールよりもペン森女子はすこし年上だが、可愛さでも頭でもペン森女子が上だね。ペン森トイレに貼ってあるAKB48の等身大水着ポスターを見て脈絡なく、ぼくは恋人化しているペン森女子と2人で生存中に数回、温泉に行きたいと妄想した。

主観ジャーナリズムで幸福に
 『文藝春秋』9月特別号に佐野眞一が「渡辺喜美 この男を信じていいのか」というインタビュー記事を書いている。渡辺は父親(美智雄=ミッチー)の遺産(票)でくっている一匹狼などと評され、自民党離党後まともに相手にされなかったが、ご存じ参院選で大躍進したみんなの党の代表。いまや総理大臣にしたいナンバーワンという調査結果さえある。この新しいリーダーのあまり知られていない過去を佐野は直接きいている。

 渡辺は栃木県立大田原高校時代、「エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』に感銘を受けました」という。ほかにもデヴィッド・リースマンの『孤独な群衆』が心に残る、と言っている。2冊とも名著だし、訳者が前者は日高六郎、後者は加藤秀俊という名だたる社会学者ときているから、ぼくも学生時代に読んだ。中身は憶えていない。これは60年代という特定の時代の青春にとって鮮度のある著作だったのだろう。イデオロギーがまだあったという意味ではなく、圧倒的な機械文明と大衆社会が露出したという意味で、だ。

 ところがぼくは、この2冊は学術書ではなく、幸福論に接するような気持ちで読んだ本だったように思う。学術書だって情緒的に読むくせがあるらしい、と最近、気づいた。そもそも記者、なかでも社会部記者は論理的というより情緒的である。大事件大事故があると1面に載るのを硬派、社会面の関連記事を軟派とよぶが、ぼくは軟派専門で硬派は、論理的な記者が書いたものだった。硬派は本記とも言い事実を冷静に、軟派は読者の心情に訴えるようなお涙ちょうだい的。そのような区分けがなされていた。ぼくが現役だったころから、硬派軟派の持ち味はほとんど変わってない。軟派記事の基準は幸不幸である。

 きょう8月13日の朝日、毎日はそれぞれが委嘱している有識者による自紙検証リポートを掲載している。58年ぶりに共同通信に再加盟して、12の地方紙から記事提供を受けることになった毎日は、取材余力を調査報道に振り向ける新たなジャーナリズムに挑戦中という。毎日はその独自性を称して「深堀り」という言葉を多用しているが、「深堀り」とは、どういう意味だろうか。発表ジャーナリズムに頼らないという、その志には共感する。ぼくが現役だったら、住み込み取材で泣かせるルポを書かせてくれ、と言うだろう。

 結局、「深堀り」は沢木耕太郎が登場した当時のニュージャーナリズムと同じではあるまいか。沢木はあまり情緒的ではなく、怜悧な筆致が特徴だが、記者にそういう文章術を求めるのは無理だ。情緒は日本人の特質でもある。普遍性がある。源氏物語が1000年も命脈を保ってきたのは、文学であると同時に日本人の情緒心に訴えてきたからにほかならない。文学も映画同様、主観の力で心を掴む。新聞は客観報道を強調するが、発表に依らないジャーナリズムをめざすのであれば、視点も素材選択も記者個人の主観に頼らざるをえない。ぼくは情緒に傾いた署名主観報道を主張したい。読者を1センチでも幸せにできればそれでいのだ。主観報道は幸福ジャーナリズムと言い換えてもよい。







地デジなんて、くそくらえ
 切れ痔に悩んでいるぼくは、地デジに腹が立っている。肛門の血はがんなどの内臓疾患とまちがいやすいから要注意といわれるが、ぼくの場合、バリウムを飲んだあと硬い便に冷や汗を流してうんうんうなるような感じになったとき、鮮血が出るから、切れ痔だろう。この切れ痔と発音が似ている地デジに対しては、便秘がつづいているような感情があって、まるですっきりしない。いったい、アナログテレビを地デジに変えればどういうメリットがあるというのだろうか。ぼくはまったく腑に落ちない。これでいいのか。

 そもそも政府の方針で全国民一斉に変えるという、この全体主義的な切り替えに納得がいかない。航空機がいくら発達してもぼくは各駅を乗り継ぎ、ローカル線にも乗る。CD時代になってもレコードの音色を楽しむひともいる。古いものでも十分なのにどうして新しいものに変えてしまわねばならないのだ。ぼくのうちはテレビが4台あるが、まだ全部りっぱに使える。ぼくはニュースとスポーツとドキュメンタリーしか見ないから、アナログになんの不満もない。お金をかけて地デジにするなんてばかげている。

 地デジ化は高音質、多チャンネル化が可能になり、混み合ってきた電波事情が改善されるという。世界中が地上デジタル放送に移行するらしいが、なに世界は世界、日本は日本でいいじゃないか。日本は日本、おれはおれだ。世界や日本の流れに乗って、ぼくはテレビをデジタル放送に切り替えるつもりはない。これは政府か、放送局か、電気メーカーの陰謀ではないかと疑っている。テレビを新たに買うだけでなく、アンテナも必要というではないか。もうかってほくそ笑んでいるヤツが絶対にいるはずだ。

 テレビを地デジに切り替えた世帯が8割になったと政府はいう。世間をあおるだけの数字である。民間によれば7割程度の普及という。テレビが家族化している独り暮らしの年寄りは概して、裕福ではない。ほそぼそとした年金暮らしの身にもこたえる。生活保護世帯にもいたい。今後、地デジ難民もでてくるだろう。一方的に勝手に地デジ化していくのだから、地デジを推進する側は、地デジにせざるをえない立場のひとになんらかの挨拶があってしかるべきだろう。受け手の中には迷惑料を払ってもらいたい向きもいるだろう。

 そこでぼくは考えた。テレビを見るのはこの際、やめようか、と。ぼくはペン森でラジオをほとんどつけっ放しにしている。ニュースはもれなく伝わるし、緊急放送にも接しられる。リスナーと送り手側との距離が近いし、双方向的な親しみのあるメディアである。ぼくがもっているラジオの本体は980円。もっぱらTBSラジオをつけているが、リスナーの声をあんなに取りあげるのに、放送だから地デジへの疑問はまったくない。こうしてものごとは同じ方向に向かっていき、反対者や抵抗者は力なき少数派となる。みんなは地デジに納得してるのかね。情けない。



論作文は推敲と使い回しだよ
 夏の甲子園が終わると、各地方から土産持参でやってくる卒業生が多くなるだろう。甲子園の期間中、ペン森は秋採用対策の直前講座を実施する。これまた春と秋の恒例企画。秋採用はいつのまのか、時期が夏に繰り上がってきたが、いまでも新聞社は秋採用と社告に出している。こうした面でも季節感は失われていく。とにかく来週から直前講座である。受講生は1日論作文3本を制限時間内に書かねばならない。

 直前では各社の予想課題を出題するが、ズバリ一字一句違わず当たる場合もあるし、まるで見当違いのケースもすくなくない。見当違いというのは新聞社のセンスが疑われるということで、こちらがあさっての予想題を出している、というわけではない。しかし、題が当たるか当たらないかは大したことではなく、どんな題でも本人が読むに価する内容の論作文を書けるかどうか、が問われるのである。だからぼくはかねがね、駄作100本よりも秀作1本のほうが内定の確率は高いのだぞ、ということを強調している。

 採用試験が迫ると、学生の論作文を書く本数がふえる。とりあえず数をこなしてなんとか対処しようということだろう。焦りである。無駄な努力である。書かないよりまし、という程度だ。それよりも、じっくり時間をかけて3本くらい思考を深めるほうがよい。絶対論作文3本で十分。言いたいことをはっきりさせることである。熟考すればするほど、その論作文の行間にこもる訴求力が増してくる。かつてぼくが授業をもっていた女子短大と女子4大の学生たちは、書き上げるのが異常に速かった。どんな題でもだいたい800字30分くらい。考えない分、薄っぺらな、なにも印象に残らない文章だった。

 採用試験の直前にやるべきは、①これまで書いてきた論作文のいいものに推敲を重ねること②題材(ネタ)の使い回しに頭をひねること。この2点だろう。新ネタを見つけ出す努力はこれまでやってきた。その過程でネタのよしあしについてのセンスもなんとなく身についてきたはずだ。もはや新ネタを見つけに行く時間的な余裕はない。ペン森の直前講座は①推敲②ネタの使い回し、これを重点的に繰り返す。ある男子受講生がネタはよかったが、まるで駄作に近い作文を出してきた。こうふうにしてみたら、とアドバイスしてきのう3本書き直して再提出してきた。3本とも通過まちがいない、という段階にまで表現も含め改善されていた。ぼくのなかで内定候補が1人増えたのであった。

 それは元ネタがよかったから、という面も強いが、本人が考えに考えた結果でもある。かれは①の成果を出してきたわけだが、さて異なる題にそのネタをどう当てはめることができるか、そのひねりの工夫が直前講座で効果的に作用すれば、面接に進むにちがいない。内定も近づくだろう。思考して改善したということは、かれに延びしろがあるということだ。延びしろとは良い記者になる可能性が大きいということ。秋採用、がんばろうぜ。



短パンが呼び起こす後悔
 夏が来れば思い出す、というか、短パンの季節になると毎年ムッシュ・佐藤とサハラ砂漠で亡くなった青年がよみがえってくる。ムッシュ・佐藤は毎日新聞社会部の先輩記者。早稲田の仏文を出てパリ大学に学んだ。心優しい、当たりの柔らかな文学通だった。たしか『パリ文学散歩』という本を書いている。ぼくが暑い盛り、短パンで新宿の雑踏を歩いていたら、ばったり出会った。ぼくの短パンはGパンを膝の上の長さからハサミで切っただけの乱暴な代物で、切り口の裾から糸が垂れ、当時は見かけなかったホームレスようだったと思う。「なんという格好!。あんたを社会部の記者だとはだれも信じないよ」

 サハラ砂漠で亡くなったのは上温湯隆。ぼくは読んでないが、かれの日記を元にしたという単行本が時事通信社から刊行され、講談社文庫になっている。『サハラに死す 上温湯隆の一生』(長尾三郎)。上温湯とはぼくが短パンで東京から日本海まわりで北海道・網走までヒッチハイクで行った際知り合った。日本ヒッチハイカー連盟の10周年を記念して行なわれたヒッチハイク大会で、社会部遊軍席で先輩の種村直樹記者が「こんな大会がある。きみ向きと思うがね」と話をふってきたことからはじまった。種村記者はJRの前身、国鉄担当だったが、国会担当へ配置換えになったのに腹を立てて、退社し独立した。鉄道ファンならだれしも知っている、有名な鉄道ライターである。

 ヒッチハイクに参加したのは、ぼく以外は大学生や専門学校の学生やフリーランスの若者たちであった。群馬の沼田で乗せてもらった乗用車の夫婦は「学生さん、あんた老けて見えるねえ」と気の毒がってくれたが、ぼくは30代前半なのに学生に化けていたから、老けて見えるのは当然だった。26台を乗り継いで網走に無事着いたが、フェリーで苫小牧に渡り、途中滝川で拾ってくれたのは朝日記者の夏休み家族ドライブの車だった。質問攻めに辟易した。毎日記者だとばれる前に腹痛の仮病をつかい、降ろしてもらった。

 上温湯はヒッチハイクのどこで知り合ったか、まったく憶えていないが、痩せてひょろっとした若者だった。大会後に訪ねて来てからサハラ砂漠を縦断するという話を持ちだしてきた。同じく大会に参加した女の子も一緒に行くという。ぼくは女の子の同行に反対した。「お前は体力がもたないよ」「毎日マラソンをして鍛えています」「危険だよ、やめな」。結局、上温湯は単独で行くことになり、数回打ち合わせをした。いまにして思えば、毎日新聞社の後援がほしかったのかもしれない。無謀な計画に毎日が乗るはずもなかった。

 現地入りした本人から手紙だったか、「ラクダは5頭必要だが、カネがないので1頭だけ買った」と連絡があった。たった1頭でアフリカの砂漠を7000キロ。かれはラクダが倒れたそばで付き添うように死んでいた。ラクダを見放すことができなかったのである。世田谷に住む母親を弔問した。狭い部屋にきちんとすわり、母親は心の焦点が遠くにあるような、放心した状態で応じた。母親と2人暮らしだったようだ。彼の冒険を止めるべきだった、と激しく後悔した。




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