ペン森通信
死刑よりも超長期刑を
 千葉景子法相が2人の死刑囚に対する死刑執行命令を出し28日、法相自ら絞首刑で2人が死にゆくさまに立ち会った。千葉法相は先だって参院選で落選し、法務大臣としてその職にふさわしくない、と有権者は判断した。しかし菅総理は続投を命じ、本人も辞任しなかった。辞任しないこと自体不可解だったのに、死刑廃止論者として知られ、死刑執行のサインをしてこなかった信念のひとが突然、真逆の態度をとった。人間不信に陥りそうな不可解にして、不愉快な死刑執行であった。

 毎日新聞によると「アムネスティ・インターナショナルの調べでは死刑廃止国は90年代以降、増加傾向にあり、09年は139カ国。執行した国は日本を含め18にとどまり、90年代からほぼ半減した」と世界の傾向を紹介したあと、日本の実情に触れている。「その中で日本の世論は制度存置が圧倒的。内閣府が昨年実施した世論調査では85・6%が死刑を容認し、政府が制度を存置する大きな根拠となっている」

 日本で死刑制度賛成85・6%とはきわめて高い数値。この調査は内閣府が5年に一度行なっており、設問は「死刑制度に関してあなたはどちらの意見に賛成ですか」ときいて、賛否を問う3択の意見を並べている。「(ア)どんな場合でも死刑は廃止すべきである(イ)場合によっては死刑もやむを得ない(ウ)わからない、一概に言えない」。(ア)は確信的な死刑廃止だ。ぼくはこれ。(イ)は日本的なあいまいさを残し、無責任に支持できる。この(イ)がほとんどを占め、圧倒的な死刑容認とみなされて日本の死刑制度を支える。

 ぼくが死刑制度廃止に傾いているのは、終身刑と死刑の間がないことが腑に落ちないからだ。死刑よりも生きさせておいて罪の償いをさせたほうがよい。100年の禁固刑とか200年の懲役刑とか、考えようによっては死刑よりも過重な刑である。懲役は労役を科すが禁固はただ閉じ込め労働はさせない。ひきこもりが70万人いる時代とはいえ、独房にいるような禁固のほうが辛いだろう。しかし、日本もだんだん死刑を減らしていって、やがて廃止に至るのではあるまいかとぼくは思っている。千葉法相とは反対のコースをたどる、とみる。

 手元に『死刑物語――起源と歴史と犠牲者』(カール・B・レーダー/西村克彦・保倉和彦訳/原書房)という古い本がある。処刑や刑種の変遷を描いている。日本は刑法で絞首刑による処刑と決まっているが世界では古くから石打ち、断崖からの突き落とし、架刑(イエス)車刑、四つ裂き、切り刻み、溺札、生き埋め、火刑(ジャンヌ・ダルク)・・・人間が考え出した残酷な道具としては、フランス革命時のギロチンが有名だが、これは万人にとって平等な処刑方法として採用された、という。

マリー・アントワネットが断頭台で処刑された当時、首に落下してきたのは、刃ではなく落とし斧であった。フランス革命時の政治家、ロベスピエールは死刑反対論者だったが、独裁者になってからはギロチンで殺しまくり、吸血鬼と化した。権力をもつと人間はかくも変心するものである。権力欲と自己保身の菅総理はギロチンものかもよ。

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つぎの結婚披露宴で話す内容
 披露宴でスピーチをするときぼくは「新郎恩師」または「新婦恩師」と紹介される。高校か大学の恩師ではないと説明する前に、そもそもペン森とはと、はじめねばならない。8月1日、7期生TBS記者(男子)の披露宴で、おおむね以下の内容のスピーチをするつもりだ。ペン森のことは『マスコミ塾』と言っておこうか。

 司馬遼太郎によると、日本の教育者は歴史上、吉田松陰と緒方洪庵の2人しかいないという。松陰はご存じ松下村塾で知られる革命思想家。もう1人蘭学の洪庵は大阪で適塾または適々塾という実学の塾を開いていて、高弟の福沢諭吉は酒を持ち込んで学問をしていたらしい。福沢と酒は切っても切れないのだ。ペン森はこの緒方洪庵の適塾を真似て開設し、ことしで15年を迎えた。途中,財政難で立ち行かなくなったとき、新郎が奨学金をあてて救ってくれたこともあった。メディアに入って活躍しているのは300人を超える。

 適塾からは福沢をはじめ大鳥圭介、大村益次郎など幕末の俊英が育っている。松下村塾とちがってこちらは思想性とはあまり関係ない実学の塾だった。ペン森は適塾の酒にならって、酒を取り入れた塾にしたわけであるが、もうひとつ洪庵は人つきあいの天才だった。それを学生たちが学んでくれればと思った。本日の新郎はその点、交際術に長けており、ひとの懐にするりとはいってゆく独特の才能に恵まれている。しかし女性方面と付き合いがいい、ときいたことがないので、新婦はどうかご安心を。

 意外なことに、かれは中継が一向にうまくならない。マスコミの採用試験には作文がつきものだから、ペン森は学生が作文を書いて対策をしている。新郎は作文がへたくそだったので、1人だけ特訓をつづけた。対象を微細に観察して、それを正しい日本語で描写していく。かれは駿河台の公園にいったり、友だちの赤ちゃんを描いたり、必死に努力した。

父親とともに父親が育った故郷を訪ねていったという作文は、無骨な文章ではあったが、肉親としての父親へ感情がこもった、しみじみとした名文でぼくは涙がでた。かれほど愛情いっぱいに父親のこと、母親のことを話す学生は珍しい。

 かれはTBSに入社したとき、紋付き袴で世田谷線の松陰神社にぼくと一緒に行った。そこには松下村塾そのままの寺子屋がある。松下村塾の入口の看板とともにぼくが記念写真をとった。入社の自己紹介に使うということだったが、大げさにいえば松下村塾と適塾とが融合合体したシーンでもあった。

 かれが上智大のラグビー部主将として試合後メンバーに訓示を述べている場面をみたことがあるが、堂々としてりっぱなものだった。どうしてかれの中継はだめなのだろうか。じゃパネット・タカタの特訓でも受けたほうがいいのじゃあるまいか。さもなくば新婦を相手に練習してもらいたい。新婦はよくぞ新郎を伴侶として選んでくれました。新郎もよくぞ新婦を選んでくれた。強くて折れない夫婦としてあと60年あまりがんばってください。


エコ対策、シャワー中おしっこ
 世界で最も稼ぐスーパーモデルはジゼル・ブンチェンという女性だそうだ。ぼくは顔もスタイルもまったく知らないし、関心もない。関心がないのにそのモデルのことに興味がそそられたのは、『週刊現代』(7月31日号)の連載エッセイ、酒井順子の「その人、独身?」に紹介されていたからである。酒井女史は「世界一リッチなモデル、エコ提言?『おしっこはシャワー中に』」という新聞記事を見つけた。「シャワーの最中におしっこをすれば、水洗トイレの水を無駄にしないで済む」というモデルのエコ提言。

 酒井順子女史は、「30代以上、未婚、未出産の女性は負け犬」という定義をしたことで話題になった。女子高生時代からエッセイを書いていた才女である。中学生のころから宮脇俊三ファンで鉄道好きでも有名。『女子と鉄道』(光文社)「女流阿房列車」(新潮社)という著作もある。日本文学館で宮脇俊三展があったとき、日本近代史が専門の鉄道ファン、明治学院大学・原武史教授と対談した。ぼくもペン森女子と聞きにいったが、鉄道の話だけでよくもこれだけ盛り上がるもんだ、と感心したものだ。
 
 さて、スーパーモデルとおしっこの話だ。シャワーの音に催尿作用があることは、幼児におしっこをさせるとき抱きかかえて「シーシー」と声をかけて促すことから、なんとなく因果関係がわかる。モデルはシャワーを浴びつつ、というのだから当然、立ったまま髪を洗うついでに、漏らして流すのだろう。おばあさんの立ち小便のことは、前にこのブログで書いたが実際、女性用の立ち小便用便器を開発した陶器メーカーもあったのだが、これはまるで無視され売れなかった。

 酒井女史はおっとりかつしっとりとして品位があるが、こういうネタも得意のようだ。「大学時代に水のスポーツのクラブに入っており、毎日朝から晩まで、川や湖に浸かる生活をしておりました。(略)ふと気がつくと、クラブのメンバーのほとんどが、滅多にトイレに行かないではありませんか」。水中でするようになっていたのである。「もちろん私も、その1人」。川や海だったらぼくも常習犯だった。生温かいぬくもりが水着ののなかにもやもやとたちこめて、次第に消えてゆく。諸君もその感触は憶えているでしょう。

 川や海や湖でこっそり、なにくわぬ顔でもらすのは、むしろ自然な行為だろうが、プールは汚染するからだめだ。「『シャワー中のおしっこ人口』はかなり多いのではないかと酒井女史は推測するが、ぼくも同感。今週はふとんの中のおしっこ、をしゃべっていたペン森女子22歳がいた。彼氏のうちで寝ていたら小便をする夢を見た。はっと跳ね起きたときは遅かった。見事におねしょ。あっけらかんと恥を明かした女子は大手メディア内定2社。「そんなことを人前で言える個性っていいなあ」と男子が羨ましがっていた。

ぼくはおねしょの体験はないが、川や海でのおしっこは懐かしい夏の思い出。物心ついて以来、エコに目覚めていたんだね。シャワーおしっこも実践してみよう。


未来を開放する柳井ユニクロ
 月~金の夕5時半から3、40分、ペン森で講義をしている。1週間を通じて同じテーマ。新聞や雑誌の記事コピーの背景説明をするだけの話である。ところが案外大変でね、新聞記事はあらためて噛み砕いて、内容の依ってきたるゆえんを話すのに苦労する。新聞はむずかしいのだ。おもしろくもない。知っておかなきゃいけないというほどの中身もあまりない。ぼくのように日中、ラジオをつけっぱなしにしている身にとっては、ニュースはほとんど耳にしている。週刊誌も毎週4冊に目を通しているから、新聞は朝1時間かけて朝日と毎日をざっと見るだけで事足りる。

 しかし講義の教材に新聞は重宝する。メディアをめざすペン森の若者といえども、新聞をつぶさに読んでいる気配はない。これまで「普天間」「医療」「男女共同参画計画」「日本の貧困」「消費税」「部分連合」などを取りあげたが、その特集記事に目をした様子はまったくなかった。新聞はむずかしい。だから解説が必要だ。今週はきのうの毎日、ユニクロの柳井正さんインタビューを準備していたが、23日の朝日を皮切りに秋採用のES締め切りが目白押しなので、その記入に追われ、講義をしても聞く耳をもたない。

 柳井さんはぼくより10歳年下ということをその記事で知ったが、もっと若いと思いこんでいた。ユニクロスタート時、中国で裁断縫製した若者ファッションを独自に展開したという衝撃がぼくの中にそのまま残っていて、柳井さんも年をとらなかったのだ。中国にねらいをつけたというところが独創的で偉い。同じ山口県出身の安倍元総理の攘夷主義、国家主義とは大違いで、鎖国志向の傾向はみじんも感じられない。「関税や貿易障壁を低くする自由貿易協定(FTA)をできる限り多くの国と結び、海外からの移民も受け入れるべきです」

 移民を受け入れると、風紀が乱れ犯罪を誘発するという意見がある。外国人の労働者に対する差別や偏見には根強いものがあるが、人口減社会へひた走る日本は労働力を高齢者、女性、移民にたよるほかない。もっともパワーのありそうな移民は労働力としてじつに貴重である。「移民受け入れは人口を増やし、経済を活性化させるメリットが大きい。子どものころから日常的に外国人と接すれば、日本人が苦手とする国際化にも役立ちます。欧米など先進国はみんな移民を受け入れています。経済がグローバル化す流中、日本も日本人だけで済むような時代ではありません」

 柳井ユニクロにしろ三木谷楽天にしろ、2012年から社内公用語を英語にするという。その着想、先見性、実行力は、さしずめ現代の坂本竜馬といったところだろうか。ぼくは副総理でありなから、普天間には黙して触れず、権力が転がり込んでくるのを待っていた菅総理は人間性を疑って大嫌いだが、柳井総理になったほうがかなりまし、と思うね。といって、ぼくはパンツもユニクロでは買わず100円ショップだが、ユニクロ店内は好きだ。カラフルなファッションが未来を開放しているように感じて心地よい。





命がけで将棋を指した天才の青春
 前回のブログの反応はかなり悪かった。冒頭にエッチ関係の記述があったからだろうか。内容が本の紹介だったからかもね。⑥から⑩まで行数が不足して、ろくな寸評もできなかった。行数不足というのは、ぼくが勝手に決めているこのブログスペースに収まるかどうかのことであって、読む側にはなんの関係もない。書ききれず気がかりなのは⑦の『聖の青春』(講談社文庫)だ。聖とは、ネフローゼ(重い腎臓疾患)を病みながら将棋のA級にまでのぼりA級在籍のまま29歳で夭折した天才棋士、村山聖(さとし)のことだ。この感動ノンフィクションは第13回新潮学芸賞を受賞した。掛け値なしの推奨本である。

 ぼくは日曜午前10時になると、ほとんど欠かさずNHK教育にチャンネルを合わせる。将棋の時間である。サンデー毎日時代、誌上段位取得企画の担当デスクをしていて、日本将棋連盟に数年出入りしていたが、ぼくは将棋のことをあまり知らなかった。将棋を知ろうと勉強しはじめたのが将棋番組だった。いまでも日曜午前10時には、自宅にいる場合ほとんど欠かさずチャンネルを3に合わせる。同じように将棋番組に親しんでいた後輩の仲のいい東京新聞の記者がいたが、若くして亡くなった。いま、そのことをふと思い出した。かれはぼくより将棋は強くなかった。やったことないけど。

 『聖の青春』の筆者、大崎善生はプロローグに言う。「私は昭和57年に日本将棋連盟に入り、十数年にわたり将棋雑誌編集者として将棋界のもっとも近くで生活してきた。昭和57年といえば、村山がはじめて将棋界の門を叩いた年であり、羽生善治が佐藤康光が、その後の将棋界の地図を大きく塗り替える俊英たちが続々とプロ棋士の養成機関である奨励会に入会した年である。その中でも、強く心に残っている棋士が村山聖である。やさしさ、つよさ、弱さ、純粋さ、強情さ、奔放さや切なさといった人間の本性を隠すこともせず(略)」。ぼくが千駄ヶ谷の日本将棋連盟に足を運んでいたのは、折しも若き天才たちが奨励会に入門したころであった。

 ぼくは村山聖に会ったことはないが、そのまるまっちい体型と風貌はよく憶えている。後年、将棋番組で目にしていたからだ。97年、羽生善治と決勝でぶつかり敗れた。羽生とは6勝7敗という実戦記録を残すが、徐々に追いついて6勝までいく。羽生がもっとも恐れた棋士であった。その羽生と『週刊文春』で名コラムを書いている異才棋士、先崎学が共著で『村山聖名局譜』という本を出している。先崎と村山は遊び仲間であり酒友でもあった。5歳でネフローゼと診断され、進行性膀胱ガンにもおかされ、脳への影響を考慮して抗ガン剤と放射線治療を拒否し、命がけで将棋を指しつづけた村山は98年に他界する。

師匠の森信雄七段との師弟愛も並みではなかった。「村山の遺体の前で森は泣き崩れた。(略)『村山君・・・』『村山君・・・』泣きじゃくりながらその言葉繰りかえしていた。(略)村山のためなら何でもしてやった。自転車の荷台も押してやった。パンツも洗ってやった。『もうわしの力は要らんのか』」。
 村山の苦闘と師匠の献身に比べたら、わが人生はなんぼの価値もないような。



この夏、ぼくの再読本10冊
 菅直人は自爆した。選挙速報テレビを消して、書棚の文庫本をひょいと1冊つまんでページを開いたら、ちょうど男女それぞれの初体験を紹介しているくだりで、そこで目についた文章はこうだった。しかし、男女を通じて、もっとすごいのは、なんといっても芸術家の草間弥生(1929年生まれ)だろう。「彼とは恋人として10年付き合ったわ。ところが彼は直接的なセックスをしない人で童貞だったの。私ともセックスなし、大事なところを触りもしない、(・・・)実は・・・、いまだに私は処女なのよ(笑い)」

 独りで笑ったこの文庫本は『オール・アバウト・セックス』(鹿島茂/文春文庫/2005年)。ぼくは書店のカバーをつけたまま書棚に入れているので、本の正体はいちいち開かなくてはわからない。W杯決勝戦の午前3時半までは間があるので、深夜文庫本の書店カバーはがしをはじめた。裸にむいてみると、再読したい本がぞろぞろ出てきた。そこでぼくのこの夏再読必須本10冊。以下順不同に。カッコ内の数字は第一刷(初版)の出た年。

①『死の棘』(島尾敏雄/新潮文庫/1981)。81か82に読了した本のなかの、ぼくのベスト1。島尾のいわゆる病妻ものだが、その微細な描写と鬼気迫る妻の嫉妬攻撃にぼくも身震いを禁じ得なかった。ぼくには関係ないが浮気は怖い。
②『フロスト気質』上下(ウイングフィールド/芹澤恵訳/2008)。あの下品なフロスト警部もの。『クリスマスのフロスト』『フロスト日和』と前2作も海外ミステリーの1位に輝いた。抱腹絶倒の中に緻密な計算を含み、何度でも読みたい。

③『墨攻』(酒見賢一/新潮文庫/1994)。『後宮小説』で若くしてデビューした酒見の中国英傑もの。うっとうしい梅雨に気分をすかっとさせ、底知れぬ知力に学びたい。
④『種の起源』(ダーウィン/八杉龍一/岩波文庫/1990=1895の初版が底本)。
寝床と電車を読書空間にしているぼくも、こういう学術的な内容にも挑戦する。だが、寝床と電車にはふさわしくない小難しい内容。読み通せなかった。気になる宿題本。
⑤『軍師直江兼続』(坂口安吾ほか/河出書房新社/2008)。NHK大河ドラマ『天地人』の便乗本。尾碕士郎などがこの知将をそれぞれ記述する。執筆者分だけ味が異なる。

⑥『血まみれの月』(J・エルロイ/山本宏明訳/扶桑社/1990)。映画『LAコンフィデンシャル』原作者の犯罪小説。いかにも狂犬作家と呼ばれるだけの凶暴な作風。大藪春彦好きなぼくとしては、そのバイオレンスがたまらない。『LA―』のDVDもまた見ねば。
⑦『聖の青春』(大崎義生/講談社文庫/2002)。将棋ファンはその純粋さに打たれる。
⑧『懐かしき文士たち 大正篇』(巌谷大四/文春文庫/1985)。旧作家のよき人間像。
⑨『わが屍は野に捨てよ 一遍遊行』(佐江衆一/新潮文庫/2007)。われも自然葬を。
⑩『さざなみ軍記 ジョン万次郎漂流記』(井伏鱒二/新潮文庫/1986)。独特の文体の底には毒針がひそんでいる、といわれる。再読して毒針を探し当てるぞ。

サヨナラだけが人生だ、に向かうとき
 こういうことは自分には関係ない、と若者は思っているだろうが、いずれ深刻に考えることになるはずである。お墓のことだ。秋には72歳をむかえるぼくは、自分の墓所をどこにするか、かなり真に迫った問題として頭を悩ましている。父や母の眠る代々の墓地はあるが、それは鹿児島だ。向こうに住んでいたころはお盆には必ず墓参りをしていたが、東京に居を構えてから墓参をしたのは、かれこれいつだったか、思い出せない。お墓はほんとうに必要なのだろうか。先祖を敬うには他の方法もあるのでは、と思案している。

 このあいだペン森で雑談をしているとき、この種の話になった。島田裕巳『葬式は要らない』(幻灯舎文庫)の話題から広がったわけではない。寿命の話が転じて葬式の形式をどうするか、ということになった。ぼくの家の宗派は浄土真宗なので本願寺系になるが、ぼくは、葬式は要らない派だから、海や山に骨粉を撒く散骨を希望する、と主張した。海洋葬や樹木葬で自然に還るのもいいのじゃないか。墓をつくって、命日にペン森卒業生が墓参りをしようかどうしようか、と気遣うようだと心苦しい。いっそ、墓無用、墓参も無用にして、ただこの身が消滅し、自然界に戻ったほうが、気がすむ。

 縁起でもない、お墓の話なんてやめてよ、と言われそうだが、事実「お墓でも買おうか」と言っていたひとが数日後、ほんとに亡くなった例をぼくは知っている。毎日新聞に勤めていたころ、20年勤続賞というのがあり、該当者にお金をくれた。社会部のサブデスクの1人がそのお金をもらった。「なにに使うつもりですか」とぼくは聞いた。「うん、墓でも買っておこうかと」。墓の購入が間に合ったかどうかはわからないが、その元気だった上司は40代半ばで旅立ってしまった。ぼくは20代で縁起でもない実話を経験したので、この手の話題は不吉な感じがして避けてきた。

 だが、肉体の衰えは日々に感じるところで、やがて寿命が尽きることを考えないわけにはいかない。余命いくばくもないほど切迫はしてないものの、人生の第4コーナーを回って、よろよろと最後の直線にさしかかっている。元気で余裕がある分、この世にまだ未練たらたらだ。都はるみがうたう阿久悠作詞の名曲『北の宿から』は「・・女心の未練でしょう・・」と切ないが、女には男ほど強い未練はない。恋愛でも後を引いて懊悩するのは男である。女はすぐ立ち直る。と、作家、渡辺淳一先生も言っている。ぼくも男だから女子方面に未練はあるが、やり残したことにはもっと未練がある。

 このままあの世に行ってしまっては、埋葬にしろ自然葬にしろ、ぼくの魂は行き場がなく浮遊してしまう。それほど生への執着がある。まだやってないことが多すぎるのだ。最も未練があるのは、やはり国内の旅である。これからの旅は、山でも海でも、無意識のうちに散骨の候補場所をさがしてしまうのではないだろうか。どうせなら複数ヵ所、たとえば山と海5ヵ所ずつ、計10ヵ所見つかればまあよしとする。


植村直己に冒険家といわれたぼく
 「ザ・植村直己・デー」という催しが日本山岳協会創立50周年を記念して7月24日、13:30から学術総合センター・一橋記念講堂(千代田区一ツ橋2-1-2)で行なわれる。植村直己はいまや冒険家としてのほうが通りはよいかもしれないが、れっきとした大登山家であった。国民栄誉賞を受賞したこの著名人を知らない若者も、時代の流れとともに、多くなったのではないかと思う。だが、明治大学出身者は母校の世界的に名だたるOBを誇りに思っているだろう。
 
 植村直己は明治大学農学部に入学する。新歓でどこの部に入ろうかとうろうろしているうち山岳部の勧誘ビラを手にしているのに気づき、軽い気持ちで山岳部の部屋を訪ねてみた。はじめから山岳部に入部する気があったような気もするが、ぼくが本人から聞いた入部のいきさつはそんなものだった。そこから植村の山人生と冒険人生がスタートするのである。山岳部では植村はよく転んだ。あだ名はドングリころころのドングリ。「へたり込んでいると上級生がぼくのパンツまでさげちゃうんですよ。よして!って叫んでね、また歩き出す」

 兵庫県の旧城崎群日高町にあった植村の実家と、通学した小学校を見にいったことがある。一帯は山すそに広がる農村地帯で植村の実家も農家だった。もう30数年も前のことで、列車で行ってタクシーを利用した、タクシーの運転手が実家と小学校につれていってくれた。植村の著作が駅の売店に置いてあったから、すでに地元の有名人になっていたのだろう。そのとき世界初の五大陸最高峰単独登頂を成し遂げたあとの70年前半代だった。

 明大農学部を卒業した植村は就職に失敗する。だが、就職しても出世にはなんの関心もなく、退社して山登りや冒険に向かったにちがいない。ヨーロッパアルプスへの憧れ断ちがたく、まず資金が貯まりそうなアメリカ立ち寄ることを決め、移民船「あるぜんちな丸」でロスへ渡る。不法就労で強制送還されそうになるが、ようやくフランスへ着く。その経緯すら冒険だが、かれは「冒険家」という肩書きが好きではなかった。ぼくが毎日新聞を辞めると告げると「あなたはなんという冒険家なんだろう」とあきれていた。

 植村は年上の公子さんに一目惚れして「もう山登りはしないから」と約束して結婚する。山登りはしなくなった代わりに、もっと危険な冒険をはじめる。71年には南極横断に備えて、その距離に見合う稚内→鹿児島の3、000キロを51日間かけて歩き通す。74年12月から76年5月に北極圏1万2、000キロ、犬ぞりでの走破を果たす。犬ぞり探検の前には、数ヵ月間エスキモーと共同生活をして、体をならし食生活もなじませた。

 植村が84年43歳にしてマッキンリーで行方不明になった。この偉大でぼくとつな善人もゴキブリは苦手だった、と公子さんから聞いた。植村の最終的な夢は、北海道で野外学校のような寺子屋を開くことだった。ゴキブリの北限はあるのだろうか。植村が行方不明になって26年、ぼくはペン森という寺子屋をはじめて15年たった。



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