ペン森通信
「本田空気」がW杯の最大効用
 だれが知ろうか、ぼくは半世紀以上も前からサッカー好きである。高校時代、母校の試合をただ1人応援していた。ぼくの出身校は純然たる受験校で当然、野球もラグビーもサッカーも弱かった。ぼくの在学中、サッカーだけは県大会の上位にまで勝ち進み、まあまあの実力だった。土埃の舞うグランドでわが高校は執拗にサイドからクロスを上げる攻撃を繰り返し、それがときときどき決まった。ぼくはサイドラインのそばに立って、声援をあげるでもなく地味に試合展開を見守っていた。どたどたと鈍い音をたてて目の前のグランドを駆けるクラスメートの足音は耳が憶えている。

 どの放送局もW杯報道がすごいが、Jリーグができる前も前、テレビ東京を東京12チャンネルと呼んでいたころ、12チャンネルだけが土か日の午後6時からヨーロッパのサッカー試合をビデオ放映していた。解説はのちに日本サッカー協会の最高顧問に就いている歯切れのいい美声の岡野俊一郎氏。岡野氏は1968年メキシコ五輪で銀メダルに輝いた日本サッカーチームのコーチだった。五輪の銀獲得で国中が沸騰したかというと、岡田ジャパンの予選リーグ突破の騒ぎに比べて、そうでもなかった。今回にわかサッカーファンになったひとも多いと思われ、日本代表の敗北によって急に興味を失うひとが少なくないのではないか。

 ひとが興奮して盛り上がると、身をひいて斜にかまえるのが、昔からのぼくの性格。曲がった性格かもしれないが、大勢に同調迎合せず、山本七平が鋭く指摘した「『空気』の研究」の「空気」に流され染まる傾向はあまりないと考えている。みんなが一定の方向に向かっていき、理屈では止めようもない全体の抵抗なき奔流、が「空気」である。今回のW杯では日本はもうゲームできない。それをきっかけで熱狂が明らかに潮の引くような状態になったら、「空気」に支配された部分があったといえるだろう。政策は変わってないのに民主党の支持率がV字回復したのも、「空気」がかかわっているにちがいない。

 それでも、日本代表の活躍で日本中が湧いたのは、未来に希望がなく、どんよりした日本にいっときの晴れ間をつくってくれたからだ。ガス抜きの効果はあった。テレビを通じての印象だが、興奮して燃えたのは日本では他国よりも圧倒的に若者が多かったのではあるまいか。高校野球は高校生の不良化防止にかなり貢献した一面があった。高校球児の不良行為に厳しく対処してきて、体格のいい欲望旺盛な青少年の暴発を抑制してきた。サッカーは選手ではなく、フーリガンと呼ばれる暴徒的なファンが警戒され、チームの周辺が騒がしい。デンマーク戦のあと渋谷にあふれた若者は「空気」に酔っていた。

 ビッグマウスと称される本田圭佑は、ぼく好みの選手。1人でヨーロッパに渡った前向きの勇気と優しさを隠した肉食性は大したものだ。メディアはこぞって持ち上げ「本田空気」を醸成し拡大しているが、それに接した内向きの日本男子が喝を感じて発奮してくれれば、それがなにより日本にとってW杯の効用である。








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最小不幸と最大幸福
 飲み仲間の先輩記者は、引っ越し魔だと思われている。6,7年に1回、移転する。だが断じて、引っ越し魔ではない。「うちのカミさんは掃除が大っきらいなの。うちの中にごみがたまって汚くなると、家ごと変わろう、と。それを繰り返しているわけ」。先輩は決してきれい好きではないが、妻の奇癖に結婚してから気づき、さぞ驚いたことだろう。今度、結婚して7回目の移転をする、と言っていた。「奥さんに掃除しろ、と言えばいいじゃない」「そんなこと言えるかよ。相手はおれのあの怖いカミさんなんだぜ」

 先輩の3回目か4回目の家は横浜の新築マンションだった。上海ガニが中国から生きたまま届いたというので、それを肴に飲むことになった。奥さんが大釜でゆがいていると、ふたを押しのけてカニがわらわらと出てきて、座敷を右往左往しはじめた。必死の逃亡だから、けっこう動きが素早かった。飲み助の男たちが、四つんばいになって捕まえ、ふたたび熱湯たぎる釜にいれ、ふたを固定して、すぐカニは死滅した。残酷な肴のできあがり。甲羅を剥いで、足をもぎ、バリバリと解体して、小さな身を口にいれた。

 たぶん、酢をつけて食べたと思う。若くして亡くなったぼくの母親は、カニと伊勢エビに夢中だった。カニは南九州だったから、タラバや花咲や毛ガニが手に入ったわけではないし、その記憶もない。それは母親の食い物好きの女性らしい夢や憧れだったのではなかったのだろうか。どこから入手したのか、伊勢エビは、よく味わった自然のうなぎほどではないが、身がみっしりと詰まっていたのを食べた思い出がある。身をむしって口にするよりも、ぼくはみそ汁でカニも伊勢エビもいただきたい、といまも考えている。

 なぜなら、みそ汁で一杯というのが、ぼくはたまらないのだ。カニや伊勢エビに豆腐とネギを入れる。もう昼間から飲みたくなるじゃないの。しかしね、土産に高価なふぐの厚い半身を何枚ももらって帰宅したことがあった。細君が翌朝、みそ汁の具にして食卓にだしてきた。「お、お、ふぐだぜ、これは」「そんなこと、知らないもん。煮ればいいんでしょ」。煮ても淡白な味の白身だったが、ふぐは刺身にかぎるよ。と、思うのは固定観念か、
ふぐのみそ汁なんて新メニューがあってもおかしくはない、と柔軟に発想するか。

 さて、参院選がはじまった。菅直人総理は「最小不幸社会」の実現を唱えた。上海カニ、伊勢エビ、ふぐで酒を飲む。年に1,2回旅先でそれが実現できれば、ぼくにとっての「最大幸福」だ。「最小不幸」って、どういう意味?年収300万円そこそこのぼくが、上海カニ、伊勢エビ、ふぐで飲むのは、最早はるかな夢である。でもこれをもって最小不幸、とはいえまい。最大か最小か、幸福か不幸か、その区切りはあるのだろうか。カネだけの問題ではなく、人間関係や健康や年齢、他人との相対化も関係してくる。

 71歳のぼくは、ペン森で若いひとに囲まれている。これは最大幸福だ。無償持ち出しだが、悔やんだことがない。先輩記者は引っ越す前は最小不幸、新しい家に引っ越したとたん最大幸福に転じるらしいよ。

10を取材して1を書け
 9月末から週1回、の中央大学キャリアセンターが催すマスコミ志望学生向けの論作文講座の講師をまた務める。また、というのはもう10年近くつづけているからである。受講生は年を追うごとに減っていき、去年は17人にすぎなかった。毎回、欠席が目立った。この講座からメディアに就職して、活躍しているひともは少なくない。

 ことしは新しい試みとして、課題図書を指定し、それについての感想文を課して、提出した者にだけ受講資格を与えようかと考えている。この制約を超えてくる学生がはたして何人いるか見当がつかないが、楽しみではある。19日の日曜日、毎日新聞の書評欄にあった『生き方の不平等』(白波瀬佐和子 岩波新書)を課題図書にしようと思っている。
 
 まだ読んでないけど、生き方に不平等がある、ということだから、貧困や格差の固定化や階層化を取りあげているにちがいない。06年のNHKスペシャルの『ワーキングプア』をきっかけに、働く層の貧困があらわになった。社会の深層に視線を注ぎ、そこから問題をあぶりだした傑作番組だった。東北の雪の中をひたすら歩く象徴的なシーンは、映像ならではのインパクトがあった。

 ペン森から『ワーキングプア』のようなルポ記事を書いてくれるような鋭角的な記者はでないものか、と思う。そのような記者になるには、実社会の底辺や下層に現われる断片が社会全体のなにを意味するかを見抜く眼力が要求される。ヘミングウエーは「文章は氷山の一角である」といったが、表に出たほんの一部の裏や奥に隠れた大部分の存在があればこそ、一部が光る。その一部から全体像を見透かす目が記者には必要ということだ。

 ぼくが記者になったころ、10を知って1を書け、とうるさい上司がいた。そのときはなんとしつこくうざいやつだろう、と毛嫌いしていたが、いまでは納得だ。ぼくがサンデー毎日のデスクをしていた当時、あまり取材しないで修飾過多の感傷的な文章を書くライターがいた。事実だけを残すように削っていったら、その原稿は3分の1に減少した。かれは1を取材して、10を書こうとしたのである。1を表現するには、その奥に10の取材がなければならない。上司はあたりまえのことを強調していたのだ。

 ぼくがペン森で厳しく繰り返しているのは、ES(エントリーシート)や論作文は1を知って10を表現してはだめ、ということだ。女子大で教えていた時期があったが、彼女たちの書くスピードはすごかった。なんにも考えることなく鉛筆を滑らすだけ。思考ゼロ。ぼくの胸にはなんにも響かない。表現の裏には思考という精神作業が必要なのだ。学生にネタ仕込みに出かけろ、その努力を怠るな、と注文するのは、ネタを見つけるという取材とネタに対する思考が、目に見える部分を支える、底の部分にあたる、ということである。『生き方の不平等』でなにを考えたか。考えたことが10の部分になる。












猫とブタキンは食べたが、犬はない
 近所の川べりの狭い遊歩道を歩いていると、世の中にはなんと犬好きが多いのだろうと驚く。朝、駅へ行く途中の公園では小型犬に衣装を着せたおばさんたちが数人、いつも雑談をしている。犬の体を赤いチョッキみたいなもので巻いて保護しているつもりだろうが、犬は毛皮をまとっているから、それだけで暑いだろうに。だが、犬が気の毒だ、とは思わない。ぼくは大体、犬を避けて通るが、親しげにじゃれてくる犬は蹴飛ばしたくなる。小学低学年のころ寝そべった犬をまたいだら、突然ふくらはぎを噛まれた。それ以来、犬は大嫌いだ。むしろ、うらんでいる。

 犬公方綱吉の「生類哀れみの令」の時世であれば、ぼくなんか息をひそめていなければ生きられない。国民新党の亀井さんは死刑廃止論者だが、綱吉の時代だったら死刑になっていたはずだ。東大生のころ5月祭だかで、犬を食べたからね。犬を食料にする中国人なんかまとめて死屍累々たるものになる。聞くところによると、赤毛の犬の肉がおいしいらしい。ぼくの旅仲間の女子は中国のいなかで、犬汁のお代わりまでして美味美味だと絶賛したそうだ。「この犬肉は買ってきたのですか」「いや、きのうそのへんを歩いていたのがいたろ。それをさばいたのだよ」

 東京に近い港町で「帰省したら町から犬が消えていたんですよ。うちの隣の犬も忽然といなりました。船を洗浄する中国人労働者が食べたのでは、という話です」とペン森女子が騒いでいた。ぼくは見晴らしのいいホテルの部屋をとって、一泊で見にいった。まずそば屋のおばさんから聴取。「この町は犬を見かけませんね」「おやそう、多いよ。町はずれにいくと飼い犬が野犬化して夜などあぶないですよ」。単に野犬化して見かけなくなっただけの話のようだった。ホテルの窓からは夕方、散歩をさせているひとがいたし、噂とか風聞の類だったのだろうが、これも中国人が犬を食するという異文化の浸透による。

 ぼくは犬を食べたことはないが、猫は食べたことがある。50年前の学生時代、大学への通学路にまだ、バラック建ての飲み屋が建ち並んでいた。新宿西口商店街はずいぶん小ぎれいになったが、池袋西口には長い間、それこそゴールデン街を小汚くしたような飲み屋が軒を連ねていたのである。ぼくはそこでよく飲んだ。焼き鳥でハイボールを飲んでいたら、肉が硬くて飲み込めない。店の土間をみると、猫の皮だけの死骸があった。ブタキンというのも食べた。ブタのきんたまである。丸いのを小さく刻んで出され、酢醤油で食べるとこりこりとあまり味はなかった。

 秋田の比内地鶏で有名な比内地方は、マタギ猟師の里である。ここのマタギたちは犬の生皮を外側に毛のほうを内側にした自家製の防寒コートを愛用していた。「これを着てると、犬が怖がって近よらん」。そのコートを地元の商店で売っていた。あれを買っていれば、いまや犬のほうからぼくを避けたのに、心残りである。


新書礼賛ブックガイド
 電車とベッドがぼくの読書空間だから、重厚な単行本はあまり向いてない。中身が厚く濃いのはベッドでも電車でも眠気を誘うから、困る。高い評価を受け、これが新書ではもったいないとまで言われた内田樹著『日本辺境論』(新潮新書)も、どこか居住まいを正して読まねばならないような碩学の書だ。多彩な引用にはかつて耳目にした本や人物が登場するが、その中身まで記憶にないから、そこでつい立ち止まってしまう。日本辺境論とは、要するに世界に中心をもたねば安心できない日本人論、であるが、読了まで時間がかかった。けっこう難儀した新書だった。以下は、最近読んだ新書について。

 いま電車で開いているのは『関ヶ原 島津退き口―敵中突破300里』(学研新書)。ぼくは薩摩人だし、関ヶ原における島津の奇矯な行動は司馬遼太郎の著書で知ってから、多大の関心事だった。書き出しに記された「もう15年以上前の夏、私はいわゆる『島津の退き口』のルートを実地に踏破するという貴重な体験をした」という2行に引かれて購入した。実地に踏破という表現に、信頼性を感じたのである。島津は関ヶ原合戦の最中、三成軍に属しながら、家康、三成のどちらにも与せず戦場に居座り、一気に脱出を図る。

 その一部始終がつぶさに記述してある。あくまでも多くの史料に則して展開してあるので、物語を盛り立てる装飾的サービスは少ない。ドキドキハラハラ感にはやや間遠なところがあるものの、歴史の裏づけはきっちりとしていて、事実の意外性だけでも血湧き肉躍る。歴史好きにはたまらない1冊だろう。歴史好きならずとも、初めて知ったという内容が満載で、目から鱗の新書が『大名行列の秘密』(NHK出版 生活人新書)だ。これは歴史を固定した藩や藩主とその周囲の確執ではなく、移動としての藩主とその行列に光を当てたところにぼくは脱帽した。歴史の移動場面だけに絞った名著である。

 脱帽せざるをえないという読後感をもったのは、『天才 勝新太郎』(文春新書)であった。その帯にいう。「巨匠・黒澤との決裂の真相――新たなる“勝新伝説”の誕生『俺は座頭市だ』」。勝と黒澤の対立は、大きく言えば芝居観というか撮影観の隔たりによるものだが、黒澤が『影武者』を演じる勝に対して「降りてもらいます」と宣告するまでのいきさつが詳述してある。もちろん主たる内容は、俳優・勝新太郎物語である。わがまま身勝手な天才ぶりが、エピソードをまぶして描写してあり、いかにも勝は座頭市になりきっていた。ぼくは汗がむんむんする勝座頭市のほうが、金髪朱鞘の北野座頭市よりもリアルで好きだ。毎週4本DVDを借りているが、勝座頭市はいままで2,3本しかない。残念。

 最後に野中広務・辛淑玉対談『差別と日本人』は、辛淑玉のインタビューが秀逸で、内容からして全員に一読を勧めたい。『日本辺境論』と同じく、鋭く身につまされる日本人論だ。まったく別の話だが、ぼくは『島津の退き口』にあった「ルートを実地に踏破した」というくだりに平手打ちをくらったように硬直した。宮脇俊三著『最長片道切符の旅』のルートをなぞる旅をしないまま、同行を申し出てきた女子もいたのに、ただ月日がすぎていくからである。このことに気づいただけでも、ぼくにとっては新書さまさまなのだ。


ばあさんの立ち小便
 正田篠枝という広島の被爆歌人のことは、ずっと以前にこのブログで書いた記憶がある。女子大で授業をもっていたとき、広島が被爆した直後に詠んだ自家製歌集『さんげ』を毎年教材に使い感想文を書いてもらっていた。
     ズロースもつけず黒焦の人は女か乳房たらして泣きわめき行く
 そのなかの一首だが、女子大生から必ず質問があった。
「ズロースってなんですか」

「えっ、知らないの?風呂にはいる際、君たちが最後に脱いで最初に履くものだよ」
最後か最初か、順番は観察したことがないから定かでないが、まさかパンツを最初に脱ぐひとはおるまい。ズロースとはパンティあるいはショーツの旧式形状である。役割は、陰部を覆い隠すことでパンティと同じだが、むかしは厚手のもめん生地だった。股上も深い超ローレグ。だが巷間、最近の女子に見かける、人力車引きの股引状のスパッツほど腿をおおってはなかった。私見では、色気またはエロ度または可愛い度という点では、布地を最小限にしたパンティまたはショーツのほうが目立つ。ぼくが利用するスーパーの実用品売り場の会計がカラフルな女性下着売り場の隣なので、この印象には裏づけがあるのだ。

 戦後まで、日常的にズロースという言葉は使われていた。ズロースは、戦時中は当然、戦後もしばらくは、女性の下履きだった。小中生時代、女子が学校の廊下に雑巾がけをするとき、スカートをズロースの裾にたくし込んで「く」の字のとんがりが真上になるように腰を上げた状態で、雑巾を押し、滑らせていく風景がけっこう見られた。ぼくはテレビでカーリングを目にすると、女の子が廊下を磨くその光景を思い出したものだ。ついでに田舎の畦でばあさんが尻をからげて、立ち小便をしていた光景もよみがえってきた。ばあさんの立ち小便や人前で若いお母さんが授乳している眺めもいまは見ることもない。

 和服の日本女性は腰をぐるりと巻く腰巻きを着用していた。陰部は外気に触れていたので前傾姿勢で尻を出して足を開き、立ち小便もできた。ズロースを履くようになったのは、1932年の日本橋白木屋デパートの火災がきっかけだったという通説はよく知られている。女店員たちが上階からロープなどを頼りに避難するさい、腰巻きがあおられてまくり上がって、下の野次馬に性器までモロ見られてしまう、恥ずかしがって手を放して落下し犠牲になった、という説。それは事実無根であると「美人論」で有名な、好色家の井上章一教授が『パンツが見える 羞恥心の現代史』(朝日選書)で証明している。

 ところでぼくは、昔の一時期、ふんどしを愛用していたことがある。それもピンク色。家人が干すのが恥ずかしいとあまりに文句をいうものだから、ブリーフやらトランクスやらを経て、いまは黒やブルーのボクサーブリーフ。でも、どうも老化現象とともにふんどしへの回帰心がふつふつと湧いてくる。昔はデパートで売っていたが、いまも売っているだろうか。ジーパンの下はふんどしなんてかっこいいじゃないの。だれにも見せないよ。見たくもないか。

未来の趣味は非文明的
 自慢ではないが、ぼくはほとんど趣味のない老人である。でも、数少ないながら珍しい趣味をもっているといえるかもしれない。6日の日曜日は晴れわたって空気も乾燥していたので、これうれしや、早朝からふとん干しをはじめた。屋根つきベランダの柵にぞうきんをかける。先端の下部に野鳥の糞が付着していたりするので、手抜きはできない。乾いているとはいえ、ふとんの縁に糞が付いちゃ、干した意味がない。もうひとつ家庭的な趣味は買い物。休みの日は必ず、スーパーや100円ショップを覗く。スーパーは家人の使いということもあって、食材購入が多いが、以前料理を楽しんでいたころの名残でもある。
 
 あと、読書、旅も趣味に入るだろう。ぼくの場合、女子も特別に趣味の部類に加えていいのかもね。女子に関しては、これまで散々書いてきたので、ここではやめておこう。映画や本の好きなひとと出会うと、このひとと知り合ってよかった、と真に思う。ぼくが毎日新聞に入社し感謝しているのは、社内に教養豊かな記者があふれていた、ということである。江戸や西部劇や革命など場違いな専門領域をもった個性派がぞろぞろいた。事実、大学教授に転身したのは各社のなかで毎日が最も多い。それは、定年が55歳と早かったので、必死につぎの食い扶持をさがしたせいであったのだが。

 周囲の知的レベルが高ければ、つられて自分も高められる。ぼくは教養も知性もある女子が大好きだから、女子のほうから文学やノンフィクションや古い洋画の話をしてくれば嬉々としてしまう。ジョージ・オーウェルの『1984』はおもしろいですね、というひとがいた。むかし、途中で読むのを止めた退屈な絶対主義批判本だったから、あわてて再読をはじめたら、めっぽう刺激的な内容の興奮本だった。村上春樹の大ベストセラー『1Q84』の話題を振ってくる女子はいまのところいないから助かっている。読んでないし、ベストセラーは読もうとも思ってないへそ曲がりだから。

 ペン森の内定率の高さは、ペン森内にたゆとう意識の高い空気がおおいに与っているに違いない。夜はばか話で盛り上がるが、それはメリハリというもので、1日中、論作文を書いたり、ジャーナリズムの未来や作文のネタ仕込みの話題を熱く語っていては、平板になって飽きがくる。趣味は人生にとって重要なメリハリになる。ペン森は書く精神作業を重ねる昼間があって、楽しい飲食の夜間がある。ぼくの添削も女子や旅があるから、シャープさも増す。趣味は当人に付加価値をつけ、実質を深めてくれるものなのだ。ふとんを干した夜、寝るときの気持ちよい幸福感は、よき趣味をもつ充実感とつながる。

 何十年も前のマンガに、未来の幸福を描いたのがあった。休日、人糞の肥料桶をかついで畑仕事にいくという部下に、上役のサラリーマンが「なんと幸福なのだろう」とうらやむ。未来の幸福とは、たしかに非文明的なものかもしれない。でもぼくは、非文明的な土いじりよりも、女子のほうがいい。今回もメリハリに欠けるブログでごめんね。

有害老人宣言をした
 おととしあたりから、人生これでいいのか、と迷いが生じてきている。有名人でも、公的な立場でもないのに、ぼくは自由を抑制してきて人畜無害のふしがある。ゲーテはベッドに臥しているときもっと光を、と言ったというが、それは深遠な思慮や哲学的な思索から出た言葉ではない。窓の外を通る美少女がはっきり見えるように、ローソクの位置をずらしてくれ、と頼んだというのが真相らしい。ぼくは、そろそろ自制をゆるめても、神はよくこれまで我慢した、と有害度を増すことを許してくれるのでは、と勝手に考えた。

 生者必滅 会者定離(しょうじゃひつめつ えしゃじょうり)。生きている者は必ず滅びる、出会う者は必ず別れる。この場合の別れとは、死を意味するだろう。すべての生き物は生命が与えられたとき、すでに死へ向かっている。こういう定めの仏教用語が身に浸みる老境にぼくはさしかかった。人生の先が見えたとき、高潔に生きるか、猥雑に生きるか、大きく2つの方向が見いだせると思う。聖人でないぼくは断然、後者だね。建て前ではなく、自然に本音ですごして、生者必滅の日を迎えたい。

 友人のなかに、食事に異常にこだわる男がいる。「残りがあと10年とすれば、1日3食として1万950食しかない。1食1食にいかに執着するか、というのがおれの主義」。ずっと昔、付き合いのあった老作家は有名女性の陰毛集めに熱を入れ、蒐集したものを額に入れて自慢していた。「引き抜いてもらいたい、一生のお願いだと懇願すれば、大抵OKだった。ほれこれは女流作家某、こっちはあの大女優某のだよ」。老作家は無害な変わり者で通っていた。一生のお願いとはいっても先行きは知れていたのだ。数年後、亡くなった。

 陰毛と聞いて、笑っちゃいけない。戦争中、日本兵は恋人や妻のそれを大切なお守りにして戦地に赴いた。生きては帰れない、と覚悟はしていても、やはり生き抜いて恋人や妻の元に帰りたかった。女性は生きて帰ってほしいから、陰毛を紙に包んで差し出した。決死の時代に比べれば、いまはなんと平和平穏にすごしているのだろうか。ぼくは女子と旅さえできる。無害だから、それが可能なのだ。ところが、有害ホルモンは活発に動いているのだ。これから刹那的に有害度を発揮してみたい、と思ってみるんだけどさ。

 しかし、ぼくは小心な心配性でもある。有害老人宣言をしたところで、「最低でも県外」の鳩山公約と同じになる予感がある。鳩山公約は公約というより願望にすぎなかった。井上靖に『あすなろ物語』という作品がある。あすなろう、という木は、あすは檜になろう、とあてにならない期待をかけ続ける。ぼくの場合、有害から無害ではなく、その真逆だから、やや趣が異なるが、なに有害といってもゲーテのローソク程度、たかが知れている。女子が旅の同行をしてくれなくなったら、人生の楽しみがなくなるからすぐ無害にもどる。鳩山迷走と変わらない。あすなろう、あすなろうと切望しながら、結局は中途半端なまま必滅するのであろうか。せっかく70年以上も生きてきたのに、これでいいのか。

ふるさとの訛りなつかし
 これだけ放送メディアが発達して日本中を同じ色に染めてしまうと、独特の地方色もどんどん薄まってくる。いまから50年前の学生時代はまだまだ方言も残っていた。ぼくは山形でおばさんに目的地までの道を聞いたところ、強い訛りのために聞き取れず、さっぱり要領をえない。ついにあきらめて歩きはじめ、100㍍も行くと、目的地に着いた。50年前はそれほど地方の言葉が独自性をもっていた。

 「ふるさとの訛りなつかし 停車場の人込みの中に そを聞きに行く」。ご存じ石川啄木の歌である。啄木は岩手県・渋民村で少年時代をすごすが、まだ放送メディアが普及してなかった明治時代、訛りはすごかっただろうと思う。停車場というのは上野駅のことだ。上野駅は東北からの列車が発着していて、東北からそのままふるさとの訛りを車内に乗せて、東京に着いたのである。

 ペン森には出身県の異なる学生が集まるが、いまや言葉に訛りはなく、その若者の地元が京都なのか青森なのか福岡なのか区別ができない。大学生になる前からテレビで標準語を聞いて育ってきたので、上京するとあっという間に標準語になじむのだろう。ぼくは学生時代、鹿児島―東京間を各駅停車で往復していたが、通学通勤客による朝夕の混雑時、地方地方の方言やアクセントの変化を耳にするのが楽しみだった。

 いま関西や東北を通ると、学校帰りの高校生が、いかにも地元言葉丸出しでしゃべる場面によく出合う。柔らかな関西弁や鼻にかかったような東北弁が東京ではあまり耳にできない。それでも関西弁や関西訛りは、関西に本社のある会社の社内、周辺の食堂や居酒屋で聞くことがあるが、東北訛りは地元に行かないかぎり、耳にはいってくることはない。関西のひとは自信をもっていてそれだけ、東京に染まりたくないのかもしれない。

 ぼくは両親が鹿児島でぼく自身は中学生まで宮崎の農村で育った。高校は鹿児島だったが、大学生のころ親父の言葉がよくわからないときがあった。宮崎は東国原知事や口蹄疫問題の畜産農家の言い回しでもわかるように、鹿児島弁ほど訛りが強烈ではない。薩摩藩は江戸時代、外様の雄藩であった。幕府のスパイが藩内に侵入しても、言葉ですぐ身元が判別できるように人工的に独自の言葉を使いはじめたという説もある。

 第二次大戦末期のころ、この難解な鹿児島弁が暗号みたいに使用された例がある。盗聴されては困る軍事内容を日本軍が早口の鹿児島弁でやりとりしたところ、暗号解読や盗聴技術のあったアメリカはなにを言っているのか、さっぱり理解できなかった。最後まで何語かすらわからなかったらしい。鹿児島ですごしたぼくでさえ父親の言うことが?!だったのに、アメリカ人に通じるわけがない。日本にもおもしろい知恵者がいたもんだ。




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