ペン森通信
人生思い残しがないよう四国へ
 ペン森3期生の父親が亡くなった。きのう27日、葬儀に行ってきた。父親は葬儀場の予約を生前、自分でやっていたそうだ。勤めていた生命保険会社の同期生が弔辞を読んだ。心情にあふれた名弔辞にぼくはあやうく場違いの拍手をしそうになった。昭和41年入社ということだった。ぼくは37年入社だから、故人は4歳下になる。ほぼ同年代である。豪快な日本酒好きだったという。日本酒好きはぼくと同じ。ただぼくは、酒の上でエッチ方面の話をしがちでこの点、ひんしゅくを買っているところが異なる。

 故人は享年67。若すぎる。やり残したこともあったのではないか。『週刊文春』を買いこんで電車に乗った。いつものように旅紀行「今週のお泊まり」をまず読む。温泉宿などの宿泊体験コラムである。「しまなみ海道と瀬戸内海を見渡す 愛媛の料理宿『大潮荘』」が紹介してあった。「大潮荘」にぜひ行かねば。ぼくはこのところ、先延ばしをしないで限られた人生を愉しまねばと思いはじめている。しまなみ海道の「大潮荘」にいきなり胸をつかまれた。

 尾道と今治を結ぶしまなみ海道は、ぼくにとって未知の、橋でつながれた道だ。今年4月、孫娘をつれて広島に行ったとき、ペン森を卒業したての女子記者が愛媛の松山から母親の車でやってきて合流した。ぼくが山陽本線、東海道本線を各駅停車で乗り継いでいた学生時代、新幹線も瀬戸大橋もなかった。四国は山崩れの災害取材で訪れたことはあるが、行く機会のない遠隔地の印象のまま、今日に至っていた。松山の女子がしまなみ海道を通って広島にきて以来、しまなみ海道がしきり気にはなっていたのだ。

 「大潮荘」は今治の、しまなみ海道の付け根にあたる丘の上にあって、その丘は瀬戸内海に突き出すように出ているらしい。絶景が約束された宿である。ぼくは一種の海フェチときているから、瀬戸内海を見やりながら酒を飲みたいという願望がつのった。かなうことなら、お気に入りの松山女子とここで飲みたいものだ。来年春、孫娘との旅のコースに入れる手もある。孫は未成年で飲めないのが難点だ。でも、しまなみ「大潮荘」は年内、6,7,8,9月のあいだに行かねば、と葬儀中に考えていた。

 尾道からしまなみ海道に入るとすれば、尾道に赴任している10期男子記者の車に同乗という流れになる。かれはぼくの中大ゼミの教え子でもある。無理をしてでも四国めぐりまで付き合ってくれるだろう。松山は日本最初の捕虜収容所が開設されたところで、日清戦争、日露戦争の捕虜が収容されていた。日露戦争ではロシア兵6000人が温泉入浴OKなどの厚遇を受けたが、98人が松山で亡くなった。来迎寺に墓地がある。墓石はすべて北の方向、ロシアを向いている。第二次大戦で英国人捕虜にゴボウを出したら、木の根を食べさせた、虐待だと猛抗議された、という収容所も四国だったような。人生思い残しがないよう、作文の四国ネタ仕込みもしっかりやって、ペン森生を刺激したい。

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無言館は無言にして雄弁だ
 あす26日から六本木の国立新美術館で「オルセー美術館展」が開かれ、ポスト印象派作品群が勢揃いする。地方の美術館には旅の途中に立ち寄ることも多いし、わざわざ訪れることもある。オルセー展にはぼくも行くが、東京の有名美術館にわざわざ行くことは、めったにない。わざわざ行く地方の美術館といえば、熱海のMAO美術館がある。ここは山の頂上付近をくりぬいたような施設で、全長300メートル近い長大エスカレーターに圧倒される。館外から見る熱海市街と海の景色もすばらしい。モネの『睡蓮』やレンブラントの『自画像』などが常設されている。何億円もするような世界の珍しい古代の発掘品も目を引く。

 ここ十数年前から年に1,2回訪れるようになったのが、山梨県立美術館だ。この美術館はミレーの作品が数多く常設されていることで知られる。『落ち穂拾い』『夕暮れに羊を連れて帰る羊飼い』などといっしょにもちろん『種をまく人』もある。ぼくは、種をまく人、であると自覚しているから、その自覚を再認識するため甲府に行く。宮崎の口蹄疫被害、猛々しい種牛からイメージする種ではなく、若者にジャーナリズムの種を植えるという意味の種である。そういえば小学低学年のころ自宅前の農家に種馬がいて、種付けの様子をよく眺めていたことを思い出した。いや、ここではそれはまったく関係ない。

 山梨県立美術館のある芸術公園に建つロダンやマイヨールの彫刻に見とれて、バス通りに出ると「小作」という、うまいほうとうの店がある。帰りに寄るのが癖で、かぼちゃほうとうをふうふういいながら酒を飲めるのがたまらない。東京から日帰りでも十分だから、女の子も気軽についてくる。で、ほうとうで2杯3杯というわけ。いつものように『種をまく人』を写したファイルやポストカードなどを買ってまことに満足な1日となる。ミレーをはじめとする「バルビゾン派」に関心のある人はこの県立美術館の存在はとっくに承知しているだろうが、「バルビゾン派」の絵画から土の匂いを嗅ぎたいひとは行くべし。

 長野県上田市郊外にある「無言館」も美術館である。ペン森卒業生のなかにはここに展示されている戦没画学生の遺作絵画を作文に書いて、いまや押しも押されもせぬ、りっぱな記者になっている者も3,4人いる。ぼくが最初に行ったのは、4期生と合宿の帰りに寄った十数年前だ。4期生は大騒ぎをしながら車3台に分乗していたが、「無言館」からの帰りはしんとして、まったく無言だった。作品を観て敬虔な気持ちになったのだろう、展示されている絵は家族が取り置いて保存してきたものだ。同年齢の若者がいのちを散らす前にキャンバスに向かった遺品ばかり。深閑とした館内には年配者のすすりなきの声も聞こえ、無言にして絵の向こうから雄弁になにかを訴えてくる、とても切ない美術館だ。どの美術館の名画もすべて雄弁ではあるが、「無言間」の絵は趣きが異なる名画である。

 若いひとには「無言館」を2時間覗いてみるといい。ペン森生の定番ネタ場。近年、観光バスも来るようになってやや騒々しかったりするが、その美術館でなにを感じ、なにを考えるかを自分に問うてもらいたい。

男は定食に飽き外食を求める
 『瀬下塾ジャーナル』という身内の小冊子の送り先を確認するため、ペン森卒業生からきた今年の年賀状約70通を整理していた。家族写真をプリントした年賀状がますます増え、19通をかぞえた。結婚式も6通。このカップルは家族写真の予備軍だ。再来年あたり、にっこり笑って赤ん坊を抱いた写真をプリントしてくることだろう。まだまだ子どもは全体に小さい。小学生までの子どもはかわいくて、ほほえましい。反抗期になった中学生の子と家族いっしょの年賀状は一般に見たことがない。

 結婚式や披露宴の写真は新郎新婦が燕尾服とウェディングドレスというのがほとんどだ。ウェディングドレスの花嫁姿は、その女性の女子高生的キャピキャピ状態に接してきた身としては、うそではないかと思えるくらい清楚で美しい。たぶん、適度の緊張感が含まれ、内側から立ちのぼる歓喜が発散しているからだろう。結婚式の写真の中に新郎が紋付羽織袴、新婦が文金高島田を白い角隠しでおおったのがあった。この純日本風の伝統礼服は、いまどき珍しい。新郎新婦は正座して正面を向き、まことにりりしい。

 ついこのあいだ、四国に勤務する某くんが、新しい彼女をつれてペン森を訪れた。新しい彼女、というのは、彼はペン森の某女と付き合っていたからである。その某女と交際していることを某くんはみんなの前で発表した。この美女はおれの専有、手をだすな、と。あまりに堂々としているものだから、おかげでもうひと組の新カップルは交際しはじめたことを言いそびれてしまった、とあとで知った。某くんの赴任地は奇しくも某女の実家のある地方都市だったから、これは絵に描いたような愛の偶然だとみんな次の展開を期待した。

 しかし、いつしか二股をかけていたらしい某くんが、某女の実家に挨拶をすませたあと、もう一方の勤務地が同じ他社の女性に乗り換えていたことがわかり、次の展開は某女の失恋という幕切れ。ぼくは某くんと某女はいずれ別れるとみていた。某くんと某女とはそれぞれ就職すると遠距離恋愛になった。アニマル性が強く食欲旺盛な健康体の某くんは、彼女が遠くにいては体が保たないだろうと観測していた。男は定食に飽きて外食を食したがるという癖がある。ぼくも自分の外食指向は否定しないが、雑食性に欠け鮮度美麗にこだわるあまり、美味とは縁ないまま老人に達した。アニマル某くんの食欲がうらやましい。

 某くんは新彼女と結婚に至るだろうか。あやしい。ぼくは彼や彼女をしばしば紹介されるが、たいてい結婚式のときは違う相手となっている。ペン森同士のペンラブを通してゴールインしたケースはほんの5例しかない。男女どちらかがペン森生の結婚式は年に7,8組だが、離婚例は1組にすぎない。その代わり、独身時代の男女のもつれはかなりあるように感じる。男も女も紆余曲折のドラマを経て夫婦になるのである。夫婦になっても男は外食を求めたがるから、女性陣は定食に磨きをかけると同時に、注意と監視を怠りなく。

将来は日米安保より日中安保だ
『文明の衝突』で知られたハーバード大学のハンチントン教授は、東西冷戦終結後の世界は民族紛争や地域紛争が絶えず、宗教対立が起こると予見した。イスラム圏とキリスト圏が衝突すると推測したこの説は、あまりにも乱暴だと冷笑する向きもあった。だが、現実は同時多発テロの9・11が象徴的にあらわしたように、世界はイスラム圏とキリスト圏の深刻な対立状態におちいったままである。ハンチントン教授の予言は当たったとみるほうが賢明だろう。

 ハンチントン教授は日本についてこんなことも言っていた。日本は歴史上、大国に依存してきた国である、最初はイギリス、次いで戦後はアメリカに寄り添い、将来はきっと中国にくっつくに違いない、と。この日本観もはずれてはいない感じがする。ぼくは中国の劇的な成長ぶりとなりふり構わない貪欲な吸収力、投資意欲からみて、やがて日本は中国に飲み込まれるのではないか、と予測している。

 日本はいまでも、アメリカの属国のような存在で軍事的にその庇護の下にある。独立国にもかかわらず、アメリカという他国の軍事基地を受け入れているばかりでなく、思いやり予算と称するお金まで出して駐留してもらっている。日米安全保障条約という片務的な条約に日本がすがってきて、今日に至る。ぼくは大学生のこる、安保反対を叫んで反戦運動を繰り広げた60年安保闘争世代である。

 普天間基地の移設問題は日米安保が根源にあるが、安保反対闘争に若き血を沸き立たせたぼくも含めた60年安保世代と10年あとの70年安保(全共闘)世代は、普天間問題に踏み込まない。沖縄に負担を強いて、自分はなにも負担してないことが後ろめたいから、黙して触れようとしない。普天間の本質は日米安保だということがわかっているから、自分の過去と照らして、よけいにじくじたる思いがするのである。

 それなら日米安保は解消したら、という議論に発展してもよさそうだが、解消して北朝鮮に攻撃されたらどうする、と聞かれたら返答に窮する。果ては、憲法9条の改定、自衛隊の強化、増税、徴兵制、核武装などにも飛び火して、収拾がつかなくなるだろう。日米安保はそのままにしておいての普天間問題は、米軍基地を引き受ける都府県、あるいは国外が名乗りをあげないかぎり、沖縄に負担を強いることになる。

 ハンチントン教授は、炯眼だったと思う。日米安保に代わる日中安全保障条約を視野に入れていたかどうかはしらない。日中安保なら北朝鮮も日本に触れることができない。親分すじのなわばりに手を出すのは自殺行為であることくらい承知しているだろう。日米安保を解消して、今度は双務的な日中安保だ。いつになるか、実現するかもわからないがね。


老人のわが病気自慢
 GWをすぎるころ、ぼくの花粉症は最盛期を迎える。なんの花粉が原因かはわからない。耳鼻科の医師が「調べればわかりますが」といったが、わかってどうなるもんでもないから、そのままにしてある。好天の日など、昼間自宅の窓を開け放っていると、夕方急性鼻炎によるくしゃみ、鼻水がひどい。テッシュの箱をそばに置いて、ひっきりなしに鼻をかんでいる。朝、通勤中もくしゃみが出る。マスクはつねにバッグに用意してあるが、これをかけると老眼が曇って、車内の唯一の愉しみ、読書がままならない。

 いまのところ、花粉症が最もひどい持病である。最近は午前4時病の再発にも悩んでいる。午前4持病という病気があるかどうか知らないが、いくら遅く寝ても午前4時になると、目が覚めるやっかいな症状である。ぼくは数年前、脳梗塞を患い3週間入院した。それ以来、たばこをきっぱり止め、酒をひかえろと医師から忠告を受けながら飲みつづけてきた。それでも、月に1回必ず検診を受けている。といっても単に血圧をはかって、薬を5種類もらうだけ。前は4種類だったのだが不眠を訴えたら、睡眠剤が追加された。

 もともと寝つきがいいほうではない。適量以上に飲むと、すぐ寝入る。酒量は自分の限度を超えて、多いぐらいが睡眠にとって適量の感じがする。少量だとかえって冴えて寝つけない。そういうときは本に頼る。枕元にスタンドを置いているから、パチンと点灯して読みはじめれば、即寝つける、というわけではない。本の選び方によっては、興奮して気分が高揚し逆効果ということもある。エロや暴力、サスペンスやホラーの類は避けたほうがいい。若いときから、本の刺激は睡眠にこたえた。それは老人になっても同じ。枯れた老人というのは、真っ赤なうそである。老人の内面は想像力豊かでなまなましいのだ。

 先日、ラジオを聴いていたら、リスナーの電話かメールを女性アナウンサーが読んでいた。「薬局に勤めているんですが、毎週土曜日に必ずコンドームを2箱買っていく年寄りがいます。2箱といえば24個ですよ、それを毎週ですからね、ものすごい性豪では」。性豪といえば安田老人が有名。このひとは70歳でAV男優としてデビューした。この老人の回顧録を3,4年前、ペン森の卒業式かなんかでペン森生からぼくはプレゼントされた。24個といえば、ほとんどぼくの一生分だぜ。

 睡眠剤は毎月30錠もらうが、使うのはその半分だ。半錠に割ってしか飲まないからである。毎晩酒が入っているからそれで十分。いや午前4時に目覚めるということは十分ではないということか。覚醒したらベッドの上で目をつむり、鼻炎のくしゃみをしながら空想、想像、妄想の湧出を愉しむ。ぼくは肉体的にはずっと貧困のままきたが、その半面、妄想力方面の分泌量は豊富ではないかと思う。貧困だから豊富なのかもしれない。想念が胸でたぎっているから、口だけはどんどん助平になる。これも持病だな。以上、老人の病気自慢。

ふたたび青春の思考を
  にわかに青春をしたくなった。自宅の2階ベランダの隅から、葉アリが大量に飛び立っていくさまを家人が見た。葉アリはシロアリの羽化したもので、5月ごろの快晴の日にそれが飛び立ってゆく。わが家にもシロアリの巣があることがわかったのだった。すぐに近所の大工さんをよんで、調べてもらうと真下の地面と接する土台の部分に蟻道が見つかった。今週、業者に消毒をしてもらう手はずを整えたが、ぼくがびっくりしたのはシロアリの存在よりも大工さんの身の軽さだった。高い脚立を素早く上り下りする、その柔らかな若々しい肉体。

 大工さんはぼくと同年齢なのである。もうひとり同年齢のひとが同じ町内にいる。このひとは裁判所の書記官をやっていた事務屋。東京地裁でさっそうと大股で歩いている姿を見たことがあった。いまもよく出会うが、もはや行き交う知人をだれと認識できないようすで、みるみるもうろくしていく。歩くスピードも歩幅も2分の1か3分の1に退化した。背を丸めて上目づかいにひとを疑いの目で見る。ああはなりたくないと思うばかりだ。やはり肉体労働者よりも事務労働者のほうが、老化や認知症が進みやすいのだろうか。

 大工さんと元書記官の存在がきっかけではあるが、青春しようという心の流れの根っこにあるのはきょう5月10日がペン森の新学期だからである。今期の春採用はほぼ終わった。ペン森はかつてないくらい内定が少なかった。受講生という母数がこれまでになく少人数という事情が最も大きいだろうが、ぼくの志や意気込みやジャーナリズムに対する気迫、若者と社会の未来について思考といった精神的な発露が切迫してなかったことも起因しているにちがいない。日本の絶望的な未来像からみて、若者の意欲をかき立てること、さしあたりぼくのできる絶望回避の道だろう、と思い至った。

 今週から、今期の秋採用組と来期の採用組が入ってくる。ぼくは朝一番でホワイトボードに今週の論作文のお題を3題記した。800字2題、1000字1題。講義も夕5時半ごろからスタートさせたい。講義の通底テーマは戦後史としたい。その中から受講生の意欲ややる気を誘引できれば幸いだ。同時にそのことによって、ぼくたちの世代が青春時代に刺激を受けた思考力、読書、知性、歴史観、紀行心、思想性が蘇生し、ぼくを青春にもどしてくれるはずだ。それを受講生に伝播できればこれは悪い循環ではない。青春しようという真の意味はそういうことである。

 元裁判所書記官のように肉体が退化してしまうと、そこには精神の溌剌さや生命のみずみずしさも、まったく感じられなくなる。その点、大工さんは発見や工夫に内なる喜びを感じているふうで、そのたたずまいだけで心身の躍動感が伝わってくる。ぼくはペン森で大工さんのような老人になりたい、と着想したのである。老人は人生の短さを言うのではない、という詩があるが、ぼくは志と意欲は前向きの長い青春のままでありたい。こうなれば、恋人もほしくなるなあ。青春だからさ。


GW、温泉で日光浴をしてきた
 すばらしいGWだった。天候は高気圧におおわれて、まことに晴朗、気分も爽快至極。都心の散歩をする予定だったが、一泊2日で福島に行ってきた。3,4年前の東北在住ペン森卒業生が福島に集合し、そこに呼ばれて飲んだ。ぼくを含めて総勢9人。ほとんどのメンバーがすでに警察担当から行政担当へと持ち場が変わっているので、休日は県外へもほぼ自由に外出できる。警察担当だといつ事件事故があるかわからないので、県外へは出かけることはできないのが普通である。つまり報道機関には新人に対する一種の監禁状態が当たり前なのである。

 新聞記者になったばかりのころは、そんなに束縛されることを大して深刻に考えない。だから「夏休みには来ますから」とペン森から入社していくが、だいたい夏休みといっても夏の最盛期に休みがとれることは少ない。とれても10月までずれ込んだりする。しかも県外には出られない。「やっぱり東京には行ってはいけないそうです」と泣きの電話がくる。ぼくたちの新人時代は遠出も自由だったが、各社間の競争が激しくなったせいだろうか、息が詰まるような新人生活を強いられるようになっている社も多い。そのような立場から解放された卒業生が集まったわけであった。

 で、初日は車で福島に向かった。午前10時。ペン森に迎えにきて、現地に送り届けてくれるというありがたい参加者に甘えた。東北高速道は西那須野までかつて、パジェロを運転してゴルフによく通ったいつか来た道である。毎日新聞から転職したというか、スカウトされた出版社は、20年前役員全員にゴルフ場の会員権を購入してくれた。ぼくは転職してまもなく役員になっていた。いま振り返れば、うそのような金あまりの時代だったのである。午後2時前、早くも福島に着いた。高速道も4日は、上りが混み下りは空いていた。いちご狩りを楽しんだあと、その夜は飯坂温泉の古ぼけた温泉宿に投宿した。

 風呂場で参加メンバー3人がいっしょになったが、1人があまりに太っていたために残る2人がかれと気づかなかった、という話に笑い興じた。ひととひとの出会いほど人生のふしぎはないというが、ここで飲んでいるメンバーは、ぼくという人間がいなかったら、一生出会うことはなかったかもしれない、と思うと感慨ひとしおのものがあった。ぼくは日本酒をとっくりで数本飲んで先に寝たが、みんなは午前4時ごろまで議論をしていたらしい。話題は普天間移設問題に行き着いたというから、ペン森の血はやはり熱い。

 翌日5日午前、福島市郊外の高湯温泉の玉子湯に行った。露天風呂に入るつもりが、ぬるゆ専門のぼくには高温すぎて、ずっとお湯の外にいたまますっ裸で陽をあびた。入浴どころか日光浴である。山形から参加した読売車に、駐車場でアクセルとブレーキを間違えた車がぶつかり、後部がつぶされていた。この災難を見て高齢のぼくは以て瞑すべし、と帰路についた。福島からJRの各駅停車を乗り継いで帰還した。11・12期生ありがとうのGWだったのである。




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