ペン森通信
相対的貧困の高さが示すもの
 来春のマスコミ試験に出そうな用語に「相対的貧困率」というのがある。気の利いたひとは新聞を切り抜いて備えているだろう。「政府は貧困率を発表すべし」と反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠氏なんかが主張していたが、その貧困率である。湯浅氏は21世紀になって顕著になった格差社会が生む貧困現象に目を向ける社会運動家ということはみんな知っていよう。

 これまで「1日あたりの所得が1ドル未満」の貧困層という言葉は聞いたり読んだりしたことがあるだろう。1ドルが高いか安いかは生活状態などそれぞれの国の事情によって違うので、あまり合理的ではない。これが絶対的な貧困である。飢餓に苦しんでいる人々がアフリカを中心に世界で10億人に増えたといわれる(これまでは8億人が通説)が、それは大半が1日1ドルの所得もない人たちなのだろう。1ドルを物差しにしてアフリカの国々と日本とを比較しても妥当ではないということだ。

 そこでOECD(経済協力開発機構)が加盟30カ国に出させている相対的貧困率のほうが比較の尺度になるとされ、日本ではじめて、全国民のなかに低所得者が占める割合を示す相対的貧困率が厚生労働省から発表されたのである。OECDには先進国が加盟しているが、日本の相対的貧困率は15・7%(03年)。豊かな日本、経済大国日本などと威張っているが、意外な貧困率の高さに驚いた人も多かったにちがいない。ぼくもそうだ。

 15・7%という数字は下から4番目になる。メキシコ、トルコ、アメリカの次に悪い。アメリカは言わずとしれた格差社会である。人口はこの17日に3億人を超えたと推定されるが、2億7000万人当時、ビル・ゲイツの資産は下から数えて1億人分に相当すると言われた。相対的貧困率というのは経済格差を表わす指標なのだ。国民の所得額の真ん中を算出し、その半額に満たない人の割合が相対的貧困率である。

 今回、所得の半額は114万円だった。これに満たない人が日本には7人に1人いるということだ。この貧困率の数字は自殺者3万人超の経済大国の矛盾を如実に照らすものだろう。日本はいつのまにかひどい国になり、その流れに歯止めをかけようとして国民は政権交代という実力行使を行なった。しかし、いまのところ新政権が期待に応える力を示せるかどうかはわからない。政権内の高揚感は立場の弱い層に分かち与えられるのだろうか。

 相対的貧困率はデンマークとスウェーデンが5・3%でベストだ。国民に中間層意識が高かった高度成長期、それほど格差はなく、日本は富の分配がほぼ全員に行き渡っていた。平等社会だったのである。しかし、それではグローバル化時代、国際競争に負けてしまうという合唱が起こって、格差社会に突入した。若者を貧困に追いやるという社会は未来可能性の芽を摘む。共同体の分かち合い精神を取り戻さねば。ペン森は若者の未来可能性に期待を込め、平等分かち合いの価値観だね。


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うなぎ食べたし、名店に行ってきた
贅沢にも半年に1回くらい無性にうなぎやステーキが食べたくなる。先週はうなぎを欲していた。週刊現代がグラビアで特集していた「東西ベスト10 町のうなぎ屋を食す」を切り抜いて、ためつすがめつ見入って、ああうなぎを食いてえ、と悶えていた。その折も折、ペン森卒業生の某女子から今度の土曜日、南千住の名店「尾花」でお昼しましょうよ、と誘われた。

 以前は、九段の「宮川」をひいきにしていたが、最近は足が遠のいている。ここも客の注文を受けてからうなぎを裂いて焼くので、焼き上がるのをお新香で酒を飲みつつ3,40分待つ。お新香がうまいのは名店の証拠みたいなもので、「宮川」のおかみさんはぼくの酒好きとお新香好きをよく知っていて、部屋にとおるとお新香がてんこ盛りで出てきた。お燗酒を昼間から2,3本飲んでいるうち、ほんわりと褐色に焼けたうなぎが炊きたてのご飯にのって現れた。

 「尾花」は名前だけは知っていたが、利用ははじめて。午前11時半に着くと、ぼくたちの前に入店を待って並んでいた先客第一陣が席につき、ぼくたち第二陣は第一陣が食べ終わるまで外の長椅子に腰を落ちつける。「1時間待ちですからね、12時半くらいになりますよ」と係のおばさんが念を押す。黙って並んで本を読んでいるあいだにも列はどんどん長くなっていき、門の外まで人が立っている。にょろにょろとうなぎみたい。

 おばさんがメニューを手に、列に沿ってつぎつぎに注文を聞いていく。ぼくはうな重3000円、3500円、4000円とあるのをずいぶん高いな、と思いながら眺め、3500円を注文する。相方は3300円の白焼き。伊豆方面に行くとき立ち寄る三島広小路の老舗「さくら家」はここより安い。「さくら家」ではうな重は蒲焼きの数によって2枚、3枚、4枚と注文するが、ぼくはいまや3枚は多すぎる。2枚が量的にちょうどよい。

 例によって、お新香600円を肴に冷酒1本300ミリリットル1000円を飲みながら、畳に足を伸ばす。お新香は漬け具合が絶妙でキュウリ、大根、白菜、ナスとどれも美味。相方もおいしいですね、と感嘆してお代わりを頼みそうになる。昼の冷酒は五臓六腑にキュンとくる。うなぎがくる前にお新香で酔っぱらっちゃいけない。「尾花」の3500円は「さくら家」の2枚に当たる感じ。やや薄味のさっぱり系である。「さくら家」のほうがぼくの好みかな。割安だし。お新香は断然「尾花」だが。

 「尾花」の客の年齢層は高め。ぼくより高齢と見える男女も少なくない。不況はどこへ消えたのだろうと2人分9千なんぼを支払いながら年金生活者は幸福であった。今度はうなぎ消費量日本一という旧浦和にある「満寿家」へ行きたいね。女子の相方求む。

無理を言うが小説『無理』を読め
 奥田英朗の『無理』は本文540ページの大作である。税抜きで1900円もするので、買い控えていた。この定価だと、ぼくはぎっしり2段組みでないと、もったいない気がしてあまり手をださない。文庫になるまで待とうか、と考えたりする。年金生活をしていると、根がケチな性分に輪がかかるようだ。パンツはもっぱら100円ショップになった。すこぶる履きいい。しまむらよりもずっと安価でごゴム負けもせず、ぼくには快適。

 100円ショップのパンツを色違いで5枚も買っちゃった。近所の西友の1枚かせいぜい2枚分だよ。ケチなくに、飲食や旅の出費にはあまり神経質でもない。旅はめったなことでは新幹線に乗らないし、ましてやジェット旅客機なんて、あんな思い物体が空中を飛ぶとは神への冒涜ではないかとさえ思う。中空に浮かんでいる飛行機をみて、あのなかで人間が行儀よく並んで座っているのだ、と想像すると気持ちが悪くなって落ち着かない。

 新幹線や飛行機を利用しないのはお金よりもスピードの問題。遠方へ行くのにわざわざ急ぐ必要があるのか、ぼくは疑問に思う。車窓を楽しみ、ときには途中下車して地元のおいしいものを食べ、おいしい地酒をのどに入れ、共同浴場に入ったりして、ふんわりとした気分で旅したほうがトクじゃないか、とぼくは考えるほうだね。学生時代は駅寝や駅前公園で寝たりしたが、いまは駅前ビジネスホテルに飛び込んだりする。

 奥田英朗の『無理』にはその地方都市のことが書いてある。合併で市になった東北地方の人口12万の小都市にうごめく人間の生態が微細に描写してある。これまでの奥田作品『邪魔』『最悪』には気乗りしなかったが、『オリンピックの身代金』からこの直木賞作家に注目している。深層を抉る社会派作家だ。昔の石川達三や松本清張や山崎豊子や有吉佐和子の小説のように直球ストレートの告発型ではない代わり、しんしんと内臓方面にひびいてくるクセ玉というか、膝元に食い込んできてのけぞるようなシュート小説が得意。

 はい、文庫を待ちきれず単行本『無理』を購入したのです。中央大学生協で1割引きでね。じつはまだ5分のしか読んでないが、これは間違いなく推奨できる本と自信をもっていえる。ぼくはページを繰るごとにこの分残りが減っていくのだな、ともったいない気がして困る。ぼくがいくらローカル線で地方を見ても、その底にゆらめく出口なき人間の実相や内面はわからないからね。これまた一面からみれば小泉政権を頂点とする戦後自民党政治の罪を暴いている。戦後政治が地方にどのような影響を与え、そこに暮らす人間がどのように壊れていったかを知る小説でもある、と感じて読み進めている。

 地方にはしまむらはあるが、定職層のお助け店100円ショップはあるのだろうか。見かけない気がするが。


マスコミ論作文の基本対策
 来春のマスコミ論作文対策が中央大学でははじまっている。講師をしているぼくは今週、以下の基本対策をアドバイスしようと思っている。

○出題の傾向
 マスコミ論作文の出題は字数800字と1000字に大きく分かれる。800字が論文系、1000字がストーリー系と区分けできる。2009年の出題からみると800字は朝日、NHK,産経、時事などで1000字は日経、読売、毎日、道新、共同など。いずれも題はその時代の特徴、背景、底流をヒントに出されるので、いまこの時代はどのような流れの中にあるかということを考え、その時代性をつかんでおくことである。

○論文と作文の違い
きわめて乱暴簡潔な言い方をすれば、論文は「これは○○である」、作文は「私は○○と思う」という違いがある。
しかし、マスコミ論文で「これは○○である」といふうに客観的に一般論を書いても通じるのは読売くらいのものである。読売は自分に引き寄せて具体表現するのがむつかしい題をだす(2009年春「日本映画」。秋は「働く」だったからあるいは方針転換か)。
800字は冒頭に問題点あるいは自分の考えを提示して、つづく本文で具体的なエピソード(素材=ネタ)を例示し、それ土台に展開して冒頭に示した問題点や考えを裏付けていく、という手法をとる。1000字は800字より起承転結をくっきりとさせてメリハリをつけ、身近なエピソードを引き合いにだして言いたいことへと盛り上げていく。

○素材(ネタ)の選択にセンスを
800字にしろ1000字にしろ、自分だけが知っている一次的な情報を素材(ネタ)にすることが必要。この素材によって、合否に結びつくことも多い。素材の新鮮さはマスコミの生命線ともいうべきニュース性と企画性に直結するから、そのセンスが問われるわけである。ありきたりな素材はマスコミのニュースや企画にはならないのである。
ありきたりな素材というのは、受験、部活やサークル内人間関係の愚痴、祖父母の病気・・・ほかに旅の思い出や失敗の経過報告、出題された題の意味づけも避けたい。どうしても小学生のおしゃべりみたいに表面的な現象を追いがちになるからであ
直近の体験も感情コントロールが利かなくなり、上滑りしがちである。書くべきことを十分に消化しないまま書くからだ。発酵し熟成するまで待たねばならない。

○現場へ行って思考を深める
 中国の伝統的な文章上達法は、多く読み、多く考え、多く書く、ことだという。楽天の野村監督は多く考えることを選手に求めた。打者はバッターボックスに立ってから考えてももう遅い。普段から野球を考え、ベンチでも相手投手をみて攻略法を考える。
 論作文で考えるということは、ネタの現場に行って、自分の目で見て、耳で聞いて、肌で感じて、独自の思考を重ねるということである。まずは現場へ出向いてネタを仕込む。そうすればESの材料になるだけでなく、論作文に奥行きも幅も備わってくるはず。積極的に現場へ行くことだ。現場とは例えば、府中の慈恵院(おびただしい水子地蔵と女性の後悔絵馬)、銭湯めぐり、世田谷の松陰神社商店街(障害者への気配り)など無数にある。

45年前の思いつきを証言
 テレビ局の社会部長から電話があった。「朝日の記者をしていた岩垂弘さんがあなたのことを日本記者クラブ報に書いています」。それは「あの日あの時」というエッセーで「私が会った倍賞千恵子さん」と題して「下町の太陽にアタック 事件記者たちが招待」というタイトルがついている。「1964年10月1日。東京の両国駅に近い警視庁本所署の署長室。そこへ、倍賞千恵子さんは1人でやってきた」と書き出し、いきさつに触れていく。

 「9月に入ったころだ。その日も事件がなく、クラブ員は暇をもてあましていた。すると、毎日新聞の瀬下恵介記者が叫んだ。
 『倍賞千恵子さんに来てもらおうじゃないか』
 彼女は当時、新進の女優であり、歌手でもあった。『下町の太陽』という歌が大ヒットし、彼女主演で映画化もされた。今ふうに言えば、人気上昇中のアイドル」。

 「瀬下記者によれば、松竹本社に電話したところ、最初は難色を示したが、どうしてもと粘ったら『行かせましょう』と言ったという。
 本人たるぼくの記憶によると、松竹本社に電話したのは事実だが、その後実際に交渉をしたのは倍賞家だった。父親が都電の運転士をしていて、気さくな倍賞家とのやりとりは楽しかった。ぼくは自分の名前を電話で名乗るだけで通じるほど母親と親しくなった。

 倍賞さんが『男はつらいよ』のさくら役で大女優になったのは、ご存じのとおり。岩垂記者は1968(昭和43)年の米原子力空母エンタープライズ佐世保入港反対闘争の現場取材中、機動隊の暴行で負傷して自分が記事になった(このへんの事実関係は記憶おぼろげ)。かれは左翼・革新に強く、市民運動に関して日本一の記者になった。ぼくはといえば、倍賞呼び寄せに味をしめて、栗原小巻や吉永小百合と会うなどミーハー記者になった。

 1984年、倍賞千恵子23歳、45年も前の話である。岩垂さんはぼくの3つ上だが、日にちまでよく憶えていたものだ。憶えていなくてもメモをしっかり取り置いたものだ。9年後、当時の記者たちは今度は『男はつらいよ』の山田洋次監督、寅さん役の渥美清を呼んで銀座のレストランで彼女と再会した。1973年12月16日ことだったという。「ネクタイをした記者さんに会ったのはあのときがはじめてです」と倍賞嬢は挨拶した。

 岩垂さんは次のように締めくくっている。「私はこの“珍事”から教訓を得た。時には突拍子もないことを考え、果敢に挑戦してみることだ。そしたら、思いがけない出会いがあるかもしれない、という教訓である」
 25歳、駆け出し記者時のぼくを証言してくれた岩垂さんに感謝。71歳に近いぼくは新しい出会いは少ない。突拍子もない思いつきに自分自身、迷走しがちなじいさんだ。

ふたり旅はぬるめの温泉
 池内紀というドイツ文学者がいる。東大教授にしておくにはまことに惜しい、といわしめたほどの温泉・銭湯マニアである。教授時代も鞄のなかに入浴セットを入れ、銭湯を見かけると飛び込んだらしい。ヨーロッパや日本各地をめぐる紀行文も多い。温泉紀行文は山口瞳、嵐山光三郎と名だたる文筆家がいる。それぞれうんちくを生かした名文なのに、熱いか適温か低いかの温泉の温度にあまり触れてないところがぼくは不満である。

 このブログで前々回書いたが、ぼくは絶対的なぬるま湯派だ。いつも背負っているリュックに100円ショップで買ったタオルを入れて持ち歩いて、東京の銭湯に入り尽くす予定だったが、女湯はわたしが入って様子を報告しましょうと申し入れてきた風呂好きの女子によると、東京の銭湯は熱いという。これですっかりぼくはびびってしまった。東京の銭湯880を制覇するなんて無謀な計画だった。前々回の宣言は急いで撤回だ。

 こんなに簡単に撤回してもだれからも文句をつけられないのがありがたい。民主党はしがらみはないといいながら、自分のマニフェストというしがらみにほとほと弱っているのではあるまいか。野党当時の政権公約だから、そんなにしゃかりきに錦の御旗をふりかざすことはないと思うがね。民主党にはあそびがないから、息がつまる感じがする。自民党のぬるま湯体質はひどかったが、民主党の熱湯湯体質にもすこし加水が必要では。

 ところがぼくは源泉掛け流しの温泉が好みで、パンフや案内に加水なんて添えてあると敬遠しがちである。もちろん循環湯なんてはっきり拒否する。銭湯は別だが。ぼくがよく利用する伊豆の温泉付きコテージは源泉のままだと熱いが、夜源泉を湯船にためたままにしておくと、朝ちょうどよい温度になっていて快適だ。夜は自分でちょっと加水して入り、主にシャワーを浴びて体に塗りたくったボディシャンプーを洗い流す。

 そういう自由がきくのも貸し切りのコテージだからであって、客でてんこ盛りの温泉旅館大浴場ではそうはいかない。だからぼくは温泉に行ってもシャワーだけですますということが少なくなかった。長野の野沢温泉なんて湯船からこぼれた湯に足を触れただけで悲鳴ものだった。体も乾いた元のままでパンツをはくありさまだったのだ。切なかったねえ。

 それでもぼくは温泉好きでね、誘ってくれるひとがいてしばしば秘湯に出かける。ぼくは宮崎県の国有林の中で産まれたので、奥深い山の秘湯は母親の胎内を無意識のうちにも想起させるのかもしれない。車を運転してひとりたどり着き、部屋で木々を渡る山の風の音を聴いていると、泣きたくなるほどわびしい。ひとり旅は精神に悪いね。ふたり旅がいいというのが年老いたぼくの心境。気のあったひととぬるい貸し切り風呂に入りながら酒を飲む、この贅沢を1回くらいやってみたい。ふたり旅の相手をさがしているぜ。

老人の妄想、若者の夢
 50代の中ごろ、勤めていた出版社社長の第二の人生は私大教授だった。私大は70歳が定年だから、それまではまだずいぶん間がある運がいい、と本人は喜んでいた。ぼくはじいさんに教わる学生は気の毒だなと心底思った。20そこそこの学生からみれば、60すぎなんて想像もつかない遠い遠い存在にちがいない。まもなく71歳になるぼくが大学生の先生になっているんだから、そりゃないぜ、と自分でも言いたくなる。

 20と70では生きてきた時代がちがうし、価値観も異なる。70はそろそろボケがはじまって、心身の反応が鈍くなる。20歳すぎると、脳細胞が1日20万個ずつ消滅していくというが、20歳からもう一種の老化現象がはじまるのである。生き物はその生命が備わったときから死に向かう。この定めからだれも逃れられない。悠久の流れからすればひとつの生と死は直近だ。20代と70代は差がないのだ。

 ぼくが老いを知ったのは、肉体的には石が投げられないことを悟ったときであった。60代前半、富士五湖で合宿した。湖にそれぞれ勝手に小石を投げて、湖面に2回3回と跳ねるのを楽しんでいた。ぼくも投げたが、目の前に小石がぽちゃんと落ちるだけであった。背筋の老化。横手投げで遠くへ着水させて小石を水面に何回も小刻みに跳ねさせる若者に、過ぎ去った自分を見た。電車で席をゆずられたのもそのころだった。

 いまぼくは帰宅時、優先席に座ることが多い。夜の遅い時間帯に優先順位の高い乗客はまずいないと見極めているからである。第一、そこだけが悠々と座れるだけの空席がある。それでも、すこし気がとがめるのだ。昼間は優先席に席をとる勇気はまだない。年寄りが乗車してきたらと気が気じゃない、と70歳の年寄りでも思うのだ。心の底にはまだ若いという意識が根を張っている。事実、気分はなかなか歳をとらない。

 早い話、ぼくは20代女子に恋ができる。その逆はないのだろうが、あるように期待する。それはまぎれもなく老人の妄想なのだが、その妄想という精神の萌えがあるからこそ、ぼくは気分は若く、70にして20代相手の先生を続けることができるのかもしれない。しかし、若いひとたちは、老人に教わる不運を嘆いている向きがあるかも、と思う。

 Yというデスクがいた。20年勤続で金一封をもらう日が近づいた。「なにに使うのですか」とぼくが聞いた。「まあ、そろそろ墓でも買っておこうか」。そのデスクはそれからまもなく亡くなった。ぼくは若い教え子よりも40年も50年も先に人生を終える。最近、墓の心配もあるが、元気なあいだにこれだけはやっておきたいという欲望のほうが圧倒的に強い。70歳でもやりたいことは多く、その質量は20代と大して変わらない。まあ、同じ想念でもぼくのは妄想だが、若者のそれは夢だ。若者はこの開きを縮めないように生きよ。

週刊誌は肉食系、大メディアは草食系
 八ッ場ダムにまつわる裏側の実態が週刊誌をにぎわすようになった。『週刊朝日』『サンデー毎日』『週刊現代』『週刊ポスト』の今週発売号がいずれもトップ記事で怒っている。『平凡パンチ』も国交省の八ッ場ダム関連の天下りを明らかにしたというが、ぼくは読んでないのでコメントできない。新聞、テレビの大手メディアの報道にくらべ、一歩も二歩も踏み込んで実相と矛盾を明かしている点が精力的で小気味よい。

 『週刊朝日』は保阪展人前衆院議員を起用して、国交省のダム官僚を血祭りにあげた。保阪氏は「公共事業チェック議員の会」の事務局長として現地には何度も足を運んできたという。前原大臣の中止表明をきっかけに沸騰した報道ラッシュはダム官僚にとって都合のいい詭弁、すりかえ、うその羅列の垂れ流しだと数字をあげて説明する。「工事の7割はすんでいる。中止は税金の無駄だ」というのは7割は予算の7割を使ったことのすり替え。

 総工費は当初2110億円だったが、現在4600億円で7割の3220億円を使っている。あと残りの3割1380億円を使えばダムが完成するというのはダム官僚の詐術だ、と指摘する。世間にはそのように錯覚しているひとも多いだろう。じつは8800億円という途方もない規模にふくれあがるらしい。これまでの3200億円は鉄道や国道の移転費、水没地区住民の代替地確保などに使われた。移転対象は470戸、移転済みは357戸。前原大臣の中止表明はこれから着工する本体工事がキモなのである。

 八ッ場でもすっかり住民VS民主側の対立構図ができたが、それはこれまでの過程で住民と一体化した国交省の役人が仕掛けたのではないかと思われる。住民がかわいそうという情に訴えるのは大メディアの好むところ。『週刊ポスト』は中止反対住民と国交省役人とゼネコンなどの業者、群馬県知事がゴルフコンペとそのうち上げに参加した事実を暴露している。反対派が賛成にまわるのは藤岡明房立正大教授によればつぎのようだ。

「国交省のダムや道路などを造る時の住民交渉の手法は、住民の中に入り込み、業者などを使って接待を繰り返し、補償金額や地元対策費を吊り上げて反対派を転ばせる」。どの週刊誌にもダム御殿の写真は掲載されてない。住民が悪いわけではないから、配慮して刺激を避けたのだろう。それにしても週刊誌がこれだけ攻撃的で元気に調査報道をするのに、大メディアはどうして腰が引けているのだろう。週刊誌は肉食系、大メディアは草食系。

 前々回、住み込み取材を勧めたが、大メディアは週刊誌ほどの勇気はない。まだ情報源だった行政発表の呪縛から抜け出せないのだろう。調査報道に記者生命をかける骨のある人材を各社養成しなければ、建て前と表面だけのメディアになってしまう。大メディアは自民党長老みたいな旧来型の幹部が交代しなければ、大いなる変化は望めないね。

週刊誌は肉食系、大メディアは草食系

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混浴でなくても銭湯制覇だぞ
100円ショップが好きで休日は近くの店を必ずのぞく。散歩の途中にも1軒ある。多摩センターの目的地にはどでかいのがある。明日あさっての土日にはフェイスタオルとバスタオルを買おうと思う。フェイスタオルにはけっこう良質なものがあって、これはペン森の手ふきとトイレに毎日自宅で洗濯して使っている。バスタオルは薄手で吸湿性がありそうだが、まだ使用してはいない。タオル購入は東京の銭湯めぐりをして制覇したいからだ。

 学生当時、ぼくは世田谷経堂の親戚のうちに下宿していた。そのころ1960年前後はアパートに1人住まいなんて学生はあまりいなかった。賄い付きの下宿住まいが多かった。風呂は銭湯に通うのが普通だった。南こうせつとかぐや姫の名曲神田川は「赤い手拭い マフラーにして 二人で行った 横丁の風呂屋・・・」と歌うが、時代は1973年とぼくの学生時代より10年以上あと。その風呂屋のモデルは西早稲田にあった「安兵衛湯」という。

 「安兵衛湯」も平成2年に廃業した。銭湯は日本の公衆浴場であるが、戦後の高度成長につれ風呂付きの住宅が一般化して、みるみる廃れていった。それでも05年には全国に5267軒あった。全国最多の大阪で現在1000軒程度存在するから、東京にもまだかなり残っている。これを全制覇するのはそうとう根気を要するが、ひまができたらぼくは挑戦してみようともくろんでいる。遠方の温泉にいくより安上がりだ。旅情はないがね。

 でもひとつだけ、弱ったことがある。ぼくはぬるい湯の愛好家なんだ。うちの風呂では39度が適温だから、42度がちょうどいいという妻とはだいぶ格差がある。ぼくは帰宅してからだいたい11時すぎに入浴するが、入浴とは名ばかり年半分はシャワーですましている。江戸っ子は熱い湯にアチチとうなりながら入ったらしいね。東京の銭湯はいまでも熱いのではあるまいか。銀座には2軒銭湯があるが、そのひとつ金春湯は43度だよ。ヒ~。

 ぼくは柔肌でね、強い温泉に弱い。青森八甲田山麓の酸ヶ湯は混浴で知られるが、混浴につられて入ったら、女性はしなびたばあさんばかりだった。ぼくは強い湯に柔肌が炎症を起こして1週間苦しんだ。熱いのにも効用ある湯にもからっきしなのである。酸ヶ湯だけでなく、東北にはまだ混浴が残っている。銭湯も江戸時代までは混浴で、老若男女がいっしょにはいっていた。もっとも入口小さく湯気がもうもうと薄暗くてよく見えなかったらしいよ。

 男女別々になったのは明治に入ってから。欧米人があまりに問題にするものだから、せっかくの日本的な美風もあえなくチェンジとなった。入口に近い脱衣所に番台があって、そこにおばさんやらおじさんやらが座って料金をとっていた。ぼくは洗濯が面倒なものだから、冬は前後左右にはいたパンツをひもで結わえてひきずって、途中でひもごと落として捨てていた。真冬は神田川と同じく「洗い髪が 芯まで冷えて」さ、10分後下宿に帰り着くと髪が凍っていたのだ。ほろ苦くなつかしい長髪のころ。



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