ペン森通信
右手首内を骨折したにつき
 しばらく左手ひつでブログも打たねばならなくなった。右手の手首の関節内を骨折した。リュックを背負ったまま足のつかぬサドルの調節をさぼって、レンタサイクルで坂道をたちこぎしていたら、自転車がとまってしまい、右に転倒した。思わず右手で支えようとしたのだろう、肘から下にひどい擦過傷を負った。きのうのことである。

 けさ、手首がはれ痛くて、いつもやっている朝の食器片づけどころではなかった。整形外科にタクシーで乗りつけ、レントゲンを撮ったところ、医者は一言「骨折ですな」といった。ギブスで手のひらまで固定したので、右手が使えない。ちょいとこのブログも休むかもしれないと弱気。左手でキーボードを打てないこともないので、時間のあるときは書くことになるでしょう。
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早慶の果てに放浪『どくろ杯』
  金子光晴は詩集『悪の華』のボードレール研究でも知られる有名な詩人だが、生涯女性に関心があり、その方面の奇矯な話がもてはやされた時代があった。週刊誌やテレビのコメントに重宝されエロじじいと揶揄されたりした。しかし本質は、人間のありのままの姿や内面を赤裸々にえぐって、固定化された社会通念に挑戦していた思索のひとだった。

 金子光晴の詩集のひとつ『女たちへのいたみ歌』(集英社文庫)で解説をしている高橋源一郎の表現によって、その青春像はわかるだろう。その引用の前に6歳から10歳まですごした京都での鮮烈な記憶を紹介しておきたい。仰向けになり着物の裾をひらく8歳の女の子。「このひなたくさいお転婆娘にからだをくっつけて、すすめられるままにおもいけって放尿した」。この幼児体験は宮本常一「土佐源氏」の少年時代と重なる。

「毎晩のように遊郭へ通った。一生、狂ったように遊んでやろうと思っていた。でも、中学を卒業する頃には、遊びにも飽きた。女を買ったり、ナンパしたりするのにもうんざりしていた。17歳だった。早稲田に入学した。やることがないのでやっぱり、ドン・ファンごっこをした。街頭で女の子を釣ったりした。釣れるとうんざりして放した。上野の美術学校の日本画科に転校した。でも行かなかったので退学した。今度は慶応の英文科に入った。やることがなかった。喧嘩し、女を口説いた。げっそり痩せ、もう死ぬだろうと思った。肺を病んで入院した。どうにでもなれと思っていた。詩をつくりはじめた。そして、学校をやめた」

 ノーベル賞クラスといわれるこの詩人がいかに窮乏の中で放埒かつ怠惰で堕落し、しかし、しぶとく自由な生活者であったかは、自伝『どくろ杯』をひもとけば明らかになる。金子は80歳で亡くなるが70歳をすぎてから、33歳で妻三千代と5年間世界放浪の旅というか逃避行の思い出の執筆にのめり込む。『どくろ杯』『マレー蘭印紀行』『ねむれ巴里』(いずれも中公文庫)のいずれかを読まれたし。美しい日本語がそこにある。

 ぼくは混沌として猥雑な上海流浪『どくろ杯』が気に入っている。どくろ、とは頭蓋骨=しゃれこうべ。内側に金箔などを貼って、これで酒を飲む。「男をしらない処女の頭蓋骨だ。蒙古では貴重なもの」という会話がでてくるので、それからとった題名にちがいない。金子の社会事象の底を見る目は希有なものだ。東南アジアからヨーロッパまで生活費をかせぎながら、子どもをおいて妻と放浪する過程で、日本国家主義への批判精神がめばえて根づく。反骨の文化人、抵抗詩人をいわれるゆえんである。いまはジャーナリズムに最も必要な反骨も抵抗も死語となった。権力や消費社会や自分の行く末に媚び流されて、世の中はなんと息苦しくそして生き苦しくなったのだろう。金子詩人は監視なき寛容な時代に生き、人生を謳歌したのかもしれない。『金子光晴詩集』は岩波文庫。

これじゃバチがあたるぞ
 先週13日土曜日、朝早くうちを出て各駅停車で横浜線・橋本から八王子→高尾→甲府
と中央本線をくだって、身延線に乗り継いだ。前回はこの逆ルートをたどって下部温泉でゲリラ豪雨に遭い、全線不通となって足止めをくった。今回はそのリベンジだった。すでに車窓は秋めいていて、黄金色の稲穂が垂れている田んぼが多かった。早くも稲刈りが済み、横木に稲束を両サイドに振り分けて、稲を乾燥させている稲架け風景も見られた。

 いかにも日本のなつかしくも気高い光景、と思うのはぼくが小学時代と中学時代の途中まで農山村で暮らしたから。敗戦間もないころ、稲刈り時期の農繁期には小学校も休みとなった。食糧の乏しい背景があって、お百姓さんがとても感謝されていた時代で、ぼくのような農家でない数少ない非農家の子は、なんだか後ろめたい気持ちがしていたものだった。そのトラウマはいまも心理のどこかに付着している。

 作家の野坂昭如氏は資本主義や社会主義ではなく、農本主義を唱えた時期があった。現在も食糧問題や農業にはなみなみならぬ関心があることは、毎日新聞に連載しているエッセイ「七転び八起き」によく表れている。「米は神さまでもある」と野坂氏がいうのは稲作こそ、日本人の行事や文化とは切り離せない、と考えているからである。氏がかくも米にこだわるのは妹が餓死した『火垂の墓』の飢餓体験が大きいだろう。

 もう40年近く昔の話だが、ぼくは秋田で野坂氏と待ち合わせて、田んぼを取材する手はずだった。見事にすっぽかされた。東京の氏に電話すると、下痢を起こしたとのへたな理由を告げられて終わりとなった。当時、氏は大変な売れっ子作家で、しかも名うての飲み助で知られていた。下痢は慢性的だったのではあるまいか。ひとり秋田に残されて妙に納得したのをおぼろげに記憶している。

 今回の「汚染米」事件の米は加工用の輸入米である。日本の米はずっと神のような聖域として保護されてきた。輸入米は、単なる商品にすぎない。それにしても米に対して、ひいてはお百姓さんに対して、こんなにも尊厳や尊敬の念が希薄になった。駅弁はいまでも、ふたについたご飯粒から食べる世代としては、バチがあたるのではと恐れる。

ぼくは異界のあの世を見た
団塊の世代とは1947~9年の3年間に生まれたひとたち700万人のことということはご承知だろう。太平洋戦争は45年に終わったから、兵隊や軍属320万人、一般人300万人が中国などからどどっと引き揚げてきた。精力が余りに余っていたかどうかしらないが、とにかく元気よくせっせと子づくりにはげんだ結果、たいへんなベビーブームが現出した。

ぼくは6人兄弟の次男坊、4つ下の妻も6人兄弟の末っ子で、5人6人の兄弟がいるのが当たり前の世代だ。敗戦直後の子沢山は自然発生的なものだったが、戦前は兵隊や労働力供給のために、産めよ増やせよ、の大号令がかかっていた。ぼくら古希前後は産めよ増やせよの名残世代であって、それはまったく親のある種の意欲の所産というほかない。それでもぼくの父親は、5人も6人もいる子の名前をたまには間違えながらも愛情深かった。

敗戦直後、あの世に片足を突っ込み、ぼくは現世ではない異界を見ている。実際には、ぼくにとってあと10年から20年のあいだと希望的に予想している死後の世界である。それは父親がいたから生還できたことであった。病気で高熱をだして、それこそ死んだようにぐったりしているぼくを、父親は夜間背負って、10キロ離れた町の医院まで自転車で運んだ。まだ国道も砂利道だった。行く途中、父親は大丈夫か、助けてやるからな、と声をかける。ぼくは、それを聞いて大丈夫と答えたつもりだが、ピクとも動かず、声もでななかったそうだ。

 そのとき、とても息苦しいかったが不快ではなかった。霧ではない、なにかうっすらと白く透明なものが確かに好き通って広がっていた。外観上は意識不明状態というより半死状態だったのだろう。2日後か3日後か目を開けると、ふとんの周囲を親や遠くからやってきた親戚一同が取り囲んでいた。ぼくの臨終に備えていたのだ。父親があきらめていたら、ぼくは生存してなかった。

 だから、ぼくは小学校校から余生を送っている。団塊は大量に定年退社する。これからの人生を第二の人生というひともいれば余生と呼ぶひともいる。ぼくはなにがしかの価値ある生き方をしてきたのだろうか、とつねづね考え猛省する。団塊も価値ある生き方をしてきたであろうか、と胸に手をあてることがこれから多いだろう。ぼくは若い人に囲まれ、旅もする。なんと好き勝手な余生なのだろう。こんなに楽しんでいては、楽しい人生を知らずに理不尽に亡くなったかたに申し訳ないと思う。でも生きているんだから、まだまだ余生の飛躍をするぞ。



圧縮された日本に行った
定例の血液検査を3週間後にひかえている。なのに先週の土曜夜はペン森女子と神保町で飲んだ。日本酒4合。その日、昼前から彼女の所望で墨田区の木下川(きねがわ)地区を歩いてきて、彼女と話したい心境になっていた。木下川は皮革工場が集まり、ブタ皮のなめしが日本の7割以上を占めるところで、他の地域でランドセルや靴や鞄などの製品にされる。ぼくは44年前、墨田区や江戸川区や江東区や葛飾区の事件事故を担当する若い記者だった。皮工場群は四つ木橋の近くときいて、にわかに望郷的な興味がわいたのだ。

同行の彼女が手回しよく土曜日でも見学OKの皮工場にわたりをつけていた。荒川の土手沿いに歩を進めると、15分ほどで「東京都立皮革技術センター」の案内看板がでていて、旧木下川小学校にさしかかる。旧というのは、昭和11年に1062人を数えた生徒数が2003年25人にまで激減して、廃校になったからである。門注の校名ははぎとられ、鮮やかな赤茶に白くライン取りされた無人の校庭を4階建ての鉄筋校舎が見下ろしていた。児童の声も姿もなく、ただ空虚感がただよう旧小学校である。

付近は狭い道が入り組み、緑が乏しく工場が密集している。食料品店、理髪店、クリーニング、薬、病院、食堂なども見当たらず、ゴムの長靴を履いたアフリカ人らしき黒人労働者の姿が目立つ。快適な住環境とはいえない。目的の工場に着き作業中の黒人従業員に来意を告げると、背の高い黒人が運転していたフォークリストから降りてきて、わざわざ宿舎の同僚を呼んでくれた。「ボスは出かけている。呼ぶか」と同僚は外出社長の携帯番号を口にしはじめた。2人の黒人は下町ふうのひとのよさを引きついでいるようにみえた。

同行女子はあわてて、電話番号を知っている社長夫人に到着したむねを伝える。開けっぴろげで親切な夫人の案内で原料皮をなめし終えて、ブタの皮が首から尻まで1枚のうすい滑らかな皮に変化するまでの工程を見せてくれた。工場にはいると、すぐ血の付いた生皮が山積みされ、大きな段ボール状の7個のかごに最初の工程で落とした脂肪がみっしり満杯だった。大量の水を必要とするなめし業なので、床は一面水が浸みて、全体に臭気がムッとこもっている。帰宅後も獣臭い匂いが汗でぬれたシャツに付着しているようだった。

表面的に現象をみただけであったので、同行女子と飲み話していたら、疑問が立ちのぼってきた。皮革産業と人権問題の歴史、労働者に日本人の若者はなぜいないのか、学校廃校の遠因は、黒人はアフリカ人か、何人くらい働いているか、就業ビザは?どのようなルートでやってきて、給料は?住居は?休みは?従業員としてのかれらは優秀か。「ここは3K以上4Kだから」と自嘲した夫人。ここには、日本のある現実が圧縮されている。

44年前、黒人労働者は1人もいなかった。わからないことだらけになった現代日本。

セミの死骸をみて欲望せよ
ことしはセミの鳴き声が聞こえてくるのが遅かったような気がするが、もういまは盛りをすぎて公園の小道に死骸が点々と散らばっている。1週間程度の短いいのちを精一杯うたいあげて、小道に無数に散逸している亡きがらはひとが踏んでちぎれたり、アリがたかっていたり、どこか虚しく哀しい。自民党総裁選さわぎの最中、それは日本の戦後を担ってきた大政党の終末を暗示しているようでもある。平等の分配社会から格差社会へ、そして崩壊してゆく行く末。

路上のセミの死骸はさしずめ落選議員のなれの果てであろうが、一方で自分自身の末路を示しているようでもあって、あまり気持のいい心持ちではない。若いひとにはこういう感覚はわからないであろうが、ぼくは還暦をすぎたころから死を現実のものとして考えはじめた。若い時分には自分が還暦や古希を迎えるなんて、非現実的な思い描くことも困難なあわれな世界だったのに。未来だけがあったあの時代はどこに消えたのだろう。

街灯に照らされた夜の公園は、まだクマゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシの重なりあい複合した声が降っているが、それにまじって薮や草むらから虫の声も湧いてくる。朝の出勤時はセミの魂のぬけた亡きがらを踏まないように細心の注意をはらうのだが、夜はほぼ例外なく酔っている。足はおぼつかないし、足下も暗い。歩いていると、ときおりジジと断末魔の悲鳴を上げているから、ぼくもセミの墓場を踏み荒らして帰宅しているにちがいない。

地面の虫の音が地上のセミの声にとって代わると、季節はぼくの嫌いな秋一色に染まる。冬のつぎは否応もなく冬である。そのつぎには春がきてまた夏がめぐってくる。などと切れ目ない連続性に思いを馳せることになんの抵抗もなかったのは、上げ潮の50代までではなかったろうか。成長を終えた現在、ぼくの人生は爛熟期かもしれない。果物も女性も熟れすぎると、濃密濃厚な芳香が匂い立って辟易するが、ぼくは男だから爛熟しても熟れないのだね。無色無臭に枯れるのだ。と思いたい。

政治家はじじいになってもなまなましい。欲望がそうさせる。欲望があれば自然の摂理に反するように、いっこうに枯れない。セミは自然の摂理のままに果てる。ぼくもそうなることはわかっているのだが、それは若いときに高齢になっている自分が想像できなかったと同じく非現実的である。だが、生きている人間はだれしも、死へ向かっている。セミの死骸は将来のきみでもある。ほんの一時鳴いて果ててゆく、セミの末路をみて人生のこれからを考えるのも秋だぞ。欲望をもて!おれももつぜ。



われらは「掛け算」でいこうぜ
 福田辞任表明は絶好のタイミングだった。22日の自民党総裁選が21日の民主党代表選をすっかりかすれさせたからね。民主党代表選は小沢ワンマンでもう決まり。競争もドラマもなく、ただでさえ地味な民主党代表選びなのに、これじゃ自民党だけが話題を独占する。自民党は小池女史を候補に押し立てて、テレビの露出効果をねらってくるだろう。これに野田女史でもからんでくれば、視聴率とれるぜ。

 その意味では福田サラリーマン首相としては、自民党にとって当面プラスに作用したといえるね。発言は不平不満、愚痴、泣き言、捨てぜりふ満載の「引き算型」。そもそもこの1年、なにをやってきたのかもわからない存在感の希薄な、いじめられキャラだったから、マスコミは余計によだれを垂らして罵詈雑言のきわみでいじっている。おかげで北京野球・星野監督はバッシング直球がそれて胸をなでおろしているにちがいない。

 その星野の陰で首をすくめていたのが北京サッカー・反町監督。あれ、そんな監督がいたなあ、というくらいもはや懐メロ的で影が薄い。男子バレーの植田監督も北京行きが決まると、ばたっとコートの床に伏して「メダルをねらう」なんて大口をたたいていたなあ。みんな星野ぼろんちょ監督を筆頭に「客観的に自分を見ることができる」と迷台詞を吐いた福田なみの自己分析もできなかったということじゃないの。

 まあそれでも、ぼくみたいなねじれ人間にジャパンを冠にかぶった彼らは、格好のストレス解消剤をあたえた。ぎくしゃくと怖いいまの世の中でこれだけおおっぴらに国民的悪口をたたける機会なんて、そうそうないもん。ぼくにとってはいいガス抜きではあるね。だけど、利害関係者にとって彼らは期待が大きかった分、たまらんだろう。いまや「割り算人間」になりはてたね。つまり、内部から足をひっぱり、結果としてやがて崩壊へと導く、組織内で最低最悪の役割をはたす人間。周囲にもいるでしょ、このタイプが。

 反対に100キロ超級JUDOの石井、女子ソフトボール413球の上野、フェンシング初銀のニート太田、2冠連覇の北島などは「掛け算人間」だね。自分も掛け算的に上昇し、他人を掛け算的に元気づける。政治家には「掛け算タイプ」は見当たらないね。これは連日のテレビ出演を見ればよくわかる。よくいって提案型の「足し算人間」かな、ひとの発言中に割って入って、全体の発言内容を不明にさせる「引き算人間」が圧倒的に多い。若い諸君よせいぜい「足し算人間」か「掛け算人間」をめざそうぜ。






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