ペン森通信
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ESの極意を知れ!
 全国紙などの秋採用が迫った。エントリーシート(ES)記入の真っ盛りである。2年くらい前に毎日記者がコラムで「電車内でESを書いている女子学生がいた。車内でひょいひょいと書くなんて、なんと社会を甘くみているんだろう。私は記者になりたいために一字一句に熱と志を込め1ヵ月かけて完成させた」と嘆いていた。

 いまどき、1ヵ月かける記者志望者はいない。6,7年前にPCの前で1ヵ月うんうんうなって日経ESにいどみ「日経は経済に強いのが特徴」とだけ書いてグリコ(お手上げ)になったのがいたがね。いまは一夜漬けよろしく、直前に取り組むのが普通である。ほんの2,3年前には1週間かけて立派なのを書くの学生も珍しくなかった。だんだん粘着性がなくなってきたのかもしれん。
 
 というより、なぜメディアを志望するのか目的意識や問題意識が明確でないからだと思う。ESは過去のそれまでの自分と直接対面して将来につなぐはじめての機会だ。自分は何者かを知る人生最初の機会ともいえる。ESに取り組むということは自分と向かい合うということでもある。それを書いて提出するのは、こういう考え、意識、視点をもつ自分の可能性をアピールすることと同じなのだ。

 目的意識・問題意識不明とともに最近、気になるのは悩み系が多いこと。こんなに悩んだという体験をるる繰り述べる。読むほうも気が滅入る。ある個人のESは志望者何百分の1の価値にすぎない。暗い悩み系が見込みうすいのは当然である。明るくはきはきと簡潔に要点を表現して、具体例に話題性も押さえていれば相手もどんな人物か興味をもってくれるだろう。ESは興味をもたれなければ食いついてもらえない。

 上に挙げた以外にも、適切を欠く例がギブアンドテイクと取り違えである。テイクばかり考えているひとがけっこう女子にいる。会社から自分がもらうのではなく、ギブ、つまり、自分が会社あるいはその背後にある社会になにを提供できるか。これがキモだ。メディア志望者は背後の社会や時代性を視野にいれ、過去の体験や経験や蓄積に照らして、こういう貢献ができるということを強調しなければならない。入社したらやりたいことをやたら訴えるのもどうか。やりたいことをやらさなきゃ辞めるの?ということになる。やめるような素振りのひとを採用するばかはいない。

 みんなわかっていることではあろうが、いざ書くとなると、視野狭窄に陥り忘れがちだから以上、改めて「ESの極意」。

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ヘビ、ムカデを食べた青春
 この夏、盛岡の岩手県立美術館に飾られているニューギニア戦線密林戦闘場面の絵をできれば見に行きたい。太平洋戦争時、日本は前線基地ラバウルを維持するため、ニューギニアの確保を戦略上の至上命令としていた。このニューギニアをはじめ太平洋の島々で300万人近い日本兵という若者が食糧、装備の補給がなく、ほとんど自滅した。

 自滅というのは、具体的には病死や餓死である。熱帯のジャングルのなかで飢えた兵たちはなにを口にしたか。ヘビ、カエル、トカゲ、バッタ、ヒル、カタツムリ、ムカデ、毛虫、チョウチョウ、アリ、クモ、ミミズ・・・たいていのものは煮るか焼くか火を通すと、食べられた。仲間を撃って脚の肉を切り取って食用にした例もあったという。

 この戦線の生き残りの1人が昭和44年1月2日一般参賀の日、「ヤマザキ、天皇を撃て!」と叫びながら、昭和天皇にパチンコ球4個を放った奥崎謙三である。ヤマザキとは現地で倒れたかれの戦友、山崎一等兵のことだ。奥崎は本人を主役にしたドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』でも知られる。単行本『ヤマザキ、天皇を撃て!』は自宅の本棚にあるはずだ。映画はビデオになっているのでTSUTAYAで借りられる。

 奥崎は荒々しく、いわば凶暴な性格の持ち主だが、天皇や国家や戦争に対する、その奥深い怨念と怒りに心情を寄せるひとも少なくなかった。それは60余年前の戦地で飢え死にした人たちへの鎮魂も兼ねた心情だろう。以上のようなニューギニア戦線のおぞましい事実は『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』(飯田進 新潮新書)にあますところなく記されている。

 もちろん戦闘もあって、それが岩手県立美術館の特大の絵になっているわけだが、いまわれわれは60余年前の地獄を忘れて、天国にいるような生活を享受している。自給率39%というのに廃棄が年1900万トンの矛盾。日本兵餓死は戦争の最高指揮をとった大本営の無策と無責任による。いままた日本の運営を託された政府の不正と腐敗、無策と無責任によって、日本は自滅の方向に進んでいる気がしてならない。若者よ怒りに点火せよ。

破滅キャラ・モナは大したもんだ
 ぼくが好もうが、好むまいがまったく関係ないことだが、山本モナは好きでも嫌いでもなかった。ノルウエー男性と日本女性のハイブリッドらしいが、ちょっと老け顔ではないかとぼくは思う。不倫スキャンダル方面のスターとして活躍している事情にぼくはあまり、通じてなかったから、週刊誌ですこし勉強した。

 モナを見たのは5日で降りた『NEWS23』が最初。そのときの印象はまるで記憶にない。片方の膳場アナがぼくの好みでね、どうも彼女だけしか見ていなかったような気がする。このひと、NHKのとき夫と別れたと聞いたが、こんないいおんなをなんともったいない。形容矛盾の表現をすれば、膳場アナには妖艶な清楚さがある。

 路上キスをフライデーされたモナの相手は民主党の細野豪志代議士。不倫写真だけど、映画のワンシーンのようにきれいで女性にやたら評判がよかった。細野代議士は最近、ときどきテレビに出て発言している。モナも復帰してフジテレビの新ニュース情報番組『サキヨミ』メインキャスターに起用されたものの初回であえなくクビ。

 モナを尾行した『女性セブン』の先読みセンスは大したものだが、フジは完全に先読みが足りなかったねえ。たしか『週刊朝日』の林真理子対談に出たとき、モナは「わたしはそれを我慢できない」という意味のことを言っていたよ。そっちの欲望依存症なのかしら。「ほらやっぱり」という向きも多かろう。

 モナが好きでも嫌いでもなかったぼくは、今度の巨人二岡選手との不倫ラブホ騒動でモナが嫌いになった。というのはタテマエのうそで、かえってその奔放ぶりにしびれて、おぬしやるねえ、と快哉をさけんだよ。なんという大胆、無頓着、無警戒、離れ業、不敵、おんな力、破滅キャラ。ところで、『アエラ』のモナ対談はどうなった?

 「きみらもやるだろ」とナベツネは記者団に二岡をかばったらしいが、この読売の巨魁は男のキモを衝いてさすがだなあ。ぼくはやらんけどさ。

吉展ちゃん事件と狭山事件
吉展(よしのぶ)ちゃん事件のことは、聞いたことがあるだろう。戦後事件史に残る誘拐殺人事件である。この事件を題材にしたドキュメンタリーの傑作、本田靖春『誘拐』を再読した。読売記者だった本田靖春は、吉展ちゃん事件のあった下谷署管内を担当する警視庁第6方面を昭和33年から34年にかけて受けもったが、吉展ちゃん事件は1963(昭和38年)に発生し、2年後の65年に犯人、小原保が逮捕され解決した。かれは直接、取材したわけではない。

逮捕翌朝の65年7月5日NHKが放送した『ついに帰らなかった吉展ちゃん』は59%の高視聴率だったらしい。当時4歳の村越吉展ちゃんが誘拐され、遺体で見つかったこの事件の関心がいかに強かったかを物語るが当時、6方面と隣接する両国の本所署記者クラブにいたぼくは番組をみていない。その前の任地でぼくは、狭山事件関連の取材を少しした記憶がある。

狭山事件は埼玉県狭山市で発生した女子高生誘拐殺人事件である。吉展ちゃん事件で身代金を奪われながら、警察が犯人を取り逃がしてしまった1ヵ月後、40人も張り込みながらまたまた犯人を取り逃がしてしまう。警察の度重なる失態は厳しい世論の批判を浴び、警察庁長官が辞表を出す。焦った?警察は狙いをつけた被差別部落の石川一雄被告(当時24歳)を逮捕するが、これは冤罪ではないかという疑念がもたれたまま今日に至る。

狭山事件は差別と冤罪という暗い人間心理が介在し、現在にも問題を投げかけているが、1万3000人の容疑者を調べた吉展ちゃん事件はすでに過去のものとなった。犯人、小原保を自供に追い込んだ落としの職人、平塚八兵衛刑事の名を知っている記者も少ない。八兵衛が足で詰めていった事実をもって小原に迫るさまが迫真的に描かれている。本田靖春もまた、事実によって時代相まで浮かび上がらせる。その意味ではかれも職人だった。

「須釜小学校へは片道3キロに近い道のりで、子供の足には1時間かかった。まして、一雨来ると、粘土をこねたような山道である。通学は難儀であった。(中略)入梅の時季など、街道でさえ膝から下が埋まるのであった」と小原が生まれ育った福島県・石川町の山間部を描写する。『誘拐』は犯人の生い立ちに寄り添うようにしてやさしい目を向け、高度成長のはしりに現われた陰と闇を捉えるのである。

吉展ちゃん事件も狭山事件も表よりも裏に、より語りかけるものがある。ぼくも紀行ルポを書きたいという欲望があるが裏を見て、そこに真実や時代の真相が隠れていることを見逃さない目があるだろうか。神は細部に宿り給う、というが。

晴天の下にも闇あり
 平野啓一郎『決壊』の下巻のページを閉じて6日日曜日午前10時、京王線多摩川駅で下車した。多摩川の左岸に沿って遊歩道を上流へ歩きはじめると、『決壊』の陰鬱不気味な世界とは見事にかけはなれた開けっぴろげな健康ランドが広がっている。薄日さす梅雨の中休み、それなりに紫外線は強い。

 競輪場の京王閣が近いせいだろう、スパッツを履いた競技用自転車に乗った若者がスピードをだして頻繁に往来している。ぼくのようにのんびりと歩いているひとは目につかない。歩くひともみな競歩選手のような速足である。「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」という交通標語を思い出す。

 河川敷の球場では野球の試合をしている少年たちが何チームもいた。左腕投手の左脇にコーチ?がしゃがんで投球フォームをチェックしている試合を観戦する。バッターの当たりそこねの内野ゴロが1塁側にころがると、左腕が猛然とダッシュしてきて1塁に投げるがセーフ。するとマウンド上のコーチがどでかい声で捕手を怒鳴りあげる。「こらぁ、お前だろうが、なんでピッチャーに任すんだ」。

 捕手はただうつむいている。なにか反論したいのかもしれないが、押し黙っている。ピッチャーだけをえこひいきする1人の大人。捕手の感情はいびつな憎悪に成長して・・・とこれはぼくに芽生えた『決壊』的な疑念。『決壊』は現代ネット社会の病理と人々のこころの闇を鋭くえぐっている。さすがは天才平野を感じさせるが、後味爽快ではない。

 結局、2時間6キロ歩いた。左手首は腕時計の跡が白くくっきり。河原のなかに営巣しているのだろうか、上空ではヒバリが甲高く切れ目なく啼いていて、まことに天下泰平。アキバであんな『決壊』事件が起こった国とは思われないが、ひとの数だけこころの闇はある。晴天の下にも闇はある。

 こんどは上流の鮎の稚魚放流地まで青梅線で遡ってみよう。車内で読むのはさわやか清流のごとき小説がいいな。そんな晴れわたった屈折のない小説は読むに耐えるのだろうか。


熱海へ行ってきました
  先月、東海大学文学部文芸学部の教員5人が集まって、学生の読むべき本50冊を選定するシンポジウムが開かれた。堀啓子准教授は近代文学を中心にとりあげ、尾碕紅葉の『金色夜叉』を推薦した。女性読者が「この連載の途中で自分が死んだら、墓前に続きを供えてほしい」というほどの大人気新聞小説だった、とエピソードを披露して強く勧めた。

 たまたまぼくは洋食の名店「スコット」で昼食にビーフシチューを食べに出向き、ワイン小瓶1本を空けて陶然と海岸を歩いて、お宮の松に立ち寄ったばかりだった。ちょっと話がそれるが、先週の週刊文春の「食味探検隊」の欄でスコットのステーキを注文した執筆者がぼろくそにけなしていた。スコットはビーフシチューかタンシチューが絶品でね、そもそもステーキを食べるなんてピントはずれなんだよ。

 お宮の松のところには、マント姿の間貫一が取りすがる着物姿のお宮を下駄履きで蹴飛ばす像がある。小説の挿絵は下駄でなく革靴だったが、このクライマックスシーンの効果をあげるため、かつて無数の映画やテレビドラマ化で改ざんされた。偽装である。観光客ゼロの熱海名所で、備え付けのスピーカーから中年男声の歌謡『金色夜叉』がわびしく切々と、かつ長閑に流れていた。

この古色蒼然たる失恋ロマンスを知っているペン森生はまず皆無。貫一・お宮who?である。それでもつぎの歌詞を読めば、おおぼろげに見当はつくだろう。「ダイヤモンドに目がくれて 乗ってはならぬ玉の輿 人は身持ちが第一よ お金はこの世のまわり物 恋いに破れし寛一は すがるお宮を突き放し 無念の涙はらはらと 残る渚に月淋し」。お宮は貫一の許嫁だったが、高利貸しの男に走った。貫一は嫉妬の激情にかられるのである。

 熱海は『金色夜叉』で全国区になり、新婚カップル、失楽園カップル、そして社員旅行の定番歓楽地となった。古くは徳川家康もここで湯治したんだよ。それがきっかけで江戸城まで湯を運ぶようになり、八代将軍吉宗時代から海上による大量輸送がはじまった。吉宗は温泉好きで在任中、長ひしゃくで源泉の湯を詰めた樽を3600個運ばせたという。

 お宮の松からタクシーで熱海新名所MAO美術館に向かう途中、運転手がいった。「いまのお宮の松は2代目、初代は富士屋ホテルから移植した。2代目は熱海ホテル。両ホテルとも廃業していまはありません」。いま熱海は高齢者むけ温泉付き施設が建っている。最近は関西方面の観光客が多いらしい。その点は慶賀の至り。以上、熱海盛衰記。『金色夜叉』のさわりの部分を読みたい方はネットでどうぞ。


福沢諭吉や木戸孝允出でよ
 司馬遼太郎説によると、日本の2大教育者は適塾の緒方洪庵と松下村塾の吉田松陰である。緒方洪庵はオランダ医学者で適塾は大阪大学医学部につながる。知っているひとは知っているが、ペンの森はこの適塾を真似た。大阪に復元されて現存するペン森の源流、適塾を訪ねた卒業生もいたが、実際はそれほどあがめていたわけではない。

 適塾は橋本左内、大鳥圭介、高松凌雲、大村益次郎(村田蔵六)、福沢諭吉などの英傑を輩出した。慶應義塾の創始者にして1万円札の肖像、福沢諭吉は適塾の塾頭を務めたことがある。幼少時、散髪嫌いで母親は手こずったが、あとでお酒を飲ませてやる、といったらぴたりと泣きやんだらしい。

 諭吉は自分と酒とは切っても切れない、という意味のことを『福翁自伝』に書いている。それにならって、酒も飲める寺子屋をめざしたのがペン森なのだ。動機不純。そこへいくと吉田松陰は酒にもたばこにも女にも縁がなく、安政の大獄で捕えられ数えの30歳で従容として死刑に服する。生涯めとらず、童貞のまま他界したといわれる。

 松陰の死骸は桂小五郎(木戸孝允)、伊藤利介(伊藤博文)ら4人の門弟が獄吏からもらい受け、目印をつけて小塚原に埋め4年後、高杉晋作らがいまの松陰神社に改葬した。東急世田谷線の松陰神社前で下車して商店街を抜けた先に松陰神社があって、奥に松下村塾の看板が掲げられた本物そっくりの家がある。

 その座敷で学ぶ伊藤や山県有朋などの豪華メンバーの姿が浮かぶ。桂小五郎は塾生ではなかったが松陰を師とした。松陰自身は佐久間象山を師と仰ぎ、松陰が下田から密航をくわだてたとき相談にのった。そのため松陰事件で連座して故郷の長野県松代に蟄居した。象山記念館が松代大本営跡地下壕への出入口の道に建っている。

 ひととひととの出会いほど人生のふしぎはない、という。無口平凡な少年だった桂小五郎は松陰に出会って、人生が急転した。緒方洪庵も吉田松陰も私塾を開いて日本を根っこから変える原動力となった。松陰は通称名が寅次郎だった。フーテンの寅さん同様、旅をして行く先々で純粋な人間性や思想性や教養や哲学や学識が感銘をあたえた。

 わが私塾、ペンの森から行き詰まったこの日本を建て直す逸材出でよ。ペンで立つ福沢諭吉、高松凌雲、木戸孝允、伊藤博文、高杉晋作よ出でよ。諭吉や孝允を思わせる女傑よ出でよ。




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