ペン森通信
ああ「最長片道切符の旅」
  あれなつかしや、宮脇俊三さんの『最長片道切符の旅』の復刻本が新潮社からでた。この元本は1979年に刊行され、宮脇さんの名を高らしめた。それが29年ぶりに復刻されたわけだから、鉄道フアンや宮脇教のひとたちは、随喜の涙をながしたのではあるまいか。ぼくはすぐ書店に走った。それで、ぼくの余生のテーマが定まって眠れなかったね。
 
宮脇さんは中公新書の創刊をてがけ、『中央公論』の編集長も務めた中央公論社華やかなりしころの名編集者だった。ぼくはなにかのパーティで言葉を交わしたことがあるが、あまり声量のない声でしゃべる、篤実そうな黒目がちの小柄なおっさんだったというおぼろげな記憶しかない。
 
「昨年6月、私は27年間勤めた会社を辞め、暇ができた。またとない機会なので、思う存分、好きな鉄道に乗ってみることにした。戦塵を洗い落としておきたい、という気持もあった。
 それがどんな旅行であったかは本書に記したとおりである」とあとがきにある。

 それは北海道から九州まで一筆書きの路線。連絡船航路も含めて13,319・4キロ、約200列車を乗り継いで3186駅を通過した。第1日目、昭和53=1978年10月13日に北海道・広尾を出発して第34日目の12月20日、終着の鹿児島・枕崎に到着。まだ青函連絡船で函館と青森がつながり、全線国鉄だった時代である。

 ぼくが鹿児島―東京間を各駅停車で乗り継いでいたのは「最長片道切符」より17、8年前にさかのぼるが、この間の日本および日本人の変容がとても気になる。ぼくは「最長片道切符の旅」をなぞって歩ければと思う。宮脇さんがたどったコースはおよそ30年間でずたずたに寸断され、乗り通すのは不可能だろう。廃線や無人駅だらけかもしれない。

 学生時代そうしたと同じように途中下車を繰り返し、駅周辺からバスの終点まで分け入って、30年前と現在とを比べてみたい。30年間の過程で日本人ははたして幸福になったのだろうか。ぼくは鈍行の旅をした一方、30代に網走までヒッチハイクで行ったことがある。新潟でトラックに同乗させてくれた運転手が田の草取りを目にして、「降りていって手伝いたくなるなあ」ともらしていたことが鮮やかによみがえる。

 ただ、ぼくは長期に行動できる時間がない。資金もほしい。ワーキング・プアはこういう制限のなかで生きていかねばならないんだね。半年たつと70歳。50歳を記念して車の免許を取得した。車を手放して資金の一部にあて、70歳記念として30年ぶりに日本を舐め尽くす最長ルポを実現したいのお。


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抱け、抱かれろ。
 言葉の魔術師といわれた作家の開高健さんから名刺大の和紙がめいっぱい詰まった和紙整の藍色の名刺入れをひと箱もらったのは、15年くらい前である。名刺大の和紙には、もうすっかり有名になった名コピー「編集者マグナカルタ」が刷られていた。
それは全部数十枚ではなかったろうかと思うが、ペン森の初期のころ受講生に誰彼となく配ったので払底してしまった。引き出しをあさると1枚くらいはまだ残っているかもしれない。

 開高さんはぼくの周りに集まってくるマスコミ志望の学生に興味を示していて、何人かが開高さんを囲んで懇談したこともある。23歳くらいの女の子を助手として紹介してくれないか、とぼくに話を振ってきたこともあったのだ。「月に1回つまみ食いできればええけどな」と、これはあからさまだったので、知らん振りを通した。「編集者マグナカルタ」は学生に読ませてくれ、という思し召しでくださったにちがいない。

 「編集者マグナカルタ」には、編集者のみならず人生の機微と真髄が染みこんでいる。開高さんの許しを得ようもないので、ここに全文を引用させてもらいたい。

  読め。耳をたてろ。
  眼をひらいたまま眠れ。
  右足で一歩一歩あるきつつ、
     左足で跳べ。
    トラブルを歓迎しろ。
      遊べ。飲め。
     抱け、抱かれろ。
  森羅万象に多情多恨たれ。

     補遺一つ。
   女には泣かされろ。
   右の諸原則を毎食前食後、
  欠かさずに暗誦なさるべし。
      御名御璽 

 若い人は最後の締めにある「御名御璽」が読めるかしら。ぎょめいぎょじ。おそれ多くも天皇の公印を表す言葉である。開高的諧謔のわさびはここにも効かされている。
ぼくは不謹慎にも「遊べ。飲め。抱け、抱かれろ。森羅万象に多情多恨たれ。」という文句が好きだ。香気はないがロマンがある。初老のぼくはまだ多情でね、ドキドキ血が騒ぐ。

       恋も恨みも落ちぶれて遠い夢    天邪鬼

ソロで生きるということ
  きょう4月16日、朝日の文化欄に沢木耕太郎氏の奈良・東大寺での講演「ソロで生きる意識を」が掲載されていた。ソロとはひとりという意味。つまり、ひとりで生きる意識をもて、ということを力説した講演だったらしい。

 ぼくは永年、マスコミ界に志望の若者を送り込んできたが、その組織に定年までしがみついていてくれ、とは一言もいわない。ぼく自身、大学卒業と同時に新聞記者としてスタートしたが、22年間毎日新聞社に在籍したあと、転職した。ありていにいえばスカウトされて、ニューズウィーク日本版創刊の仕事に就いた。

 そのころ、サンデー毎日の副編集長をしていたが、目をかけられてスカウトされたというところに自尊心を刺激するものがあったね。ハード(紙質や活字の大きさ、字の大きさなど)とソフト(記事選択、タイトル付けなど)の両面からなる週刊誌づくりにはいささか自信があったのである。

 毎日新聞から転身したあとも、引きつづきマスコミ志望の学生が周りに集まっていた。講演「ソロで生きる・・・」を書いた朝日記者もそのひとりだった。女性的な名前だが、男性である。かれは朝日という大メディア組織にありながらソロ的な生き方を選んだ。古代ロマンに引かれ、だから明日香村古墳のある奈良から離れようとしない。

 組織に入ると、異動や同期生の動向が気になり、それが自分の欲望や心理や感情に反映して競争心を生んだりして組織は活性化し、個人の満足心にもつながってくる側面がある。
だが、それは組織のなかの価値観にすぎず、ソロ精神とは相容れない。ぼくはニューズウイーク日本版を途中でやめて、若い人をマスコミに送るソロになって現在にいたる。

 「ソロで生きると、1人で道を覚え、選択するが、集団だと全体について(いけばよく)考えない。同じ時間を生きていても濃さが違う」と沢木氏。組織を離れたぼくは語るに値するソロの自分をもっていないが、少なくとも70歳近くになっても頼れる自分をつくりたいという志は捨ててない。

89歳と91歳夫婦の新聞配達を手はじめに
  またまたリュックを買った。ビジネスにも使えると銘打ってある。ノートPCを入れれば内部にショック防止の防護仕切りがついているので、遠出をもくろんでいるぼくには最適だ。遠出というのは、いなか回りの旅。車を手放して鈍行で各地に踏み入り、ノートPCに毎日、記録を残し発信しようと思っている。

 新聞社の販売に異動になったペン森卒業生の1人から、つい先日メールが届いた。某県の山間部の集落にある新聞合売店(合売店は複数紙を扱い配る。1紙だけを扱うのは専売店)では89歳と91歳の夫婦が毎朝、配達をしているそうだ。

 「午前2時ごろから各紙が到着しはじめ、3時半ごろに農作業小屋兼新聞作業場を軽トラックで出発。途中、顔にシワの入った91歳のおばあちゃんが新聞30部ほどを背負って車を降り、歩いて配達し、1時間後に遠方での配達を終えたおじいちゃんに拾ってもらう、とのことでした」

いなかの新聞販売現場を回るかれは、「高齢化と活字離れで、新聞が増える要素がない。
分厚くて重たい新聞は田舎では読まれない」と販売店主の嘆きを伝える。「いまのままでは新聞に未来はありません」と断言するのである。89歳と91歳の老夫婦は「山の新聞配達」だが、いまや配達する先は郵便のように新聞を楽しみに待ってくれるわけではない。

 ぼくが新聞記者になった46年前、新聞はまだ速報価値を保ちながら言論の雄であった。
それがこんなに落ちぶれるとは、まったく悪夢である。そのころ、折しもテレビが登場し、
コンピュータもかぼそく芽がでてきたばかりだった。コンピュータを基本とするインターネットは文明史上、ごく最近出現したにすぎないが、もはやメディア界を席巻する勢いで、この流れはだれにも止められない。

 われわれが学問の常道としてきた「記憶と再生」もコンピュータにとって代わられた。人間の残された唯一の能力資源は独創性のみといってよい。自ら思考し考えだして創出する。この延長線上に朝日が言うように新聞のルポがあるとぼくは思う。そこで遅まきながら、ぼくも個人的なメディアになってルポをしようと企画している。

 同時にネットでその場から発信するというのがぼくの独創。手はじめに89歳と91歳夫婦が存命中に会いに行って、いっしょに新聞を配り、集落の読者の声を拾ってみたい。そうして新聞のあり方と未来を考えてみるのもありかな、と昔新聞記者だったぼくには内なる叫びがある。

朝日のお題「2050年」の劣悪
  朝日新聞の春採用小論文課題は「2050年」だったそうだ。戸惑った受験者も多かっただろう。まあ、劣悪なお題といってよかろう。朝日は新聞の生き残り策として、ルポを再確認しようとしている。「事件 追う/迫る」もはじまったばかりだ。ルポは現場取材と視点が大切なことはいうまでもない。現場、現物、肉声という3要素がはいったリアリズムが真骨頂である。

 ところが2050年は先すぎてあまりにも遠い。もちろん、世代も入れ代わり、メディアの状況もうんと変わっている。インターネットあるいはそれに代わるニューメディアが登場してますます幅をきかせているだろう。新聞は命脈を保っているだろうか。命脈を保つためのひとつのアイデアが朝日のルポの再確認だったはず。「2050年」は想像力の世界だし、ルポ精神とは相容れない。

 2050年に社会がどのように変化しているかは、実体がないからだれにもわからない。その意味でもこれは単に頭で考えた、机上の空論的お題といえよう。採点の基準はどこにおくのだろうか。嘘八百を書いても、現在では嘘でも2050年にはそれは正しいかもしれないのだ。すると、正確な日本語であるかどうか,平易な表現かどうか、文法や漢字の間違いはないか、最後まで読める内容かなど狭い範囲の評価にならざるをえない。

 そこはリアリズムという新聞文章の根幹にかかわる問題とは無縁のお題ということになる。このお題が自己矛盾をはらんでいることに気づかなかったのだろうか。「2050年」というお題ではあっても、なにも2050年にこだわる必要はないだろう、と朝日は言うかもしれない。しかし、正確に読みとれば、朝日の意には反する可能性があるが、これはまさに2050年について書け、ということにほかなるまい。受験者が気の毒。

 ただ、朝日が若者が先行きに関して、きわめて思考力が弱いということを考えて敢えて課したお題であれば大したものともいえる。ペン森ではたとえば10年後、20年後を想像する作文題を書かせることがあるが、これは10年前の受講生も苦手中の苦手の題だった。現代の若者には「坂の上の雲」はないのである。希望も夢も自分の半径20センチの枠にしかない世代なのだ。望みなき世代だから、近未来を俯瞰することができない。朝日の出題者は社会と個人の価値観が一致していたころの旧世代の生き残りではあるまいか。


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