| 小さきあたまの骨あつまれり |
原爆歌人、正田篠枝(しょうだしのえ)のことは、以前どこかに書いたかもしれない。彼女は、爆心地から2キロ離れた自宅で34歳のとき被爆し、原爆投下直後の故郷、広島の光景を短歌に詠んだ。
それが歌集『さんげ』であるが、この歌集は敗戦の翌年昭和46年に広島刑務所の印刷所でひそかに印刷された非合法の私家版。占領軍(米軍)は原爆を扱った作品の出版を禁止していたのである。
原爆症で苦しんだ正田は、それが原因となって乳がんを発症し54歳で亡くなる。ぼくは女子大の授業「文章表現法」で毎年、『さんげ』のなかの短歌と非戦闘員たる市民の日常が瞬時に消滅してしまう近代戦争の無差別攻撃をとりあげる。今期は先週の授業で教材にした。
ぼくは、原爆投下はホロコーストと同じく許すべからざる戦争犯罪と思う人間だが、その考えを学生に押しつけることはない。原爆歌人の痛切と慟哭を感じてもらって、この短歌のひとつひとつから具体的に想像される視覚イメージを心の目で見て、実感してほしいだけである。
燃える 梁の下敷きの娘 財布もつ手をあげ これ持って逃げよと 母に叫ぶ ズロースもつけず 黒焦の人は 女か 乳房たらして 泣きわめき行く 可憐なる 学徒はいとし 瀕死のきわに 名前を呼べば ハイッと答えぬ 太き骨は 先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり 人見れば 声泣きあげて 女訴う 首席の 吾子をもどしてくれと 焼死せし 児が写真の前に トマト置き 食べよ食べよと 母泣き口説く
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| 右手首内を骨折したにつき |
しばらく左手ひつでブログも打たねばならなくなった。右手の手首の関節内を骨折した。リュックを背負ったまま足のつかぬサドルの調節をさぼって、レンタサイクルで坂道をたちこぎしていたら、自転車がとまってしまい、右に転倒した。思わず右手で支えようとしたのだろう、肘から下にひどい擦過傷を負った。きのうのことである。
けさ、手首がはれ痛くて、いつもやっている朝の食器片づけどころではなかった。整形外科にタクシーで乗りつけ、レントゲンを撮ったところ、医者は一言「骨折ですな」といった。ギブスで手のひらまで固定したので、右手が使えない。ちょいとこのブログも休むかもしれないと弱気。左手でキーボードを打てないこともないので、時間のあるときは書くことになるでしょう。
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| 早慶の果てに放浪『どくろ杯』 |
金子光晴は詩集『悪の華』のボードレール研究でも知られる有名な詩人だが、生涯女性に関心があり、その方面の奇矯な話がもてはやされた時代があった。週刊誌やテレビのコメントに重宝されエロじじいと揶揄されたりした。しかし本質は、人間のありのままの姿や内面を赤裸々にえぐって、固定化された社会通念に挑戦していた思索のひとだった。
金子光晴の詩集のひとつ『女たちへのいたみ歌』(集英社文庫)で解説をしている高橋源一郎の表現によって、その青春像はわかるだろう。その引用の前に6歳から10歳まですごした京都での鮮烈な記憶を紹介しておきたい。仰向けになり着物の裾をひらく8歳の女の子。「このひなたくさいお転婆娘にからだをくっつけて、すすめられるままにおもいけって放尿した」。この幼児体験は宮本常一「土佐源氏」の少年時代と重なる。
「毎晩のように遊郭へ通った。一生、狂ったように遊んでやろうと思っていた。でも、中学を卒業する頃には、遊びにも飽きた。女を買ったり、ナンパしたりするのにもうんざりしていた。17歳だった。早稲田に入学した。やることがないのでやっぱり、ドン・ファンごっこをした。街頭で女の子を釣ったりした。釣れるとうんざりして放した。上野の美術学校の日本画科に転校した。でも行かなかったので退学した。今度は慶応の英文科に入った。やることがなかった。喧嘩し、女を口説いた。げっそり痩せ、もう死ぬだろうと思った。肺を病んで入院した。どうにでもなれと思っていた。詩をつくりはじめた。そして、学校をやめた」
ノーベル賞クラスといわれるこの詩人がいかに窮乏の中で放埒かつ怠惰で堕落し、しかし、しぶとく自由な生活者であったかは、自伝『どくろ杯』をひもとけば明らかになる。金子は80歳で亡くなるが70歳をすぎてから、33歳で妻三千代と5年間世界放浪の旅というか逃避行の思い出の執筆にのめり込む。『どくろ杯』『マレー蘭印紀行』『ねむれ巴里』(いずれも中公文庫)のいずれかを読まれたし。美しい日本語がそこにある。
ぼくは混沌として猥雑な上海流浪『どくろ杯』が気に入っている。どくろ、とは頭蓋骨=しゃれこうべ。内側に金箔などを貼って、これで酒を飲む。「男をしらない処女の頭蓋骨だ。蒙古では貴重なもの」という会話がでてくるので、それからとった題名にちがいない。金子の社会事象の底を見る目は希有なものだ。東南アジアからヨーロッパまで生活費をかせぎながら、子どもをおいて妻と放浪する過程で、日本国家主義への批判精神がめばえて根づく。反骨の文化人、抵抗詩人をいわれるゆえんである。いまはジャーナリズムに最も必要な反骨も抵抗も死語となった。権力や消費社会や自分の行く末に媚び流されて、世の中はなんと息苦しくそして生き苦しくなったのだろう。金子詩人は監視なき寛容な時代に生き、人生を謳歌したのかもしれない。『金子光晴詩集』は岩波文庫。
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| これじゃバチがあたるぞ |
先週13日土曜日、朝早くうちを出て各駅停車で横浜線・橋本から八王子→高尾→甲府 と中央本線をくだって、身延線に乗り継いだ。前回はこの逆ルートをたどって下部温泉でゲリラ豪雨に遭い、全線不通となって足止めをくった。今回はそのリベンジだった。すでに車窓は秋めいていて、黄金色の稲穂が垂れている田んぼが多かった。早くも稲刈りが済み、横木に稲束を両サイドに振り分けて、稲を乾燥させている稲架け風景も見られた。
いかにも日本のなつかしくも気高い光景、と思うのはぼくが小学時代と中学時代の途中まで農山村で暮らしたから。敗戦間もないころ、稲刈り時期の農繁期には小学校も休みとなった。食糧の乏しい背景があって、お百姓さんがとても感謝されていた時代で、ぼくのような農家でない数少ない非農家の子は、なんだか後ろめたい気持ちがしていたものだった。そのトラウマはいまも心理のどこかに付着している。
作家の野坂昭如氏は資本主義や社会主義ではなく、農本主義を唱えた時期があった。現在も食糧問題や農業にはなみなみならぬ関心があることは、毎日新聞に連載しているエッセイ「七転び八起き」によく表れている。「米は神さまでもある」と野坂氏がいうのは稲作こそ、日本人の行事や文化とは切り離せない、と考えているからである。氏がかくも米にこだわるのは妹が餓死した『火垂の墓』の飢餓体験が大きいだろう。
もう40年近く昔の話だが、ぼくは秋田で野坂氏と待ち合わせて、田んぼを取材する手はずだった。見事にすっぽかされた。東京の氏に電話すると、下痢を起こしたとのへたな理由を告げられて終わりとなった。当時、氏は大変な売れっ子作家で、しかも名うての飲み助で知られていた。下痢は慢性的だったのではあるまいか。ひとり秋田に残されて妙に納得したのをおぼろげに記憶している。
今回の「汚染米」事件の米は加工用の輸入米である。日本の米はずっと神のような聖域として保護されてきた。輸入米は、単なる商品にすぎない。それにしても米に対して、ひいてはお百姓さんに対して、こんなにも尊厳や尊敬の念が希薄になった。駅弁はいまでも、ふたについたご飯粒から食べる世代としては、バチがあたるのではと恐れる。
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| ぼくは異界のあの世を見た |
団塊の世代とは1947〜9年の3年間に生まれたひとたち700万人のことということはご承知だろう。太平洋戦争は45年に終わったから、兵隊や軍属320万人、一般人300万人が中国などからどどっと引き揚げてきた。精力が余りに余っていたかどうかしらないが、とにかく元気よくせっせと子づくりにはげんだ結果、たいへんなベビーブームが現出した。
ぼくは6人兄弟の次男坊、4つ下の妻も6人兄弟の末っ子で、5人6人の兄弟がいるのが当たり前の世代だ。敗戦直後の子沢山は自然発生的なものだったが、戦前は兵隊や労働力供給のために、産めよ増やせよ、の大号令がかかっていた。ぼくら古希前後は産めよ増やせよの名残世代であって、それはまったく親のある種の意欲の所産というほかない。それでもぼくの父親は、5人も6人もいる子の名前をたまには間違えながらも愛情深かった。
敗戦直後、あの世に片足を突っ込み、ぼくは現世ではない異界を見ている。実際には、ぼくにとってあと10年から20年のあいだと希望的に予想している死後の世界である。それは父親がいたから生還できたことであった。病気で高熱をだして、それこそ死んだようにぐったりしているぼくを、父親は夜間背負って、10キロ離れた町の医院まで自転車で運んだ。まだ国道も砂利道だった。行く途中、父親は大丈夫か、助けてやるからな、と声をかける。ぼくは、それを聞いて大丈夫と答えたつもりだが、ピクとも動かず、声もでななかったそうだ。
そのとき、とても息苦しいかったが不快ではなかった。霧ではない、なにかうっすらと白く透明なものが確かに好き通って広がっていた。外観上は意識不明状態というより半死状態だったのだろう。2日後か3日後か目を開けると、ふとんの周囲を親や遠くからやってきた親戚一同が取り囲んでいた。ぼくの臨終に備えていたのだ。父親があきらめていたら、ぼくは生存してなかった。
だから、ぼくは小学校校から余生を送っている。団塊は大量に定年退社する。これからの人生を第二の人生というひともいれば余生と呼ぶひともいる。ぼくはなにがしかの価値ある生き方をしてきたのだろうか、とつねづね考え猛省する。団塊も価値ある生き方をしてきたであろうか、と胸に手をあてることがこれから多いだろう。ぼくは若い人に囲まれ、旅もする。なんと好き勝手な余生なのだろう。こんなに楽しんでいては、楽しい人生を知らずに理不尽に亡くなったかたに申し訳ないと思う。でも生きているんだから、まだまだ余生の飛躍をするぞ。
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